リアホナ2012年6月号 この子たちのために,わたしを主にささげます

この子たちのために,わたしを主にささげます

─那覇ステーク首里 ワード 下地 ご家族

1945年5月の太平洋戦争末期,弱冠18歳の末日聖徒の兵士ニールは沖縄戦を戦っていた。砲弾飛び交う激戦地となった那覇の首里戦線,その丘でニールは主に祈りをささげ,「もし命が助けられ,本国に帰ることができたときには,主のみ業のために,すべてを主にささげます」※1 と約束した。

そして生還したニールは約束を果たし,十二使徒定員会会員ニール・A・マックスウェル長老として2004年に世を去るまで,主の業に献身し続けたのである。

少年ニールが祈りをささげた丘は那覇市首里石嶺町にあり,そこには今日,目印のように水道塔が立っている。

その水道塔から数百メートルの所に,首里ワードの下地ダニエル・エライヤス兄弟と母親の美智子姉妹が暮らしている。ダニエル兄弟はこの春,4年間のセミナリーを卒業した。ダニエル兄弟は末っ子で,下地家には3人の子供たちがいる。二女のセーラ姉妹はブリガム・ヤング大学ハワイ校に留学中,長女のザイナ姉妹は専任宣教師として名古屋伝道部で奉仕している。

美智子姉妹は看護師として働きつつ,女手一つで子供たちを育てあげてきた。ことに,長女のザイナ姉妹がセミナリー年代を迎えてからダニエル兄弟がセミナリーを卒業するまでの足掛け8年は,「もう,大変でした」と振り返る。

バレーボールを優先したころ

ダニエル兄弟は小学生のころからバレーボールをやってきた。スパイカーとしてのダニエル兄弟のプレーは目立ち,他校にまで名前が知られていたという。それでも日曜日には練習を休んでいた。「小さいときから教会に行っていると,やっぱり聖典は難しいし,教会は楽しくないという(思いが)あって。小学校のときには親にむりやり日曜日(の練習を)休まされてた,という感じだったんです」とダニエル兄弟は話す。

中学校のバレー部では,部員がぎりぎりの6人しかおらず,ダニエル兄弟が抜けると練習試合もできない。彼のポジションはレフト, いちばん頻繁にスパイクを打つ位置で,攻撃の要である。キャプテンを務めている責任感もあって,教会よりも部活を優先するようになった。首里ワードと与那原ワードが午前と午後の二部制で集会をしているので,日曜日の部活に参加しつつ,行ける時間帯の聖餐会に出席していた。

ところが中学3年の夏に転機が訪れる。沖縄県全体からえり抜きの選手を集めてチームを組み,中学生の全国大会に臨む,県選抜チームの一員にダニエル兄弟が選ばれたのである。「びっくりしました。奇跡的にレギュラーになって。自分よりもうまい人もいるのに……。」

2008年9月。全国大会が開催される12月に向けて4か月にわたる選抜チームの練習が始まった。「いや……過酷でした。学校以外(のすべての時間が)練習。殴られたりするので,監督は怖いし。学校はもう幸せな時間でした(笑)。練習は夜8時,長い日は11時まで。聖典を読む時間もないし,バスの移動時間とか練習前とかでずっとお祈りしてて。」もちろん日曜日もびっしり練習である。9月と10月は早朝セミナリーに行くのが唯一の教会との接点だった。

「セミナリーは,この日一日を乗り切るのに絶対必要,みたいな。やっぱり行かないと祝福をもらえない,祝福が欲しい,という思いが強くてセミナリーに行っていたんです」とダニエル兄弟。しかしその頼みのセミナリーも ,11月には終わってしまう。

不調に見舞われて

ダニエル兄弟は語り続ける。「まったく教会に関与しなくなって,2か月ひたすら毎日休みなしでバレーボールやってて。多分そのせいだと思うんですけど,12月末に予定されていた大会の1週間前にいきなり体調が悪くなったんですよ。(ジャンプも)飛べなくなって,動きも悪くなって。」監督に言われて整体など,いろいろと手を施すが原因は分からず,一向に良くならない。結局,レギュラーメンバーからも外されてしまった。さらに追い打ちをかけるように,大会直前の週末,持病の喘息の発作に見舞われる。

「土日入院して。最後なので大会は行きたいと思って,病院側にも無理言って,お祈りもして,何とか出発前日に退院させてもらいました。一応,大会には行けたんですけど,試合では最後のあたりでサーブ1回入れたくらいで。監督も, (ダニエル兄弟が)入院してたので出すのが怖かった,って言って。

(体を壊したのは)やっぱり教会に行かなくて祝福もなくなってるし。それにスポーツって休みなしでやると怪我が増えたりするし。物理的にも教会的にも日曜日は休んだ方がいいな,って思って。

久しぶりに教会に行ったときに,やっと来れた,って喜びがありました。そのころから,気づいたら自分の意志で教会に行っていました。きっかけは多分,その怪我とか入院とかだと思います。」

高校でもダニエル兄弟はバレー部に入部した。しかし,「高校からは教会優先にしようと思って,日曜日,大会以外は休ませてもらって。」キャプテンにも推されたが辞退した。

「(チームメイトの)皆には来い,って言われたんですけど,1か月くらい粘ったら,皆,理解してくれて。来ないのが当たり前みたいになって,気にしないでいてくれました。『明日の練習試合,楽しみだな。あ,でもお前,日曜日だな』みたいに何も言わなくても分かってくれて,けっこう大丈夫でした。最初に言い出すのは慣れてない人にはきついとは思うんですけど,1回言えば変わるので。」部員は20人近くいたが,ダニエル兄弟は,沖縄県選抜チームで鍛えられたこともあってレギュラーとして活躍する。チームは常に県内ベスト4に入る実力だった。

高校3年になって,インターハイを6月に終えるとダニエル兄弟は部活を引退し,大学入試の準備に専念する。「その後は模試があって教会を3回休んだんですけど,その3回とも,日曜日に模試をやって,次の月曜日に必ず熱を出したんです。ちょっとまずいな,って思って,その日からセンター試験本番まで日曜日の模試は行かないで。自分の場合は(霊的に)感じるとかじゃなくて肉体的に(教会に)行け,と言われてるみたいで(笑)。」

「もう,教会に行かないと何があるか分からない」と美智子姉妹も笑う。

親の優先順位

一方,母親の美智子姉妹はダニエル兄弟がセミナリーに行き始めた年にセミナリー教師に召された。「セミナリー連れてくのが大変でね,何で,教会のプログラムなのに毎朝けんかしながら連れて行かなければいけないんだろうと。」

「自分は男だから頑張れば準備も早くできるんですけど,お姉ちゃん時間がかかるんで。1分遅れても(母が)怒るんで」とダニエル兄弟。美智子姉妹が笑いながら再現する。「あなたがた,教師がどれだけ準備してるか分からないのっ! て。わたしが家にいると(娘が)まだ時間があると思うので(わたしは)車で待っていて。ピッピッてクラクション鳴らして。もう時間に間に合いそうにないときは,お姉ちゃんが(玄関の)ドアを開けかけるのを見ないふりしてさーっと,まずダニエルを送って。それから戻って,遅れはするんですけどお姉ちゃんを連れて行って。言いたくないんですけどついつい文句言って……ああ,わたしは母親失格だわ,とか(笑)。」

あるとき,セミナリーに向かう車の中でダニエル兄弟が美智子姉妹に「これかけて」と,モルモンタバナクル合唱団のCDを差し出した。「『ダニエルがモルモンタバナクル?』不思議に思って聞くと,『最近,それを聴いていい気持ちを感じた』とのこと。感動しました。でも,CDをかけるもう一つの狙いもあったようなんです。それは,セミナリーに行く車中でいらいらしているわたしが,タバナクルを聴いていたら文句を言わなくなるんじゃないかという(笑)……。それは見事に的中しました。また,ダニエルは車中でお祈りもするようになり,わたしは文句が言えずに穏やかな母親になりました。」

しかし実際,美智子姉妹はこの8年間,時にいら立つのも無理はないほど八面六臂の働きぶりだった。ザイナ姉妹,セーラ姉妹がセミナリー年代を終えても,今度は遠く宜野湾ワードや浦添ワードのインスティテュートに送ることになる。それがセミナリーと同じ午前6時に始まるので,5時過ぎには出発して早めに行かなければならない。「やることが多くて。教会の責任もあるし,仕事もあるし,残業も恐ろしくあって,レッスンも準備しないと……わたし何やってるんだろう……って思いました。もう,ご飯を作る気力もないんですね。いつもコンビニで朝ご飯を買うんです。塩気も多いし体に良くないし,何でわたし買ってるんだろう,って情けない気持ちもありました。だけど,最初に決めたんですよ,何を第一優先にするか,って。仕事より,教会の責任より,ご飯より洗濯より家事よりも,セミナリーが第一優先。とにかく子供を5分でもいいから,レッスンが終わっててもいいから,とにかく教会に連れて行って。それができたら,この一日は何があっても大成功,っていうふうに自分で決めて。」

「実験」によって自分で知る

そして美智子姉妹は思い出を語る。テニス部のキャプテンで,「部活で疲れ果て,なかなかセミナリーに行けなかった」という長女のザイナ姉妹が高校生だったとき。若い女性のクラスで配られた「実験」と題する教会機関誌の記事※2 を読んで,それを実行したという。「聖典を読まないで,セミナリーに行かない方が成績が上がるのか,それとも聖典を読んでセミナリーにも行った方が成績が上がるのか。記事をそばに置いて,1か月以上『実験』していたと思います。そうしたら,やっぱりセミナリー行って聖典を読む方が効率がよかったんですね。それで変わったわね,お姉ちゃん。テストがあっても教会に行くこと,聖典を読むことの大切さを感じたみたいです。

……わたしは子供に対して失礼な母親でした。勉強が苦手なザイナは大学に受からないと思ったんです。ところが,自分は実験するんだ,と言って,聖典読んで,教会にも行って。そしたら確実に少しずつ少しずつ(成績が)上がってるんですよ。そして受かったんです! あのときはね,わたしは,これは絶対に奇跡だと。でも,ザイナは地道な努力をこつこつしていたんです。」

そして数年後,総大会の説教を聞いていて,ザイナ姉妹は伝道に出ようと決意する。「まさかこの子から伝道という言葉が出てくるとは思いも寄らなかったので。この子が,こういうふうに変わるんだ……!

でも,(2011 年)3 月に出る,って言うんです。それでわたし,お金もたまらないし,無理じゃない? って言って。そこで娘について祈ったときに,『什分の一を納めている娘に敬意を払いなさい』という答えだったんです。それでわたし悔い改めて。

そうしたら,6月に(出るよう)召しが来ました。でもこの子は3月に仕事を辞めるの

で,伝道資金が足りないんです。ところが不思議と,勤め先に『5月まで働いてくれないか』と言われて。退職後,お金をチェックしたら,目標額にぴったりだったんですよ。」

怒濤のように過ぎた子育てを振り返り,美智子姉妹は今,しみじみと述懐する。

「セミナリーもインスティテュートも,毎回は行けなかったりしたんだけど,でも,行けるときにとにかく続けてると,こういう変化があるんだなあ,と思って。

セミナリーがなかったら怖いね,うちの家族。ばらばらだったような気がするな。今は何かこう,皆が一つに。……セーラも,( ハワイ)神殿がすぐ側にあって,いつも神様の福音と学びに関係があって。ザイナも伝道に出て,いつも熱い証を(手紙に)書いてきて。家族が,お互いに弱点をよく知ってるけれど,理想的な生活ではないし理想的な家族ではないけれども,皆の目が同じ方向を向いているっていうか。

まあ,すごいだめな親だった。だけど……これでいいんですよね,神様,って。」

名古屋伝道部のザイナ姉妹から届いた手紙の中には,こんな一節があった。「マミー,頑張ってセミナリー起こしてくれてありがとうね。」

下地家の子供たちは卒業したが,美智子姉妹は今もセミナリー教師を続けている。昨年から,2軒の生徒たちの送り迎えを始めた。「気持ち的には来てない子たちを全部回りたいくらい。(迎えに)行っても,(本人が)行かないと言うときもあったんですけど,とにかく行って。」セミナリーへ行くことに消極的だった子供たちが,少しずつ変化するのが見て取れる。早朝の首里の町を美智子姉妹の軽自動車が走る。マックスウェル長老の塔の横を通るとき,生徒たちに話をする。─忘れないで,沖縄戦のときこの辺は戦場だった。死んでもおかしくないすごい戦いで,マックスウェル長老がそこで生かされて……。

「子供たちを迎えに行って,最初は大変だなと思ったけど,マックスウェル長老が祈ったときのことが,そこを通る度に頭に入ってくるんですよね。わたしがやっている犠牲は小さいな,そして,わたしもこの子たちのために自分の人生の,今を主にささげます,って。」◆