リアホナ2012年12月 主によって守られたかけがえのない記録

主によって守られたかけがえのない記録

津波に押し流されたコンテナ─千葉ステーク千葉ワード 塩英雄 兄弟,弘子 姉妹

塩夫妻は,現在息子家族と一緒に千葉県に住んでいる。夫である英雄兄弟は,1950年代前半に3世代にわたって改宗した,宮城県仙台市における開拓者一家の一員である。

1999年に夫妻は,家族歴史宣教師としてユタ州ソルトレーク・シティーに召された。そこで2年間の奉仕をし,その後続けて3年間の召しを受けた。

こうしてソルトレークでの生活も5年が近づき,あと少しで任期が終わるというとき,ビザ(長期滞在査証)の期限が来て,二人は1度日本に戻らなければならなくなった。続けて伝道を望んでいた二人は,「1度ビザが切れると,次に渡米するまでは1年間,自国に居住する決まりでした。その間に,新たな召しの申請のための健康診断を受けたのです。」

その結果,弘子姉妹の肺に腫瘍が見つかる。初期ではあったが,悪性だった。弘子姉妹は思い切って手術を選択し,左肺上葉部が全摘出されることとなった。

「ビザが切れて日本に戻ることになり,再度伝道に赴きたいと願って受けた健康診断がなければ,わたしの癌は見つからなかったかも知れません。帰国はこのためであったと思います。再び万全に体調を整えて主のために仕え働くため,神様がわたしに与えてくださった特別な経験であったこと,そして,主の御心に添って働くときに神様によって守られることを思い,証が強まりました。」

3か月ごとに伝道地で検査を受ける約束でアメリカに発ち,三たび家族歴史宣教師となった。その後,癌の再発の兆しは見られない。

3回目の家族歴史宣教師の奉仕を終えた塩夫妻は日本に戻り,千葉に住み始めた。そして2011年3月,東日本大震災が発生する。─「仙台にはもう実家はなかったのですが,土地を借りて,4トントラックのコンテナを購入し,荷物を保管していました。3人の子供たちの記録類やたくさんの資料,千葉に持って来られない思い出の品々を入れていたのです。」コンテナは仙台空港近くの借地にあった。─あの日,3月11日午後4時,仙台空港は12.3メートルの大津波にのみ込まれる。

あのコンテナはどうなったのか……その心配は的中した。3月23日,土地の貸主から連絡があり,コンテナが流されてしまったと告げられた。多数の犠牲者と甚大な被害が出た未曾有の惨状ではコンテナどころではない。けれども……「コンテナの中には家族の思い出がいっぱいあったのです。でも,いろんな瓦礫がアメリカの西海岸にたどり着いているなどというニュースを聞けば,もしかして自分たちのコンテナも,と思ったり……。けれど,もう1年以上たっているから,きっと海に沈んでいるのだろうとあきらめていました。」

ところが2012年5月28日の夕方,塩家の電話が鳴る。仙台の長町ワードのビショップの妻である長女からであった。撤去された瓦礫の中からあのコンテナが見つかったというのである。

宮城県職員である仙台土木事務所河川砂防課の菅原さんという方がコンテナを発見し,所有者を特定するために中を開けた。名前が記された子供たちの記録を手がかりに,まず学校を通じて調べたが分からなかった。しかし,たくさんの物の中に交じって,塩夫妻の娘さんが岡山伝道部で伝道したときの写真があり,裏に伝道部と教会の名前が書いてあった。菅原さんは,仙台市にも同じ教会があることを調べて,仙台伝道本部に連絡してきた。伝道本部では塩夫妻の知り合いの夫婦宣教師が菅原さんの電話を受け,コンテナは塩夫妻のものだと判断し,長町ワードのビショップに連絡したのであった。

「連絡があったときには,ほんとうにびっくりしました。まさか見つかるとは思ってもいませんでしたから。」

塩夫妻は早速,菅原さんと連絡を取る。彼は非常に親切な方であった。塩夫妻が後日仙台市へ行くとき,コンテナの置き場所へ案内してくれることになった。

弘子姉妹の旧姓は菅原である。仙台土木事務所の菅原さんとメールで訪問日程のやり取りをする中,家族歴史の話題を持ちかけると,菅原さんはわざわざ,彼自身の先祖の出身地を教えてくれた。弘子姉妹の先祖の出身地と同じ地域であった。血縁が直接つながっているかまでは分からなかったが,不思議な縁を感じた。

2012年8月,塩夫妻は,コンテナの中身の確認と整理のため仙台へ赴いた。コンテナの側面には瓦礫が激突したらしく大きな穴が空いており,長い間水の中に浸かっていたため内部は湿っていた。醗酵してアンモニアが発生しているので長時間コンテナ内にいないように,との注意を受けた。

そのときのことを弘子姉妹はこう語っている。「コンテナが置いてある場所は作業員の方によって生い茂る草が刈り取られ,容易にコンテナへたどり着けるようになっていました。ほかにも同じようなものが3基くらい置いてある中の1つがうちのものでした。瓦礫の中から見つかったのはほんとうに奇跡だと菅原さんは言われました。コンテナ内部の下の方60cmくらいの物はすべて,長い間泥水に浸かっていたため使用できない状態でしたが,不思議なことに,『できれば見つかるように!』と願った記録類が泥もかぶらずに見つかったのです。」4トントラックのコンテナだったため土台が高かったこと,また気密性が高かったことが幸いしたらしく,中のダメージはさほどではなかった。

「神様や先祖たちの思いが,孫や皆の思い出を救ってくれたと感じました。」思い出の品々─ 伝道に出た子供たちの手紙,写真,小さいころの記録や日記,成績表,賞状や夏休みの記録,絵など,まさに家族の宝物─それらはコンテナ内部の上の方に重なっていて,奇跡的にも水没を免れていたのだった。「父が孫娘の成人式に着せるようにと買ってくれた生地でわたしが縫った振り袖,残っていてくれたらなあって思っていた─それもまた無傷で,泥にもまみれず残っていたのです!」

「神様は,ひどく壊れてしまったうちのコンテナを,確かにある方法で,安全な状態で震災の中からその場所にそっと置いてくださった。実際に行ってみて,現実を見て,ほんとうにこれは奇跡だと思いました。家族にとって記録はいちばんの宝です。尊い命がたくさん失われた震災ではありましたが,わたしたち家族にとってこの経験は,神様に対する信仰の礎の一つになりました。元気をもらい,新たに進もうという目標ができました。菅原さんというまじめで誠実な方ともお会いできて,系図のことを分かち合い,伝道をすることができました。神様からの祝福だと思います。

わたしたちの信じる信仰の度合いに応じて神様が奇跡を行われることはほんとうだと思いました。いろいろな形で奇跡を頂いていることに,ほんとうに感謝しているのです。」◆