リアホナ2012年12月 救い主の贖いの力を全身に浴びて

救い主の贖いの力を全身に浴びて

すべてを失ったとき,はるかに大きな喜びが─横浜ステーク横須賀支部 木村民雄 兄弟

今や国民の1,000万人以上が罹患していると言われている糖尿病。「初めのうちは,痛くもかゆくもなかった。」横浜ステーク横須賀支部の木村民雄兄弟はこう振り返る。しかし,管理を怠ると糖尿病は静かに進行し,様々な合併症が体中のあらゆるところに出現し,命を脅かす。

1992年,木村兄弟は市の健康診断で糖尿病と診断された。36歳のときだった。9年後の2001年には壊疽により右足のひざ下から切断,その後次々と,網膜症手術,心筋梗塞による手術が3回,左足のひざ下から切断,人工透析のためのシャント造設術……この11年間で10回以上の入退院を重ねてきた。

義足で教会に向かう

重度の身体障碍を持つ木村兄弟は,2002年より横須賀市にある障碍者(内部障碍者・肢体不自由者)の自立支援を目的とした後保護施設に入所している。

普段は車いすで生活をしている木村兄弟だが,安息日になると,車いすをわきに置き,ロフストランド型クラッチという杖を使って教会に出かける。握りの部分が前腕まで伸びていて,前腕にあるカフに腕を入れることで体重を支えることができる杖だ。車いすと違って体力的には厳しいが,独りでバスに乗って教会に行くには好都合だから,この杖を使っている。

毎週日曜日,朝8時前には施設を出発する。施設を出ると,すぐ目の前にJR線の踏み切りがある。踏み切りの幅は約5,6メートル。銀色のレールが数本,溝を添わせて光っている。木村兄弟は杖の先端が溝に入り込まないように,レールの上で滑らないようにと,慎重に横断する。一歩一歩が真剣だ。静かな街中でもJR横須賀線は思いのほか頻繁に走っている。転倒すればどうなるかは,木村兄弟がいちばんよく知っている。

「初めのころ,義足で外に出るのは,ほんとうに怖かったです」と木村兄弟。だから,出かける前には必ず祈る。神様に身を託して出発する。

教会までの道のりは,施設からバス停まで約150m,5つ目の停留所で降りて,さらに200m進む。普通の人なら20分ですむところを,木村兄弟は1時間以上かけて歩く。狭い歩道には緩やかな傾斜があり,舗装されているものの地面はつぎはぎだらけのでこぼこだ。

「片足が義足のときは,反対の足で踏ん張れるので,まだよかった。」しかし,両足を切断してからは,歩行時の心身への負担は一気に倍増した。2本の義足で移動するのは,神経を使い,エネルギーを消耗する。木村兄弟はできる限り体力を温存するため,腕にもたれかからないよう姿勢を正し,太ももから義足を振り出していく。それでも,20mほど歩くと息が切れる。ぜーぜーと荒い呼吸になり,苦しくて一歩も進めなくなる。肩で大きく呼吸をしながら落ち着くのを待つと,また木村兄弟は歩き出す。心筋梗塞の既往など気にしない。福音への思いが勝っている。それを10回以上繰り返すと,教会が見えてくる。帰りはタクシーを使うが,「行きは自分で頑張る」と決めている。その道は,信仰が試される「肉体的な試練の道」だと思っている。

一日で足の指が真っ黒に

木村兄弟は1956年生まれの56歳。和菓子屋の4 人兄弟の末子として生まれた。「甘やかされて育ちました。ほんとうに依存的でした。」独立して店を構えるときも,結婚のときも親がかりだった。その和菓子屋も10年くらいは繁盛した。が,やがてバブル崩壊とともに,売れ行きは激減。資金繰りに苦しむようになると,夫婦関係もぎくしゃくし,妻は家を出てしまった。残された木村兄弟は,借金返済のためあらゆる手立てを講じるも,結局は倒産,店を手放す。糖尿病の治療どころではなかった。眠られず,夜中に海岸線をさまよう日が続いた。

そして,糖尿病を放置して10か月後の2001年,木村兄弟は右足指の異変に気づく。「一日で足の指が真っ黒になっていました。」血の気が引いた。

大慌てで病院に電話した。意識は朦朧としていた。すぐに救急搬送され,集中治療が始まった。そのときのヘモグロビンAエー1c※1 は15%(正常値は6.5%以下),昏睡寸前の高血糖がずっと続いていたことを表していた。3週間の絶食と持続点滴,インスリン療法で血糖値が落ち着くのを待って,右ひざから下の切断術が行われた。切断部分の治癒には長期間を要し,入院は5か月に及んだ。

全財産を失い,親族や友人とも疎遠になった木村兄弟には,もはや帰る場所はなかった。働くこともできない。ソーシャルワーカーの紹介で,2002年,この施設に入所することになる。

過去の失敗にさいなまれた日々

畳み掛けるように訪れた喪失の数々。木村兄弟は,「自分が障碍者となって入所したこと,すべてを失ったことを,最初は受け入れることができなかった」という。しかし,すべてを失ったことを悟って初めて,財産や足を失ったことよりも,もっとつらく,耐え難い苦しみを木村兄弟は味わうことになる。

「いちばん苦しかったのは,親の犠牲のもとで造ってもらった店や家も,自分の愚かさによって失ったことでした。」親の犠牲を思えば思うほど,いたたまれず,自分の愚かさを思い返して身悶えした。甘えん坊だった木村兄弟が,今になって分かる親の愛や犠牲,自分に寄せてくれた信頼や期待。それを踏みにじってしまったことへの自責の念。良心にさいなまれ,その苦しみは2,3か月間途絶えることがなかった。

「何より夜が怖かった。」木村兄弟は暗闇を恐れた。横になり目を閉じると,今までの行いがよみがえってくる。消すことのできない事実。不安が高じての過呼吸に何度も苦しんだ。眠りは浅く,たいていは朝の3時4時まで施設の外にあるベンチで過ごし,頭がぼうっとするまではベッドに入れなかった。

「神様から全否定されていると思いました。」もとより,「愚かさを重ねる勇気や,命を絶とうなどという気持ちはなかった」というが,苦しみに向き合う絶望と不安の毎日だった。

すべて失ってよかった

月日が流れ,心が落ち着きを取り戻すと,木村兄弟は「このままではいけない」と思うようになった。そうした矢先,復活優勝を遂げた有名なマラソン選手がこう語るのを耳にする。「これまでわたしは,何度もマラソンをやめようと思いました。だから,今,暗闇にいる人は,絶対あきらめないでください。希望を持てば,それは必ずかなえられます。」

その言葉は,打ち砕かれた木村兄弟の心に優しく染み込んできた。自分に言われているような気がした。「生まれ変わりたかった。これまでの愚かな状態から,残された人生だけでも正しく生きたいという改心の気持ちでいっぱいでした。」「ここを出よう。なるべく自分の力でやってみよう。」本気でそう考えた。

折しも,そのころには糖尿病性網膜症がかなり進行しており,失明を避けるために緊急の手術を受け,次いで,精密検査で見つかった心筋梗塞の手術も2回に分けて行われることになる。そして,心筋につながる血管にステント※2 を入れる最初の手術を終えると,木村兄弟は心も体も随分楽になったような気がした。

「ここから施設まで歩いてみよう。」

そう思い立ち,大型量販店から20分ほどの道のりを帰る途中だった。木村兄弟はJR横須賀駅前で二人の宣教師に声をかけられ,立ち話をする。忘れもしない,2007年3月のことだった。教会に関心はなかった。が,木村兄弟は後日,施設の作業所で自分で焼いた湯飲みを宣教師にプレゼントしようと教会に出向いた。そのとき,宣教師から『救いの計画』のパンフレットを受け取る。

一気に読み終えると,長年苦しんできた木村兄弟の霊が震えた。

「イエス・キリストが,人類のために罪を贖ってくださった。わたしたちのために,苦しみを受けてくださった。」

初めて知る喜びのメッセージ。「癒された」と感じた。なぜかよく分からないが,涙があふれて仕方なかった。うれしくてたまらなかった。「イエス・キリストはこんな自分のために苦しまれ,わたしの罪をも贖ってくださった。」頭より先に,心底悔いた霊が理解した。

心に広がるイエス・キリストの贖いの効力。あれほど苦しんだ「心の中にあった悪い思いが,すべてなくなっていくのを感じました。」そして,「救われた」と思った。神様の存在を確信した木村兄弟は,2007年5月,バプテスマを受けた。

「打ち砕かれた心で,まじめに残りの生涯を生きたいと思った時,イエス様は手を差し延べてくださいました。」「悔い改めるチャンスを下さいました。」

すべてを失ってよかった。失ったから謙遜になれた。「少しでも健康な体が残っていたら,わたしは神様を知ることができなかった。」すべてを失い,暗闇で苦しんだからこそ分かる,暗闇の中で光る真実。罪深かった分,「主の贖いの犠牲を,ほかの人よりもっと感謝できます。」木村兄弟はそう力を込めて言う。

わき上がる力

2度の手術を受けたものの,心筋梗塞の経過は思わしくなく,1年後,心臓バイパス手術※3 が行われることになった。両太ももから血管を心臓に移植する大手術だ。12時間を要した。手術後は,人工呼吸器の強制換気による呼吸管理が行われ,「全身は管だらけだった。」

気管に入った管を抜くとき,看護師の声が遠くの方で聞こえた。「血や分泌物がたくさん出ますが,それを飲み込まないで。大丈夫ですか。」

「はい。わたしは神様がいてくださるから,大丈夫ですよ。」声は出なかったが,木村兄弟は心の中でそう返し,うなずいて見せた。

と同時に,朦朧としていた意識に生気が戻り,力づくのを感じた。わき上がるエネルギー。体の底から突き上げてくる生命力。神様から「力を与えられた」と確信した。体はぼろぼろに弱っている。しかし,霊は活気にあふれ,喜んでいる。「自分は生かされる」と宣言された気がした。手術後の苦しみに耐えられる強さを受けた。

「苦しんでも,次には,必ず反対のものが来ます。」「失ったと思っても,それ以上のものが与えられます。」苦しみは続かず,「苦しみの後には,はるかに大きな喜びが与えられます。」穏やかな笑顔で,木村兄弟は繰り返し証する。

これからも糖尿病の治療は一生続く。現在,1日に3回,食事の前にはインスリン製剤※4 の自己注射をし,血糖も頻繁に測定している。食事療法を守り,20錠ほどもある内服薬もきちんと飲んでいる。それでも,糖尿病は容赦なく全身をじわじわとむしばんでいく。2010年2月には,左下肢切断術。半年前には,糖尿病性腎症が進み,人工透析を受けるためのシャント造設術※5を受けた。その血管には石灰化が見られ,近々に人工血管置換術が必要と言われている。「これでもか」とばかり,木村兄弟に苦難が及ぶ。でも,木村兄弟は屈しない。「イエス様の贖いの犠牲を思うとき,わたしの苦しみは和らげられます。」主の贖いへの感謝と証はふくらむばかりだ。

伝道は特権です

改宗して2か月後に支部宣教師,7か月後には伝道主任に召された。「これからどうやって社会とかかわっていけばいいんだろう。」働く場を求めていた木村兄弟の心を,主は御存じだった。今は「福音を知らない人に自分の経験を伝えることが,社会とかかわること」だと思っている。宣教師からの要請があれば,教会へ出向き,求道者のレッスンに同席する。教会への道のりがどれほど大変か─しかし,木村兄弟はそれをおくびにも出さない。証する機会は「自分に与えられた特権」だと思っている。最近では,イエス・キリストの贖いの力を知り,それを証すればするほど,福音からもたらされる希望が木村兄弟の胸にふくらんできた。

ハンディは両足の義足だけではない。左眼は緑内障を併発し,視野は中心部の20%だけだ。その周囲は真っ白で何も見えない。右眼も鮮明ではない。腎臓の機能は予断を許さないレベルにまで低下し,とても週に何度も外出できる段階ではない。そうとう苦しいはずなのに,「なんとか頑張っています」と微笑を絶やさない。主が,木村兄弟を支えておられる。

先週より1%でも聖きよくなりたい

ここ1,2年,神様に近づこうとすればするほど,ふさわしさに自信を持てず,苦しむことがあった。でも今は,それが聖めの過程であり,「悔い改めだけは,絶対あきらめてはいけない」と思っている。

「主の贖いに頼って悔い改め続ける,それが主の贖いを受ける方法です。」「正しく生きるならば,この世で苦しんだとしても,次の世では計り知れない報いを受ける。これがわたしの信仰です。」木村兄弟は,目に見えるものだけを見ていない。

人生で多くのものを失ったけれど,この福音だけは失いたくない。「自分の最善を尽くし,『よくやったね』と言われたい。」だから,「先週より1%でも聖くなりたい。」その一心で,今日も木村兄弟は立ち上がり,教会に向かう。

線路の隙間から伸びた雑草が,晩秋の風に揺れながら,踏切を横切る木村兄弟を見送る。大きく吐く息と杖をつく音が,朝の人気のない路地へと続く。主が歩まれた道を思い見ながら,木村兄弟は黙々と「希望の道」を歩んでいく。◆

何より夜が怖かった─

※2─ステント:動脈硬化で血液の通り道が細くなった部分を拡張するために血管へ入れる人工の管

※3─心臓バイパス手術:動脈硬化を起こした血管部分をまたいで心筋への血行を再建するための手術