リアホナ2012年10月号  「神は人々を備えておられます」※1

「神は人々を備えておられます」※1

人生の明暗が福音へと導く─郡山地方部 郡山支部 小川貴子 姉妹

東日本大震災が起きた2011年3月11日を境に,仙台伝道部の宣教師たちは大きな変化を余儀なくされた。宣教師全員の無事が確認されてほどない3月16日,大管長会は仙台伝道部と東京伝道部の宣教師全員の,全国各地への転任を決定する。彼らは皆─ことに小川貴子姉妹を教えていた郡山支部の宣教師たちは─愛する伝道地の人々と別れることに後ろ髪引かれる思いであった。貴子姉妹は震災の翌日,3月12日にバプテスマを予定していた。

失われた家族

貴子姉妹は5歳のとき,母親を病気で亡くした。貴子姉妹の手もとには,母親と自分,2つ下の弟との一緒の写真,そして幼いころの自分にあてた母親からの手紙が残されている。「宝物ですね,今となっては。」母親亡き後,生まれたときから同居していた父方の祖母が代わって育ててくれた。

そして小学4年生,9歳の七夕の夜。「7 歳の弟がカブトムシを捕りにおじいちゃんと行ったんですけど,『わたしも行く』って言ったら,『貴子は宿題があるでしょう』っておばあちゃんに止められまして。」午後8時45分ごろ,救急車のサイレンの音がして,その後電話がかかってきた,弟が交通事故にあった,と。「おばあちゃんがすごい声出したんです。それはそうですよね。それから(わたしは)電話恐怖症にもなりました。」祖父が自転車の後ろの席に弟を乗せて歩いていて,急カーブを曲がってきた車に,弟が身に付けていた虫取りかごごと引っ掛けられたという。祖父も足を轢かれる。祖父と弟は別々の病院に搬送され,祖父にはしばらく弟が亡くなったことは知らされなかった。加害者は飲酒運転だった。

「おじいちゃんがいちばんつらかったと思います。……それからの,小学校途中から高校生くらいまでの記憶があんまりないんです。弟のことのショックがあったんでしょうか。おばあちゃんに育てられて,何不自由なく過ごしていると思っていたのですが。あの日一緒に行けば,わたしはおじいちゃんの自転車の隣を歩くので,わたしが死ぬはずだった,わたしが代わりに逝けばよかったとずっと思ってる子だったんですね。弟の方が出来も良かったし,わたし勉強が嫌いだし……ずっと悔いてたんです。」

高校卒業後,短大でグラフィックデザインを学び,講師の先生の経営していた会社から引き合いを受けてそのまま入社した。地元テレビ局からの依頼で,短い番組を制作したり手書きイラストを描いたりテロップを打ったりする仕事だった。「(当時は)仕事と家の往復で人生が終わってる感じだったんです。きっちり6時で帰る人で,ほかはつきあわないし。会社にインターネットがあったので,神様とはどんなものだろうとか,ネットで調べているような,見えないものにずっと興味を持っているような子だったので,使いにくい社員だったと思います。」そうして働いているうちに祖父が亡くなり,2001年には祖母が亡くなる。祖母は貴子姉妹が心を開いて「見えないもの」の話ができる唯一の人だった。「そういう不思議な話のできる人がいなくなっちゃったんです。だからほんとうにぽっかりと(心に穴が)空いてしまって。」祖母は信心深い人で,仏壇にお水を欠かさず,檀家である寺での座禅や,毎年の神社での初詣(本殿での正式参拝)などに貴子姉妹を連れて行く習慣があった。貴子姉妹も祖母の影響か,「小さいころ,だれに言われるでもなく,お地蔵さんにお米とか野の花とか供える子供でした。時折,自分を励ますようなもの(心の声)があるから,神様みたいなものは絶対にあるんだろうな,っていうアバウトな感覚はあったんですね。」

突然の解雇,そして病気

2009年1月のこと,2月いっぱいで辞めてくれ,と16年働いた会社から貴子姉妹は突然通告された。「ショックだったんです。(コンピューターが導入されて)今は少ない人数でできてしまうのでね。社員たちにあいさつもせず,逃げるように辞めちゃいました。─でもそのおかげで入院できたので。」貴子姉妹は以前から左顎下の腫れが気になっていたが,たばこの煙など職場環境のせいかと思っていた。知人に「仕事していないうちに」と勧められて受診すると,唾液腺に腫瘍ができる顎下腺腫瘍という病気で,摘出手術が必要,と担当医に言われる。「長年働いていた仕事をリストラになって。父親と離れ,郡山の地で独り暮らしをしていました。それで毎日何だかつらかったんです。」疎遠な父親にも何もしてあげられない,家族がいない,その喪失感が貴子姉妹を苛んだ。「人って,だれかのために頑張れるんですよね。そのだれかがいなかった。希望が持てなかったので。(顎下腺腫瘍の)3人に1人は癌だよ,って言われたとき,あ,もう(人生)終わっちゃってもいいかな,と。」

幸い,腫瘍は良性だった。2010年5月中旬に手術を受け,入院中には時折ノートに思いを記していた。2004年に始めた習慣で,貴子姉妹は折々に心に浮かんでくる「自分を励ます言葉」を書き留めていたのだった。

淋しいというのは生きている証

何をしていいか分からない

いいじゃん生きてるだけで

教会を知るずっと以前,2009年には「神様」と題する言葉を記している。

……神さまはいるんだよ

神さまはすべてのものにとけこんでいる

 青い青いお空の中に,

まぶしすぎるお日様の中に……

ねえ,きこえるでしょ? あなたの中に,

あなたの心の中にだって 

神さまはちゃんといるんだよ……

「今思えば,そのときから聖霊の導きがあったのかもしれません。」手術を境に,貴子姉妹は「光のような存在」を感じるようになっていた。

「『神様はいるんですか』,『つらいときに,あなたは今の状態で笑えますか』といった問いかけが常にあったんです。ちょうど仕事もなくなったので,それと向き合う形になって。(手術の)傷が快復するまでちょっとリンパの流れが悪くなったりして,つらくて。わたしはこれから何をするのかな,独りで生きているのは大変だな,と思っていたときでした。」

福音との出会い,そして……

2011年2月12日の夕方,貴子姉妹は,買い求めたりんごを抱えて雪の舞う郡山市街を歩いていた。そこに正面から自転車に乗った二人の若いスーツ姿の男性がやって来た。一人はすれ違い,二人目が貴子姉妹の前で自転車を止める。宣教師だった。彼はこう振り返る。「わたしの2年間の伝道の中でいちばんつらかった時期の一つだと思います。郡山は雪はさほど降りませんが風が強く,体感温度が低いので,自転車で街頭伝道するのはつらいものでした。何週間も求道者が得られませんでした。なぜこういうことがわたしにあるのですか,と神様に祈るように問いかけながら,もうアパートに帰ろう,と思ってただただ走っていました。それでもなぜか,小川姉妹が目に留まった瞬間,いつものように話しかけようと思いました。」─「彼は開口一番,『神様は信じますか?』って言ったんです」と貴子姉妹。そこで聞き返す。「『あなたの神様はどんな神様ですか?』そしたら,『明日,日曜日ですから来てみますか?』『じゃ,行ってみましょう』─そんな感じの出会いでした。」貴子姉妹の返事を聞いたその瞬間,長老は─「驚きました。恐らく人生で初めてというくらいの返答をもらって。」

姉妹宣教師を紹介され,レッスンが始まった。ジョセフ・スミスやモルモン書について,最初は半信半疑だったという。「マスコミ関係の仕事に携わっていて,歴史というのは書き残した者勝ち,っていうことも聞いていたので。取りあえず読んでみなければ分かりませんね,ということでモルモン書を素直に読んだんです。(すると,)モルモン書の中には,今までなぜだろうと思っていたことの答えが書いてありました。神様がほんとうに生きていること,正しくない生活をしていると悪い霊に惑わされること……涙が出てきて,わたしの心が喜んでいました。でもひゅーっと醒めて,こんなの書いてあるものだよ,惑わされちゃいけないよ,っていう考えも出てきたり。サタンのささやきなんでしょうね。これが波のように来るんです。でもモルモン書を読むとまた元に戻るんですよ。その繰り返しがあって。

姉妹宣教師が『ここ読んでください』ってちょうどいい聖句を教えてくれるんです。仕事もしていないので,それが心地良くて楽しかったのかもしれません。(レッスンは)けっこうすんなり行ってしまいましたね。」3月10日にはすべてのレッスンを終えた。バプテスマを明後日に控え, 「『サタンの誘惑があると思いますから』と(姉妹宣教師に)言われて『大丈夫です,明日は閉じこもっていますから』って言って。(笑)」

─そして3月11日,午後2時46分。「揺れ始めて……ちょうどモルモン書の怖い所(第三ニーファイ8章)を読んでたんですね。目の前の建物の壁が落ちたので,これは外に出ないといけないと思って,モルモン書を持って行きました。まだバプテスマ前でしょう。初めて外でお祈りをしました,『天のお父様,まだこの世界をなくさないでください』って。」

割れた皿などで足の踏み場もなくなったアパートを片付け,3日間,靴を履きコートを着たまま眠る。昼間は余震に備えてドアを開けておいた。「けれどわたしは不思議と落ち着いていました。モルモン書を読むと,余震があって揺れていてもまったく怖くなく,いつものとおり過ごすことができました。」

3月13日の安息日に郡山支部へ行ってみると,宣教師たちが集められていた。世の中の人が皆慌てているのに,宣教師たちは落ち着いて笑顔でいることに安心した。「『明日のことを思い煩ってはならない……その日はその日の苦労だけで十分である。』※2    そこを読んでいました。取りあえず今やれることをやろうと。」貴子姉妹はモルモン書を読み続け,3月20日には1回目を読み終えた。そのころの手記にこう記している。「『モロナイ10章が心のお守りになる。天のお父様,イエス様のおかげで心に平安がもたらされた。度重なる地震,そして原子力発電所の恐怖も遠ざけてくれる。イエス様のおかげでほんとうにありがとう』……こんな感じでのんきに過ごしていました。」

震災でバプテスマは延期になり宣教師たちは去ったが,「今にして思えば,良い学びの時間になりました。」貴子姉妹は福音を求め続ける。4月下旬から始まったインスティテュートに出席し,4月23日,「イエス様を感じたい,御霊のあることを実感したい」と祈った翌日,被災地を慰問した青柳弘一長老のファイヤサイドに出席する。貴子姉妹の手記にはこの日の青柳長老の言葉としてこう記されている。「どのようなときでも平安がある。試練のときこそ,めげずに神様の御手を見ることです。」─その後,指導者から何度か電話があり,イエス様について,御霊について……福音の話をたくさんしてくれた。転任した姉妹宣教師も新潟や北海道から何度も電話をくれた。

「祈りは聞かれてるんだな,と思って。イエス様は様々な人を遣わしてわたしを導かれたんです。」

家族を結ぶ力

そして,まだバプテスマを受ける以前の4月3日,郡山支部の会員にもらった「家族の記録」の用紙に,貴子姉妹は家族歴史を記し始めた。それというのも,手もとに祖母から受け継いだ先祖の記録があったからだ。「おばあちゃんはちょっと霊感のある人で,先祖に仙台藩士で戊辰戦争※2で亡くなった人がいるんだよ,って。この方が枕もとに立ったそうです。こういう人がいませんか,って調べたら,いた,っていうことで。」祖母が手ずから書いた系図もそこに含まれていた。

2011年5月21日,小川貴子姉妹は郡山支部でバプテスマを受けた。「宣教師のいない,会員だけのバプテスマ会でした。めったにないかもしれません。」そこで,会員記録を作るための書類に両親の生年月日を記す欄があった。貴子姉妹は幼くして死別した母親の誕生日を知らなかった。そこで戸籍謄本を取りに行ったのが貴子姉妹の家族歴史探求の始まりだった。

初めて東京神殿に行ったのは2011年6月23日,奇しくも母親の命日だった。ただし,このときはまだ神殿推薦状を受けていない。「取りあえず様子を見てみたい,と思って。」9月には東京サービスセンターの家族歴史部を訪ね,初めて自らの手でニューファミリーサーチに先祖の名前を打ち込み,儀式カードを発行してもらう。10月に限定推薦状を受け母親の身代わりのバプテスマ,さらに先祖の情報を打ち込み,儀式カードを発行。12月には祖母の身代わりのバプテスマ。「うれしくて涙が流れた。」……2012年6月9 日に自身のエンダウメント。「ずっと涙が止まらなかった。」そして今年8月までに,貴子姉妹は13回神殿に行き,自ら打ち込んで発行した儀式カードは130人に上った。

長い時間をかけて貴子姉妹は主に備えられていた。「ご先祖様のおかげで,この教会にたどり着くまでの準備がもうなされていたんだなあと思って。わたしはこの系図をずっと持っていたんですものね。それで,( 戊辰戦争で亡くなった)この人とおばあちゃんを,戸籍を取ってつなげてあげたい,って思ったんです。」祖母の実家のある宮城県石巻市を尋ね,謄本を入手し,先祖の墓を訪ねる。また,先祖を調べるため,疎遠だった父親に連絡し,実家にあった過去帳をコピーして送ってもらった。「でもそうすることが,お父さんにとっても,うれしかったみたいで。ほんとうに系図作業で親子がつながるんだなあ,と。」この春に父親に会ったとき,貴子姉妹の中のわだかまりはすでに解けていた。「会話が全部福音なんですね。儀式,進んだよ,とか,わたしもこんなに元気になったんだよ,って。お父さん(,普段は)たばこを吸うのに,最後まで我慢してくれました。」

「わたし毎年,七夕の日は苦しかったんですね。(弟と)一生の別れの日だし。今年の七夕の夜,ふと思いました。いつもつらかったのは,弟にさよなら,って言ってないのが大きかったみたい。弟はもう(霊界で)福音のベテランになっていると思うんです。わたしはこの地上にいるでしょう。天と地で姉弟が福音を宣べてたらすてきだな,って。お母さんとおばあちゃんを日の栄えに行かせたいと思って頑張っていたんですね。でもほんとうは,……わたしが会いたいんだね。……それに気づけました。」

─そう涙ながらに話す貴子姉妹が,これまで求めてやまなかった,失われた家族を結ぶ力がここにあった。今,貴子姉妹は「水を得た魚のように」郡山支部でひときわ明るい笑顔を振りまいている。◆