リアホナ2011年3月号 News Box ラッセル・N・堀内兄弟が逝去される

News Box ラッセル・N・堀内兄弟が逝去される

──日本東部伝道部会長,東京神殿会長を歴任,戦後日本の教会の発展を支える

ラッセル・N・堀内兄弟が,88歳の誕生日を10日後に控えた2011年1月15日にユタ州オレムで逝去された。

堀内兄弟は1923年1月25日,ハワイ州マウイ島のラハイナにおいて堀内光隆と堀内(旧性小山)菊代の息子として誕生した。生まれ育った家庭は貧しかったという。

ラハイナルナ高校を卒業後,ホノルル職業訓練学校に通い,電気技師の資格を得た。第二次世界大戦の勃発に伴い陸軍に入隊し, 合衆国陸軍情報部に配属される。1945年,日本が降伏してからわずか14日後に東京に到着,進駐軍の兵士として軍務に携わる。その年の11月には,エドワード・L・クリソルド(後に再開される日本伝道部最初の伝道部会長)の紹介で,日本の開拓者である奈良冨士哉兄弟と出会う。戦後の伝道が正式に始まる前から,末日聖徒の兵士たちは,戦前の日本人聖徒たちとともに安息日の礼拝を行い,堀内兄弟はその集会をよく助けていた。

また進駐軍時代に,生涯の伴侶となる森愛子 姉妹と出会い,19 47年8月6日に結婚。除隊後ハワイに戻り,さらなる勉学の必要性を感じて,大学進学を決意する。

宣教師に勧められてブリガム・ヤング大学に入学し,1953年に首席で卒業,卒業生総代を務めた。カリフォルニア大学バークレー校で政治学修士号を取得。カリフォルニア州サンマテオ短期大学で教鞭を執った後,ブリガム・ヤング大学プロボ校に迎えられ,後に地理学部長に就任。ワシントン大学から地政学博士号を授与されている。退職時には,社会科学部の依頼を受けて,卒業式で講演を行った。

学生たちには物事を単独で狭義にとらえるのではなく,物事相互の関連性を常に考慮し検討する広い視野を持つよう指導した教師として,長く記憶されることだろう。その活気ある講義スタイルが評価され,カール・G・メイザー優秀教育者賞が授与されている。

教会においては,1970年から1973年にかけて初代の日本東部伝道部会長として奉仕し,退職後の1988年から1991年にかけては日本東京神殿の神殿会長として,妻は同神殿のメイトロンとしてともに仕えた。またBYUアジアワードのビショップとして奉仕し,MTCの支部会長を2度務めている。

堀内兄弟は,気取らない,素朴なことに喜びを見いだす人だった。週2回の芝刈りを楽しみ,庭で採れた作物を人に分け与えることに大きな喜びを感じていた。友人や,教え子,伝道部会長時代の宣教師,近所の人たちが絶えず訪ねて来るおかげで,堀内兄弟の家はいつもにぎわっていた。訪れる人たちは皆,「頑張りなさい」「貯金しなさい」と励まされ,その恩恵を受けてきた。

釣りが好きで,東京神殿会長時代には,神殿の前(有栖川公園)に池があると聞き,そこで釣りができると楽しみに来日したが当てが外れた,とユーモアを込めて周囲に語っていた。釣りの腕前は名人級で,だれも一匹も釣れないときでも,たいていいつも漁獲量制限いっぱいまで釣って家に持ち帰ったという。そして何よりも,彼は人を捕る漁師であった。つまり,人の話に耳を傾け,助言し,自信を失った人を励まし,進路を指導し,達成を祝ってあげる人だった。社会に影響力のある人々や、財界人との交際があったが,自分の貧しい生い立ちを決して忘れたことはなかった。堀内兄弟は非凡な流儀と信念を持った平凡な人だった。◆