末日聖徒イエスキリスト教会(モルモン教)リアホナ2012年1月号  ◉新しい年を迎えて イエス・キリストの贖いによる,喜びの3つの真珠

◉新しい年を迎えて イエス・キリストの贖いによる,喜びの3つの真珠

─七十人 青柳弘一長老が語る「日本の聖徒に今,必要なもの」

アジア北地域会長会の青柳弘一長老は,本誌のインタビューにこたえ,この教会を象徴する真珠と宝石箱のたとえ(右下参照)から話を始めた。「一昨年2月に十二使徒のダリン・H・オークス長老が日本に来られたとき,真珠と宝石箱の絵を見せてお話をされました。そして,日本の会員,指導者の皆さんは福音の中で喜びを得ているでしょうか,という質問をされたのです。1 もし皆さんが十分に喜びを得ていないとすれば,宝石箱に焦点を合わせている可能性があります,とおっしゃったんですね。」そしてこう続ける。「多くの日本の聖徒たちがバプテスマを受けて教会にお入りになって,改宗されているにもかかわらず,日がたつにつれて多くの方が教会から足が遠のいてしまっているという現実があるわけです。その遠ざかる理由にはいろいろあると思います。」青柳長老はおもな理由を次のように挙げる。

● 福音がよく理解できていないこと

● 指導者や会員たちとの人間関係のトラブル,人につまずいてしまうこと

● 戒めを守れていないこと,自分は教会に行くのにふさわしくない,との自責の念

● 何年も懸命に戒めを守り責任を果たしてきた方々が,疲れ果ててしまうこと

「こうした方々は,宝石箱,すなわち教会の外形的なことに焦点を合わせている可能性がある,とオークス長老はおっしゃいました。戒めを一所懸命守り,教会に来て責任を果たしていても,外形的なことに焦点を合わせていては,喜びも救いも得られない。わたしたちが最も焦点を合わせなければならない点は真珠であって,真珠こそ,イエス・キリストを象徴しています。イエス・キリストの贖いから来る喜びを感じなければ,わたしたちの福音の人生の中では,喜びも得られないし救いも得られない,と。」

1901年,ヒーバー・J・グラントをはじめ4人の宣教師が日本に上陸して以来,日本の教会を打ち立てるため,組織を作ることを優先して教えられてきたような印象を受ける,と青柳長老は振り返る。戦後,教会員が増えるに従って,支部からワード,地方部からステークへと組織を拡大することが教会の発展であり,また日本人の救いにつながるとの思いからであった。それはすばらしいことではあった。しかし─「今までは,教会を発展させるためには伝道が必要,そのためには一所懸命に宣教師と会員が伝道をすればいい,またホームティーチングやいろいろな活動を通して再活発化を促す,といった,ハウツーというか,どうしたらそれができるかという方法論的なことが多く語られてきていたように思います。ところがそれはどちらかというと,オークス長老の言われる宝石箱に当たる事柄です。一所懸命頑張っても,方法論だけでは,結局それに携わる方々もだんだんと疲れてくる傾向があるわけですね。

そこに必要なのが,イエス・キリストに焦点を当てた,キリストによって自分自身の心がほんとうに変化し,ほんとうの改宗をするという,聖霊を通した心の変化です。それが常に指導者,会員,家族の中になければならないと感じます。」

信仰という真珠

「優先順位の中で特にいちばん先に来るのは,イエス・キリストに対する信仰です。わたしたちはこの信仰を強めなければなりません。言い換えれば,イエス・キリストと自分との関係がどういう関係であって,イエス・キリストはわたしに何をしてくださっているのか,を知らなければなりません。」

キリスト教の社会的背景がない日本にあって,イエス・キリストとの個人的な関係を実感するのは簡単ではない。どうすれば日常的に,日本人教会員がイエス・キリストを身近に感じられるようになるのだろうか。青柳長老はこのように説く。

「いちばんの根本は,父なる神様が作られた救いの計画を,御霊によってよく理解するということです。わたしたちがこの地上に生まれてくる目的は二つあります。一つは,骨肉の体を得ることであり,もう一つは,この地上で神様に近づくために,様々な経験を通して成長することです。この経験の中に,わたしたちの力ではどうすることもできない試練というものがあるのです。」

例えば,交通事故で,天災で,最愛の家族が突然亡くなる,不治の病で身動きができなくなる,何度も病気になる,生まれてくる子供に障碍がある。あるいは,ある日突然,会社が倒産する,解雇されて収入がなくなる。また夫婦関係の悪化,離婚,親子の断絶。親の努力にもかかわらず子供が反抗して教会に来ない,子供が犯罪に手を染める,刑務所に収監される……。

「もう思いもよらない問題が起きてくるわけです。『どうしてわたしの家族に……』という気持ちが出てきます。そのときにわたしたちが感じるのは無力さなんです。自分は何ができるんだろうか。できないんです。これは,わたしたちが不完全だからやむを得ないわけです。自分は何もできない,と謙遜にへりくだることが必要です。

そして,これが神様の救いの計画の一部であることを理解する必要があります。その計画の中心はイエス・キリストであって,不完全な弱い人間が,イエス・キリストによって救われ,贖われるように計画されているのです。

この『イエス・キリストの贖い』は,わたしたち日本の聖徒がまだ十分に理解していない部分の一つだと思います。」

青柳長老は,十二使徒のボイド・K・パッカー長老の説教に言及する。「どういうわけか,キリストの贖罪は,堕落と霊の死から贖われるためにわたしたちがこの世の生活を終えるときだけに適用されると考える人がいます。しかし贖罪にはさらに大きな力があります。日常生活において求めることのできる,常に存在する力です。責めさいなまれ,苦しみを受け,苦痛を味わうときに,主はわたしたちを癒すことがおできになり……『人知ではとうてい計り知ることのできない神の平安』を経験すること〔が〕できます。」3

多くの日本人聖徒が,「キリストの贖い」とは,肉体の死からの復活と,霊の死を免れるための罪の赦し,すなわち遠い将来に来世で起こることだと考える傾向がある。「しかし,」と青柳長老は言葉を継ぐ。

「キリストの贖いの力はその二つだけではありません。わたしたちの毎日の生活の中で起こる,様々な病気の苦しみ,人から傷つけられる悲しみ,そして予想もしていない様々な試練や困難。こうしたものに対して人間の力では十分に対処し切れないとき,主を信頼するなら,キリストがわたしたちの罪と同時に,弱さから来る悲しみや苦しみをも背負い,またそれを癒してくださる,慰めてくださる。こういうキリストの贖いの力をよく理解すれば,日々の生活の中でわたしたちは,キリストの贖いを感じ,そしてキリストによって喜びを得ることができます。」

また青柳長老は,十二使徒のデビッド・A・ベドナー長老が語った,贖いの持つもう一つの側面「強くする原則」について触れる。「イエス・キリストの贖いは罪を洗い流してくれるだけではなく,わたしたちの力だけではできないことを行える強さを与えてくれるのです。」4

「主は,すべての(試練の)局面を御存じです。わたしたちはそういう経験をするために地上に来ているわけですから,どんな試練があってもおかしくない。その試練に立ち向かうことは,わたしたちの力だけでは完全にはできませんが,キリストの(贖いの)助けがあると,それができるわけです。それを経験する必要があります。それによってキリストに対する感謝と愛,そして恩というものがもっと増し加えられていくと思います。」

青柳長老はモーサヤ書2章を引用する。

「……世の初めからあなたがたを造り,あなたがたが自分の意のままに生きて動き,行動できるようにあなたがたに息を与えて日々守り,いかなる瞬間にもあなたがたを支えてくださっている御方…………そのために,あなたがたは神に恩を受けている。」(モーサヤ2 :21 ,23 )

「イエス・キリストはこの地球のすべてを創造されただけではなく,いつもこの地上にいて,わたしたちを守り,いかなる瞬間にも支えていらっしゃるんですね。これは深い愛から来るわけです。そしてわたしたち一人一人が神様の前に帰るために,贖うことができるように,わたしたちをいつも見守っておられるわけです。

わたしたちの毎日の生活の中で,すべての事柄は,イエス・キリストが中心になっていることを理解することが,ほんとうに必要だと思うんですね。」

この世で日常的に起きるつらい経験や問題に対して,祈り,キリストに頼って対処し,キリストの贖いの力を感じたとき,わたしたちはイエス・キリストの愛を感じて喜び,個人的にキリストを信頼するようになる。それが信仰である。「キリストを信じる信仰とは,キリストを信頼し,キリストから愛されていることを確信するという意味です。」5

希望という真珠

「主がわたしたちとともにいてくださる,そしてわたしたちを救い贖うために働いてくださっている。それは,キリストの愛,神様の愛から来ている─これが理解できたら,わたしたちはほんとうに皆,どんな試練にも耐えられるし,すべての試練は喜び,祝福に変わっていくと思いますね。『あなたがたがわたしの言うことを行うとき,主なるわたしはそれに対して義務を負う。』(教義と聖約82:10)これが希望なんですよ。」青柳長老は,信仰から生まれる希望についてこう話す。「キリストがいてくだされば,わたしには何でもできる。キリストに従っていけば,キリストがその責任を果たされる。そして,不完全な自分の力ではできないことも,キリストの御手の道具として働くときにできる。

キリストによってわたしたちは完全になることができるという希望を持つ必要があります。キリストによって贖われるという希望も必要ですね。

わたしたちには様々な能力も才能も与えられていますけれど,すべて主の御手の道具として働くためのものであって,わたしたちが誇るべきものではないと思うんですね。主が与えてくださった賜物です。」

慈愛という真珠

「それから,キリストのような愛を持つ必要がありますね。慈愛はわたしたちの指導性の中でいちばん重要な部分です。

この慈愛というのは,一人一人が神様の愛する霊の子供であって,神様はほんとうにこの人たちを大切に思っている,という理解から生まれてくると思います。『人の価値が神の目に大いなるものであることを覚えておきなさい。』(教義と聖約18 :10 )すべての人々が永遠の命を得るために,わたしたちも,神様やイエス・キリストと同様に人々を愛しているという,この思いが根本になければならないと思いますね。

慈愛は,実は,賜物であると教えられています。『あなたがたは……〔慈〕愛で満たされるように……熱意を込めて御父に祈りなさい。』(モロナイ7 :48 )そうすれば,キリストのような慈愛を身に付けることができます。慈愛は信仰と同じように人を行動に駆り立てます。人々に対して忍耐をし,彼らが落胆しているときに助けようとします。人々に教え,自分自身を人々に仕える機会を与えます。」

宣教師が伝道するとき,しばしば,キリストの助けによって自らの心が変わり,伝道地の人々への強い愛を抱くようになる。この純粋な愛が人々の心の扉を開くことを,宣教師は実感をもって知っている。

青柳長老は,イエス・キリストが地上で教導の業を始められたときのことを語る。「イエス・キリストは,まず人を愛することから始めたんです。ペテロ,アンデレ,ヤコブ,ヨハネ─漁師に声をかけて,彼らをほんとうに愛したんですね。そして病気の人々,弱い者たちを愛しました。彼らを慰め,癒し,愛を伝えたんです。それを見ることによって多くの人々は心を開いていく。彼らが心を開けたときに,キリストが取った行動は何かというと,教え(福音の原則)を教えているんです。

キリストのような指導者のあり方を突き詰めていくと,どうやって人々に愛を伝えるか,愛によって彼らが心を開くかどうか,ここに指導性の重要な鍵があります。」

「イエス・キリストが復活されて天に昇る前,ペテロに向かって3 回,『わたしを愛するか』と尋ねる有名な聖句があります。(ヨハネによる福音書21:15−17)ペテロは愛していますと答えるんですが,3回も同じことを聞かれて,非常にショックを受けるわけですね。でもその度にイエス・キリストは,わたしを愛するなら, 『わたしの小羊を養いなさい』と言われています。この羊を養う,ということが,人々を愛するために最初に考えなければならないことです。

例えば神権定員会や補助組織で最初に何を考えるべきか。まず組織やプログラム,活動─宝石箱を考えるのではなくて,会員の皆さんをどうやって愛するか─真珠について,よく関心をもって考えるところから始まるのです。自分たちの羊の群れにどういう羊がいて,元気なのか,病気なのか。この一人一人の羊がキリストによって永遠の命に救われるために,どういう助けが必要なのか……。そこに焦点を当てることが,愛することの始まりです。その話し合いの中で,この羊を助けるために,こういう活動を計画しよう,皆でこういうプログラムを作ろうよ……と。こういう順序で組織やプログラムや活動が必要になってくるのです。

キリストのような指導性の中でいちばん重要な部分は,羊,すなわち人々が御霊を感じられるように助けることです。人々が御霊を感じて,御霊によって,自分自身が持っている自由意志で,自分が変わるという決心,主の御心を行うという決意をする。ここに重要な鍵があるわけです。では,どのようにして,人々が御霊を感じられるよう助けるのでしょうか。

愛が先に示されなければなりません。その人の良い点を誠実に褒め,よく評価して,感謝する。その人を受け入れる。またその人の持っている問題についてよく傾聴する。愛が示され,感謝され,褒められ,そして人々が謙遜になるとき,心が開きます。人から愛を示されたら,どんな人も心を開けるんです。違う言い方をすれば,信頼関係ができるんです。そのときこそ,福音の原則を教えるときであり,御霊を感じてもらうチャンスであり,また決意が得られるときです。

福音の教義の原則を教えると同時に,それに関係する聖文を説明して,一緒に読むことが非常に効果的です。聖典というのはすべて,神様とイエス・キリストの愛の表れです。それから,その原則,テーマについて,自分の霊的な経験談を話してあげて, 証をする。自分に十分な経験や証がなければ,大管長会や十二使徒,またほかの会員たちが得た霊的な経験や証を引用してもいいでしょう。そして,必要であれば一緒に祈る。こういうステップを通して人々は御霊を感じられるようになり,御霊を受ける経験ができて初めて人は,自分の自由意志によって,ああ自分も頑張ろう,そういう気持ちになれるわけですね。でも愛によって人々の心が開かれていないと,何を教えても馬の耳に念仏です。

『御言葉を受ける者は,真理の御霊によって宣べられるままにそれを受ける……それゆえ,説く者と受ける者が互いに理解し合い,両者ともに教化されて,ともに喜ぶのである。』(教義と聖約50:21−22)

愛を感じて心が開かれ,キリストの深い贖いの力を感じて,そして御霊に感じたときに,教える者も教えられる者も心がともに喜ぶのです。」◆