リアホナ2012年8月号  今井一男兄弟が逝去される ─日本人最初期の専任宣教師の一人

今井一男兄弟が逝去される ─日本人最初期の専任宣教師の一人

2012年6月24日,戦後の教会の開拓者である今井一男兄弟が横浜の病院で逝去された。享年82であった。

 今井兄弟は1930年に東京都世田谷区で生まれた。19歳のときに五反田駅で宣教師と出会い,1949年9月17日に改宗する。バプテスマを施したのは戦後初期の宣教師であるウェイン・R・ハーレン,確認の儀式はポール・C・アンドラスによるものであった。

 その後,1950年の朝鮮戦争勃発によりアメリカ人青年が戦場に駆り出され,日本伝道部では宣教師の数が不足する。当時のヴァイナル・G・マース伝道部会長は大管長会に書簡を送り,専任宣教師として日本人を召したいと願った。こうして今井兄弟は1952年11月3日,進駐軍の会員たちから資金援助を受け,6人目の日本人宣教師としてマース伝道部会長より任命を受け,マース会長から贈られたスーツを着て広島へと赴任した。

 今井兄弟は翌年,定例集会が行えるよう広島支部を整えた後,群馬県の高崎へ転任した。1954年11月3日には,2年間の任期を終えて日本伝道部から帰還する。

 1年後の1955年11月,日本伝道部は北部極東伝道部と改称され,今井兄弟に聖霊の賜物を授けたポール・C・アンドラスが伝道部会長として赴任する。アンドラス会長は今井兄弟を伝道部職員として雇用した。

 1957年4月15日,今井兄弟は金子美保子姉妹と結婚。司式者はアンドラス伝道部会長であった。今井ご夫妻はその後,一男二女に恵まれる。

 1960年,日本人として初の地方部会長に召され,東中央地方部を管理する。地方部会長会の第一顧問は大塚昌治 ,第二顧問は鈴木正三であった。

 1965年7月23日,ハワイ神殿を訪問し,美保子姉妹と夫婦の結び固めを受ける。

 1969年7月22日には同じくハワイ神殿にて長女,長男の2人の子供たちと結び固められる。

 1970年3月15日,アジア初のステークとして,日本東京ステーク(田中健治 会長)が組織された際には,ステークに6つあったユニットの一つ,東京ワードの監督(現在のビショップ)に召された。

 1977年には,教会の実務機能を担う管理監督会の地域管理本部(PBO)が組織された。今井兄弟は初期の教会職員として雇用され,財務部長,総務部長などを歴任した。 

6月26日に家族葬が行われたが,教会員のために,「今井一男兄弟を偲ぶ会」が9月1日(土),横浜ステークセンター(白楽)で午後5時から行われる。◆