リアホナ2012年2月号 語り継ぐ、東日本大震災7 この世の嵐にもまれて数え上げる「恵み」

語り継ぐ、東日本大震災7  この世の嵐にもまれて数え上げる「恵み」

郡山地方部 郡山支部 小室正幸・悦子ご夫妻

19年前の1993年3月,郡山市の小室正幸,悦子ご夫妻のもとに初めて赤ちゃんが生まれた。祝福文に記された子供を授けてくださるよう, 結婚後18年間祈り続けた末のこと。その産院での最高齢出産記録であった。赤ちゃんと対面し,感激で涙を抑えるのに精いっぱいだったという正幸兄弟はこう振り返る。「わたしはこの子供は,主から『授かった』というより, 『お預かりした』と思っています。わたしたちはもう,子供はできないと思っていましたから,それも自分たちの人生かな,と話していたときでした。わたしは今でも,主から祝福された奇跡だと思っているんです。」母体は一時危険な状態に陥り, 医師からも「奇跡です」と言われた出産。 その子は貴優くんと名付けられた。

2011年3月12日は郡山地方部大会が予定されていた。この大会では,間もなく18歳の誕生日を迎える小室家の一人息子,貴優兄弟が,メルキゼデク神権に聖任されるための支持を受けることになっていた。

その前日,高校の卒業式を終え,大学入学を控えた貴優兄弟は昼食を済ませ,自宅1階のリビングで母親の悦子姉妹とくつろいでいるところだった。─午後2時46分。郡山市南部で震度6強の巨大地震が東北を襲う。「今回の地震は桁が違うなと感じました。長くて,揺れ方も半端じゃない。」貴優兄弟は母親に言われてテレビを押さえていたが,あちこちで踊るように飛び跳ねる家具すべてを押さえ切れるものではない。棚の中の食器類が全部落ち,破片が床いっぱいに散らばった。「あとで家を掃除したとき,ガラスの破片で足,怪我しちゃって。2階の部屋に大きなたんすがあるんですけど,それも倒れ,机の上の棚ももう全部倒れました。そこで昼寝していたら巻き込まれて大変な目に遭っていたかもしれません。たまたま1階でご飯食べて休んでいたから。ほんとうに命を救われました。」

道路にも家の壁にも亀裂が走り,玄関ポーチの柱は折れている。家自体,土台から数センチ移動してしまっている。貴優兄弟はこう振り返る。「2 日くらいずっと,5 分刻みくらいでけっこう大きい余震がありましたね。(余震でも物が倒れたり皿が落ちたり)普通の余震と全然違って大きかったので外に逃げろと言われて。余震が起きる度に外に逃げて。」

水道は5日間,ガスは1週間止まった。ただ幸いなことに停電はしなかった。もっともおかげで翌日,報道を通じて深刻な事態を知らされることになるのだが。

悪夢のような現実

3月12日午後3時36分,福島第一原発1号機が爆発する。テレビに流れる映像を見て,

「現実とは思えませんでした」と正幸兄弟は言う。悦子姉妹も声を揃える。「自分の中では,『うそ,何,こんなことが現実に起きた?!』って,受け止められない気持ち,それが真っ先に感じたことでした。いまだに朝,起きると,『原発の問題,これは夢なんだよね?……ああそうじゃない,やっぱり現実なんだ』とよく思うんです。そうするとがっかりしますね。」

郡山市から原発までの直線距離は約60キロ。「60キロなら放射能は大丈夫か,と話していました。」3月の事故当初, 風向きに一喜一憂しながら天気予報を見ていたという。「(原発事故の)最初の日は海風(東風),次の日に陸風(西風)に変わったので,神様がちゃんと守ってくださってる,(放射性雲が)あのまま海の方に流れていってくれたら,と……。」しかし3月15日,北風から北東の風,東風へと変わり,放射性雲は中通り方面に向かって来た。「(陸風は)そのときだけだったんだ,放射能は現実の問題として向き合っていかなければならないんだ」と悦子姉妹は覚悟する。

郡山支部の会員を含め,多くの市民が事故当初には県外へ避難した。郡山支部の出席人数もずいぶん減ってしまった。しかし小室家では,正幸兄弟の仕事や貴優兄弟の大学入学の問題もあって,自宅を離れられない状況だった。「とにかく息子は家の中にだけいさせて,必要な用事はわたし(悦子姉妹)が外に出て,という感じで,動いていましたけどねえ……。」

とはいえ,小室家には備えがあったので,極力,外へ出ずに過ごすことができた。「わたしたち姉妹からすると,教会で教えられている貯蔵がほんとうに役に立ちました。水タンクは2 0リッターを3 つ。お米は(契約栽培米を)1年分ちゃんと頼んであるし。水をストックしておいたのはほんとうに心強かった。」断水のため回って来た給水車に市民は列をなし,スーパーでも長い列ができて食料品が店頭から消えた。しかし小室家では「一度も並ばなかった。全部家にあるお水で間に合って,近所の人にも分けました。食料品も全部,備蓄していたもので間に合った。ティッシュも乾電池も。教会の教えはほんとうにすばらしい教えです。皆さんに改めて(家庭貯蔵)してください,ってお話ししたいですね。」

貴優兄弟の入学式は1 か月延期され, 5 月に大学が始まった。その遅れを取り戻すべく授業は急ピッチで進み,理系の貴優兄弟は実験に追われる毎日だ。「大学行くときも,放射能防止のためにマスクを着けて毎日行ってるんですけど,放射能に対しての恐怖というのはあんまり……実感がないんです」と貴優兄弟は言う。放射能は目に見えない。彼にしてみれば慣れ親しんだ故郷が大きく変わったようには思えなかった。郡山市街でも,道行く人でマスクを着用している人はあまりいない。

しかし12月初旬,町内会で線量計を購入し,一軒一軒回覧して自宅と周辺の線量を測定することになった。小室家の室内は0.2から0.3μSv/h ※(1 マイクロシーベルト毎時)余り。ただ,家が破損してすきま風が入るところは0.4μSv/hあった。屋外の空間線量は風向きによって3〜4.0μSv/h。庭の草むらには4.4μSv/hのホットスポットがあった。測定結果を見た貴優兄弟は初めて実感がわいてきたという。「(自然放射線の数値としては)普通はあり得ない,やっぱり原発から来てるんだなって。」

心の傷を乗り越えて

「わたしはねえ,神様に怒られちゃうと思うんですけど,しばらくの間,つぶやいていたんです。毎日毎日神様に呼びかけて,幾ら何でもこれはひどすぎる,やりすぎです,って。わたしたちは津波の影響は受けなかったですけど,南三陸町出身のほんとうに仲良くしている友達の実家のお母さんと義理のお姉さんは,お家ごと流されて亡くなったんです。ほんとうに罪もない人たちや小さな子供たちも津波で命をなくしているのにね。そういう子供たち,原発の近辺にもいるんですよ,この子たちに将来どんな影響が出てくるんでしょうか,何でここまでやらなければいけないんですか?……自分の心の中で整理がつかなかったんです。これをどういうふうに受け止めたらいいんだろうかと。」

そう語る悦子姉妹は,何か月にもわたって震災に関することに触れられなかったという。震災についての経験談と証集を編むので手記を書いてほしいと扶助協会から頼まれたとき,白い用紙を前に,記憶が途中で止まって途切れてしまった。「書けないんですよ,怖くて。」震災関連の報道写真や映像も見ることができない。「ちょっと見ただけでパタン,と閉じて,見れないんですよ,記事が。わたしたち津波で流されているわけじゃないのに,家族だって生きているのに。言葉じゃうまく言えないけれど,相当,心の奥底までショックを受けてたんだなあと思いますね。」また震災と関係のないことでも,聖餐会などの人前で話をすることができなくなった。時間をかけて気持ちを切り替え,ようやく最近, 被災時のことを語れるようになったという。「教会がなかったら多分,乗り越えられなかったと思います。聖餐会でお話を聞くだけで全然,気持ちの面で違うんですよ。これは救いだなあと思いましたね。」

試練の意味

小室ご夫妻には,「主は生きておられる」という否定できない証がある。それは息子の貴優兄弟の存在である。「この人は,少なくともわたしにとっては,主が生きておられる! ということの生きた証なんです」と悦子姉妹は言う。「ほんとうにもう,願って願って願って,これ以上どういうふうに手を合わせてお祈りしていいか分からないほど祈って祈って祈って,授かった子供なので。自分が信仰心が弱まったときに,この子を見ていると,そんなことない,わたしには証がある,って思い出させてくれます。だから正直なところ,わたしにとっては命懸けなんです,子供のことは。」

その大切な証である貴優兄弟とともに被曝の不安におびえて生活しなければならないジレンマと心痛。終の住処と思い定め,若いときから一所懸命働いてやっと建てた家屋は壊れ,郡山支部の会員で小室家が最も被害が大きかったと言われる。

小室ご夫妻はこの経験,試練の意味を問い続ける。正幸兄弟は言う,「神様は今回の大きな試練を通してわたしたちに,もっと強い信仰を持ちなさいというメッセージを送ってくれてるのかなあ,と思います。そしてそれを乗り越えたときにまた新しい光,シオンがそこにある,だからそこに向かって頑張りなさい,と。」悦子姉妹も言い添える。「なぜ神様はこんなことをされたんだろう,まだ答えは分からないんです。……でもやっぱり主に,選ばれたんですよね,学びなさい,っていうことでね。愚かなわたしは何を学んでよいか分からないんですけども。ただ主に向かって言えることは,どんなことがあってもあなたの前から離れることはありません,と。イエス様の絵を見てもモルモン書を見ても愛しくて愛しくて抱きしめたい。こんなに愛しいものを捨てられるわけがない。その思いは,震災の前も後も何ら変わりません。」

6月19日,延期になった郡山地方部大会で支持を受け,貴優兄弟は父親の手でメルキゼデク神権の長老の職に聖任された。「感無量ですね……」と言う正幸兄弟。彼は,「子供がいるということ,家族ということの幸せっていうか,生き甲斐を人生で味わうことができた」としみじみ感謝する。 小室ご家族は,人生でどんなに過酷な状況下にあろうとも,「み恵み数え上げ」※2,主の祝福をかみ締めている。◆