リアホナ2012年2月号 人生に降りそそぐ主の愛

人生に降りそそぐ主の愛

─福音の祝福を再び家族に取り戻す  原岡桂子 姉妹 高松地方部 高松支部

1975年3月,原岡和樹兄弟と桂子姉妹がハワイ神殿へ旅立ったとき,長男の善行兄弟は2歳半だった。1ドルが360円の時代,国外へ持ち出しできるのは500ドルまで。もちろん,原岡夫妻にとっては初めての海外旅行だった。ハワイ神殿で結び固めの儀式を受けることは大きな犠牲を伴ったが,それでも原岡姉妹には「夢のようなすばらしい経験」だった。「ハワイ神殿へは団体参入で行ったわけではありません。家族3人で単独で行きました。ハワイの教会では大歓迎を受け,ハワイの兄弟姉妹に助けられた旅行でした」と原岡兄弟は回想する。「ハワイでの宿泊は大阪の会員が手配をしてくれました。まるで,短期のホームステイへ行ったような感じでした。10日間ほど仕事を休みました。当時,ハワイへ行くと会社で伝えたら同僚たちは驚いていましたね。(笑)」

若い二人が触れたハワイの教会員の信仰生活はすばらしい模範だった。たくさんの人との出会いと彼らの助けによって自分たちの幸せが支えられていると何度も感じた。神殿で結び固められた家族3人。夢が実現した瞬間だった。

原岡姉妹が改宗したのは大阪の岡町。16歳のときに英会話へ出席したが,当時のMIAの活動にひかれて,教会のことを学び始めた。その後すぐにバプテスマを受け,活発な教会員として信仰生活を楽しんだ。MIAの西日本の役員をしていたため高松へ来ることもあった。そして,高松で同じようにMIAの役員をしていた原岡兄弟と出会った。原岡兄弟が改宗したのは1970年,町中で宣教師に声をかけられたのがきっかけだった。

「みんなでキャンプをしたり,楽しい活動であふれていました。」二人に当時の教会の活動について尋ねると「楽しかった」そして,「おもしろかった」という言葉を何度も繰り返す。「基本は,おもしろいと思ったことは何でもやってやろうという感じでしたから」と原岡姉妹。「みんなで楽しく集っていた良い思い出ばかりです。わたしたちの年代の若い人たちしかいませんでした。」

実は原岡兄弟は今でも山に登る。そして,ウォールクライミングも。定年退職後はキャンピングカーを購入して日本中を二人で旅した。独身時代からの好奇心と,生活を楽しむ心は失われていない。

しかし,ハワイ神殿で結び固められた原岡家族の信仰生活には紆余曲折もあった。支部会長としても奉仕した経験を持つ原岡兄弟だったが,電気工事会社の仕事の出張が多くなるにつれ,教会から徐々に足が遠のいてしまった。息子の善行兄弟は,8歳でバプテスマを受けることなく成人となった。

長年の氷を融 かした夫婦宣教師

「わたしたちはハワイ神殿から帰ってしばらくして,病気がちの義母と同居するようになりました。以来,わたしも教会から遠ざかっていました。

3年前の冬,30年間同居した姑である義母の三回忌が終わり,ただただ疲れて横になってばかりいたころのことです。とてもすてきな夫婦宣教師の訪問を受けました。訪問してくださった中ご夫妻はとても温かく,氷を融かす太陽のようでした。わたしは夫婦宣教師の深い愛に包まれて再度,教会に集い始めました。それまで何度か行こうかと思った時期もありましたが,なかなか行動を起こせませんでした。」

原岡姉妹は安息日に教会へ集い始め,徐々に神様の祝福を感じ始めていった。「病気だらけのわたしに神権の癒しの儀式をしていただいたこともありました。驚くほど元気になってきました。」

親として子供に伝えたいこと

そしてもう一つ。大きな祝福のきっかけとなる言葉との出会いがあった。「リアホナを読んでいたときのことです。ヘンリー・B・アイリング管長のお話の中のメッセージがわたしの心を捉えて離しませんでした。『親は子供に祈ることを教えるべきです。』(大管長会メッセージ「主が心に書き記してくださるように」『リアホナ』2009年8月号,3)そして, 『いつの日か子供が家を出て家族を離れるとき,祈りは親が子供に何より持たせたい守りの盾となります』(同上)と書かれていました。

心に染み込みました。お祈りすることがほんとうに必要と思いました。東京へ行った長男のことを考えると,混沌とした東京で正しい価値観を失っていくのではないかと不安でなりませんでした。」

「わたしは3人の子供たちに何も身を守る術を伝えられずいた未熟な親だった, と心の底から反省しました。特に18 歳で上京して会社に勤めていた長男のことが頭に思い浮かびました。友達を作ることがあまり上手でなく, 知り合いが一人もいない長男が,人にだまされ,裏切られ,孤独感に打ちのめされそうになっていた日々を思い出しました。何度もつらくて電話してきては『お母さん,ぼくはだめな人間やろうか』と言っていました。必死にわたしが励ましても,時に自暴自棄になりそうな息子に慰めを与えることはできませんでした。」─やがて善行兄弟は, 「お母さんは認知症になり始めたおばあちゃんの世話でいっぱいいっぱいだからね」と言うと,それ以上心配をかけまいとしてか,悩みを飲み込むように語らなくなった。

そんな心の痛む日々を思い出した原岡姉妹は,アイリング長老のメッセージに従うことを決心した。「長男が東京に行って20年近くになるが,まだ遅くない!」「お祈りを伝えよう!」と心が奮い立った。

「息子が備え付けてくれたインターネットのスカイプを使って,高松にいる宣教師にお話ししていただこうと思いました。宣教師は,スカイプの画面に映る長男に話しかけ,教会について教え,お祈りについて一生懸命話してくださいました。」

そして原岡姉妹は,東京で宣教師の話を聞いてみないかと尋ねてみた。「少しして息子から連絡がありました。渋谷を歩いているときにドイツから来た宣教師に会ったそうです。そのとき,自分もかつて教会へ行っていたと話したそうです。」

出会いと助けと導きと

それからしばらくして,東京に住む善行兄弟から教会へ出席したとの連絡が届いた。「インターネットで教会の場所を探したようです。クリスマスの季節に教会へ行ってみようと思ったようです。

1 2 月24日の夜にクリスマスの礼拝行事を行っている所を探したら,中野ワードしかありませんでした。心穏やかなクリスマスを過ごしたかったのかもしれません。すばらしい宣教師とも出会って,その中の一人の宣教師は,聞けば,わたしが1970年に大阪万博のモルモン・パビリオンをお手伝いしていたときに一緒に働いていた宣教師の息子さんだったということも分かりました。教会へ来る度に次々と,わたしの知っている人たちに出会って,助けられて,徐々に導かれていきました。」

その後,教会へ集い始めた善行兄弟から,度々,原岡姉妹へ報告が届くようになった。その連絡は何よりも原岡姉妹の心を慰めるものだった。「宣教師とともに教会でたくさんの経験を積んでいる様子で,電話の声が日増しに明るくなってゆくのを感じました。ホームレスの方々におにぎりを作る奉仕活動にも参加し,その経験を笑いながら話していた長男は,いつのまにか教会での奉仕活動を率先して行うようになっていきました。2010年の5月にバプテスマを受け,2011年2月に祝福師の祝福を受けることができました。そして,メルキゼデク神権を受けるためにレッスンを受けていると明るく報告してくれるようになりました。」

家族に再びの夢

昨年,高松地方部大会が開催されたとき,地域会長会顧問の青柳弘一長老が原岡ご夫妻を訪問した。「わざわざわたしたちの家を訪ねてくださいました。」青柳長老と話しながら原岡兄弟は涙を流していた。「後にも先にも主人が泣いている姿を見たのはそれが初めてでした。」翌日の地方部大会には兄弟から声をかけ,ご夫婦で一緒に出席した。

そして,東京にいる善行兄弟からの願いが,父親の背中をさらに力強く押した。「お父さんから神権を受けたい。」─息子からの願いにこたえることにはためらいもあったが,青柳長老はこう励ました。「教会にそれまで集っていたかどうかは問題ではありません。神権は,父親から息子へと伝えられていくものです。」

「主人は一生懸命準備しました」と原岡姉妹は話す。そして,青柳長老や愛する人たちの励ましを受けながら夫婦で上京し,2011年6月5日,父親として息子へメルキゼデク神権を授け,長老の職への聖任を行った。長い時間を経て,再び「夢のようなすばらしい経験」が家族に訪れた瞬間だった。

「わたしも今,夢があります」と原岡姉妹は言う。「いつの日か夫婦そろってもう一度神殿へ行くことです。そして,おばあちゃんの死者のためのバプテスマを身代わりで受けさせてもらうことです。いつかわたしがこの世の生涯を終えたとき,神様のそばへ行っておばあちゃんと会って, 一緒に過ごした30年の続きをしたいと願っています。」

「長男が教会と再び出会ってから安心するようになりました。混沌としていた気持ちや生活に変化が訪れました。日々,幸せの道を照らしていただいている神様に心より感謝しています。」胸を撫で下ろすように原岡姉妹は語る。そして,善行兄弟が気づき,電話で教えてくれた言葉が今でも忘れられない。「お母さん,いろいろと嫌なことやつらいことがあっても,神様は自分たちをどこかへ導くために準備してくださっているんだね。」─「そのときは,心からほっとしました。子供を育てるうえで,たとえ子供が教会から離れた時期があったとしても,彼らの成長を考えたら,それ(神様の御心)を感じさせるための試練は必要なんだと思いました。」

気がつけば,人生のすべての出来事は原岡兄弟姉妹を「夢のようなすばらしい経験」へと何度も導くために,神様が与えてくださったたくさんの機会や助け手との出会いであふれていたのだった。◆