心という舞台
人は皆,神の子ですから,生まれて来るときは皆,神の良い特質を持って来ているんです。でもこの地上には,(天上の大会議でルシフェルを支持した)3分の1の悪霊が住んでいるわけです。この悪霊の影響によって人の心は悪い情報にどんどん埋め尽くされていきますね。わたしたちがこの世で受けている悪い情報の多くはサタン,悪霊から来ていると思います。
わたしの理解では,子供は生まれてから,そういう悪い情報をどんどん受けていく。そして8歳くらいになると,今度は自由意志,自分の選択によって良いものも悪いものも選ぶようになってくる。そのときに,自分が今まで受けてきた悪いものを,「悔い改め」という方法を使って自分から追い出す。バプテスマを受けて聖められて,そして聖霊の賜物を受ける。このときから,この世の悪い情報の代わりに神の言葉を,わたしたちの心に,または知識の中にどんどん入れていかないと,悪い情報はいつも攻撃してきて,良い言葉,神の言葉に取って代わろうとする。これが,わたしたちが受けている非常に大きなチャレンジだと思いますね。
神の言葉が悪い情報を追い出す
また 人は,聖なる 御霊の 勧め に 従い,
主なる キリスト の 贖罪に より,
生まれながら の 人を 捨てて 聖徒と なり,
子供の よう に 従順で,柔和で,謙遜で,忍耐強く,愛に あふれた 者と なり,
子供 が 父 に 従う よう に,
主 が その 人 に 負わせる の が
ふさわしい と される すべて の こと に喜んで 従わない かぎり,
とこしえ に いつまで も 神 の 敵 と なる で あろう。
(モーサヤ3:19)
結局,コンピューターと同じで,良い情報を入れれば良い答えが出てきます。ところが悪い情報を詰め込めば,悪い行いしか出てこない。これが,モルモン書の中でベニヤミン王が言っている「生まれながらの人」です。ですから, 「生まれながらの人を捨て〔る〕」というのは,悔い改めて,バプテスマを受けて聖くなり,そこに聖霊の賜物を受ける,そのときから神の良い言葉をどんどん自分に入れていくことです。わたしたちの心,思いというのは,一度に一つのことしか考えられない。ですから悪いもので心が詰まっていると,悪い行いしかできないのだと思います。悪い情報を全部追い出して,神の良い言葉を入れていけば,今度は善い行いができるようになる。
ボイド・K・パッカー長老は青少年に向けて,「人の思いは舞台のようなものだ」と言っています。「眠っているとき以外は,この舞台の幕はいつも上がっています。そこでは絶えず何かが演じられています。喜劇や悲劇,おもしろいものやつまらないもの,良いものや悪いものもあるでしょう。……思いの舞台が清くない小さな悪魔に占領されているようなとき,皆さんはどうすればよいのでしょうか。清く,前向きな思いで心を満たすのです。」※1
わたしたちの日々生活している社会というものはサタンから来る悪い情報に取り囲まれていますから,ほうっておくとわたしたち(の心)は悪い情報をどんどん増やしていって,結局は悪い行動を起こすことになる。そうならないためには,日々,悔い改めを通して悪いものを追い出し,また週に1度教会に集って,悔い改めの証拠として,イエス・キリストの肉の記念であるパンと血の記念である水を取って,もう一度バプテスマのときと同じ聖約を更新することです。この聖餐の儀式は非常に重要な意味を持っていますね。
毎日,家族で祈りなさい,毎日,家族で聖典を勉強しなさい……こうした預言者の勧告には,良いものをわたしたちの心に取り込んで,その場を占めている悪いものをできるだけ追い出していくという目的もあります。セミナリーもそうです。青少年はサタンの大きな誘惑を受けますので,毎日セミナリーで学ぶことによって悪い思いを追い出し,神の良い言葉で心を満たしていく,そういう目的もあると思いますね。
心の中に 光を持てば神の光に
道は明るく 影は飛び去り闇も昼と変わらん
心の中に 光を持てば
夜よは昼となり
わずらいごとは みな離れてゆかん
(賛美歌 141番)
悔い改めるとはどういうことか
これが御霊を受ける条件,わたしたちがいつも聖さを保つための条件です。悔い改めそのものがわたしたち自身を聖くしますので,週に1回ではなく,ほんとうは毎日悔い改める必要があるのだろうと思います。教義と聖約第1章31−32節で,神はどんな小さな罪をも見逃すことはない,とおっしゃっています。小さな罪,とは言い換えれば,わたしたちの心にとどまるサタンの影響力,情報のことを言っているようにも思われます。しかし,悔い改める者は赦される,とその後に続くわけです。悔い改めるとは,わたしたちの心に神の言葉を取り入れて,悪いものを追い出すという努力のことだと思うんですね。そのときにわたしたちはもう一度聖められて,聖霊の導き,御霊の導きを受けられるようになる。
自分の心という舞台の状態を吟味すること,これが悔い改めるのにとても必要なことだと思うのです。
主なる わたし は,ほんの わずか で も罪を
見過ごし に する こと は ない から で ある。
それでも,
悔い改めて主 の 戒め を 守る 者は
赦される で あろう。
(教義と聖約1:31−32)