リアホナ2011年3月号 福祉のABC 10

福祉のABC 10

 (教会福祉部)

正義と憐れみ

人生は試しの時期です。そのため,わたしたちは絶え間なく何かしら選択するよう迫られています。重大な選択もあれば,そうでないものもあります。永遠にかかわる選択もあれば,ほとんどあるいはまったく無関係のものもあります。わたしたちはすべての選択が「裁きの日にこの民を責める明らかな証とな〔り,〕これらの言葉によって,この民はそれぞれ皆,自分の行いが善いかそれとも悪いか,その行いに応じて裁かれる」(モーサヤ3:24)時が来ることを知っています。そのときには一人一人が憐れみを求めて懇願するでしょう。しかし,ある人々は正義(当然の報い)を受けざるを得ないでしょう。アビナダイが教えたように,「将来,すべての人が主の救いを見る時が来る。あらゆる国民,部族,国語の民,民族が目と目を合わせて見て,神の裁きが公正であることを神の御前で認める時が来る」のです(モーサヤ16:1)。

正義

モーセの律法には「罰則」条項が含まれていました。「しかし,ほかの害がある時は,命には命,目には目,歯には歯……をもって償わなければならない。」(出エジプト21:23-25)人々が律法を破ったときに正義を満たすために,さばきつかさが立てられました。アルマはコリアントンに正義がもたらす長期的な結果について次のように教えました。「正義によれば,贖いの計画は……人々が悔い改めるという条件がなければ成し遂げられない。」(アルマ42:13)

憐れみ

イエス・キリストは憐れみの律法の創始者です。イエスは憐れみを教え,憐れみの生涯を送られました。主の完全な生涯と永遠の贖いのおかげで,主だけがわたしたちのために憐れみを主張することがおできになります。主は,わたしたちの裁きの場で何と言われるかをすでに教えておられます。「父よ,罪を犯したことがなく,あなたが御心にかなうとされた者の,苦しみと死を御覧ください。あなたの子が流した血,すなわち,あなた御自身が栄光を受けるために,あなたがお与えになった者の血を御覧ください。そのために,父よ,わたしの名を信じるこれらわたしの兄弟たちが,わたしのもとに来て永遠の命を得られるように,彼らをお救いください。」(教義と聖約45:4-5)世の贖い主は,わたしたちが憐れみと正義(当然の報い)のどちらを受けるかを裁く鍵を持っておられます。

この世における正義と憐れみ

世の中にはたくさんの苦しみがあります。食べ物や飲み水,衣類,住まいがなく,医療支援や基礎教育を受けられない人々がいます。貧困,病気,家族の不幸,飢餓,自然災害,戦争やテロの影によって苦しむ人々がいます。境遇や誤った選択,罪が原因で苦しむ人々もいます。わたしたちは「忠実であ〔る〕」ように教えられています。「わたしがあなたを任命した職において務めなさい。弱い者を助け,垂れている手を上げ,弱くなったひざを強めなさい。」(教義と聖約81:5)人生の試しには,わたしたちがほかの人に対し,正義と憐れみのどちらで接するかを見ることも含まれているのです。

ベニヤミン王はこのようにはっきりと警告しました。「あるいは,あなたがたは次のように言うかもしれない。『その人は自分でその不幸を招いたのだから,わたしは手を差し伸べない。彼が苦しまなくて済むように食物を与えることはしないし, 持ち物を分けることもしない。彼が罰を受けるのは当然なのだから。』しかし,おお,人々よ,わたしはあなたがたに言う。 このようにする者はだれでも,大いに悔い改める必要がある。」(モーサヤ4:17-18)ベニヤミン王は熱意を込めて次のように勧めています。「さて,もしもあなたがたを造られた神,あなたがたが自分の命についても自分の持ち物と能力のすべてについても頼っている神が,あなたがたが必ず与えられると信じて,信仰をもって求める正当なものを,何でもすべて与えてくださるとすれば,ましてあなたがたは,自分たちの持っているものを互いに分かち合って当然ではないだろうか。」(モーサヤ4:21)

わたしたちは教会員として,日々神の深い憐れみを受けています。ベニヤミン王は信仰,悔い改め,罪の赦しを通して神の栄光を感じた人々に語りました。自分の経験したことを思い出し,謙遜になり,毎日祈るように勧めました(モーサヤ4:8-11参照)。これをするなら,「いつも喜びを感じ,神の愛で満たされ,またいつも罪の赦しを保てるであろう。……あなたがたは……乏しい人に自分の持ち物を与えるであろう。また,物乞いがあなたがたに請い願うのに応じないで,追い払って死なせるようなことをしないであろう。」(モーサヤ4:12-16参照)周りの人々に憐れみを示すとき,わたしたちは今日も,いつでも,自分の生活に贖いの力が及んでいることを認めるでしょう。「あわれみ深い人たちは,さいわいである。彼らはあわれみを受ける」(マタイ5 :7 )からです。◆