リアホナ2011年7月号  東日本大震災と教会②

東日本大震災と教会②

「悲しむ者とともに悲しみ,慰めの要る者を慰め……」(モーサヤ18:9)

傾聴ボランティアの見た被災地

◉末日聖徒の傾聴ボランティアは,香りの良いアロマオイルを使ったハンドマッサージで気持ちを癒し,そこから被災者の心を開いて,語られる悩みに耳を傾ける。初めて石巻市の避難所を訪れた際,ハンドマッサージを施した姉妹がいたことから輪が広がったという。このユニークなスタイルを確立した傾聴ボランティアチームは,キリスト教ということで警戒されたり,「ハンドマッサージによる傾聴」が行政のボランティア受け入れの想定外であったりと,様々な障害に遭いながらも,石巻市を皮切りに宮城県沿岸部の各地,そして宮古支部を拠点に岩手県沿岸部へと,試行錯誤を繰り返しつつ奉仕の場を広げていった。

◉そんな傾聴ボランティアの現場を伝える渾身のレポートが,藤沢ステーク湘南ワードの小林久子 姉妹より寄せられた。小林姉妹は看護師としてキャリアを積み,現在は老人福祉施設で看護師として勤務している。被災後約1か月の4月8日から14日にかけて1週間,傾聴ボランティアとして被災地で奉仕した。彼女の手記から抜粋して掲載する。(編集室)

4月11日宮城県石巻市

住吉中学校体育館(221名収容)……ヘアカットボランティアと同行し傾聴ボランティア

湊みなと中学校(55名収容)

法山寺 幼稚園……傾聴ボランティア

わたしたちは現役の美容師さん数人とともに住吉中学校体育館に向かった。同じ黄色いモルモンヘルピングハンズのジャケットを着ていると,連帯感や親近感がわく。美容師さんは体育館のステージの上で場所を設けて,被災者の髪をカットし,わたしたちは二人一組になって,仕切りのない体育館を練り歩いた。

傾聴の手がかりとして「手のマッサージさせてもらってもいいですか」と声をかけると,「手だけなの? 腰が痛いんだけど」「足もいいの?」の返事が返ってくる。津波から逃れるときに受けた傷,瓦礫の撤去や後片付けのため慣れない力仕事で痛めた腰や足,疲労や運動不足,睡眠不足でがちがちになった首や肩。ほとんどの人が体の不調を抱えていた。

「どうですか。体が少し楽になりますよ。」横になっている人にも声をかけると,何人かは「それじゃあ,お願いしようかしら」と少し辺りをはばかりながら腕をめくる。真向かいに座って,手を拭いてからオイルをのばす。そして,心を込めて丁寧にマッサージをしていると,たいていは地震や津波から逃れたときの話が彼らの口から出てくる。公平感があるように手だけのマッサージにしようとの方針だが,わたしは足や腰,肩などに強いニーズを感じたときには,なるべく彼らの望みにこたえるようにした。肩こりの人には肩こり体操を一緒にする。腰痛の人には腰痛体操をする。そうすると,周りで見ている人も,体操をやり始めるのだった。わたしは個々に合った運動のニーズが非常に高いことを感じてきた。運動は心を活気づけ,病気や寝たきりを予防し,痛みを和らげる効果がある。避難所生活の中に,運動プログラムが日課として取り入れられていけばいいなと感じた。

仕切りのない体育館は全体が見渡せる。前の方では70歳を超えると思われる車いすの女性がぽつんと座っていた。彼女の前には子供たちが学校で使う勉強机が置かれていた。立ち上がろうとしないように,転倒しないための防御だろうか。彼女のもとに行くと,プンと尿臭がした。床ずれができていないだろうか。

マッサージをしている間,彼女はわたしが着ているジャケットの文字を見て,「イエス・キリストの教会なの? イエス・キリストはなぜ十字架にかかったの?」と尋ねた。「イエス・キリストはわたしたちのために十字架にかけられました」と答えるとまた,「どうしてイエス・キリストはわたしたちのために十字架にかけられたの?」「イエス・キリストは十字架にかけられて,どうして死んでしまったの?」と繰り返した。おそらくは認知症である彼女に説明したとしても,理解には限度があるだろう。また,わたしたちは傾聴ボランティアとして入ることを認可されたので,宣教はご法度だ。でも,この女性はなぜイエス様が十字架にかけられて苦しまれたのかと,車いすの上でずっと問いかけている。わたしは彼女の言葉で主が苦しまれたことを思い出し,神聖な気持ちになった。

26歳の若い女性がいた。「マッサージはいらないから,話を聞いてください」と声をかけられ,わたしは彼女の悩みに耳を傾けた。彼女は心が病んでいて,心療内科の治療を受けていると告げた。「天井を見てください」と彼女は言った。屋根の中央が何メートルにもわたって大きくひび割れており,余震の度に恐怖におびえる毎日が続いているらしい。「認知症の母親は好き勝手なことをしてすぐどこかに行くので,いつも見張っていないといけない。大嫌いだ。ほんとうは顔も見たくない。母の笑っている顔を見ると吐き気がする。仕事もしたいけれど,母親を見ていないといけないので,何もできない」と,先にマッサージを受けて満足げな顔をしている母親に背を向けた。

そうは言っても,彼女は母親を見捨てることなどできず,現実から逃避することはできない。また,毛布を隔てた隣には,右にも左にも男性がいる。若い女性にとってどれほど不安で苦痛なことだろう。彼女は以前に父親や男性から虐待を受けた経験があり,男性と一緒にいるだけで怖くて仕方がないと言う。彼女は声を低くして,実は夜になるとお酒を飲んで外から帰ってくる人がいて,その人は毎晩大声で怒鳴るので皆がびくびくしているのだと話してくれた。ホームレスの人,気の強いおばさんたちもいて,非常な気兼ねや気遣いで疲れきっていると彼女はこぼした。

15時半を過ぎると,後片付けをしていた人たちが戻って来る。避難されている人の生活やプライバシーを考えて,通常ボランティアの活動は夕方までだ。それから朝までの密室の空間でどのような生活が行われているかは,わたしたちには知り得ないことだ。ただ,普段なら一緒にいるはずのない人たちと,仕切りのない一つのフロアで生活することには,どれほどの苦痛が伴うことだろう。

この避難所には,日本看護協会から看護師が派遣されていた。わたしはあいさつし,どのような活動をしているのかを尋ねた。彼らは,主に床ずれのケアや医療処置の必要な人のケアをしていると言った。1 チーム3 人で3 日ごとに入れ替わるので,なかなか心のケアまでは手が回らないジレンマがあると打ち明けてくれた。彼らが大事な部分を引き受けてくれているので,わたしたちはこのような活動ができる。ありがたいと思った。

衝撃の湊中学校  

湊中学校までの道のりは,これまでのそれとはまったく違った。ほとんど人に出会わない。一面の瓦礫と濡れた地面。灰色の景色。死を匂わせる光景。

湊中学校に到着したとき,まさかここは避難所ではないだろうと思った。中学校の入り口には緊急車両が1,2台。入り口付近にはたったの二人。ぬかるんだ地面,大きくひび割れた校舎,真正面に見える中庭には数え切れない車が突っ込んでいた。とにかく人の気配がない。

わたしたちは傾聴ボランティアとして入れるかどうかを打診するためにここにやって来た。でも,はたしてこの建物に避難している人などいるのだろうか。わたしは本部の人に交渉する役を買って出て,美香姉妹がわたしに同行してくれることになった。

車から降りると,まず辺り一面に充満している悪臭にくらくらっとなった。目に飛び込んできたのは,1階の天井からむき出しでぶら下がっているコード類。建物の内外を走る激しいひび割れは,今にも崩れ落ちるのではないかとの恐怖を募らせた。2階くらいまで水没したのだろう,運び込まれた汚泥がずっと跡をひきずっている。わたしは様々な死骸や汚物をほうふつさせる腐乱臭に吐き気を催し,胃が締め付けられるのを感じた。2階の階段で履物を脱ぐと,わたしたちは4階まで昇った。臭いは校舎にこもり,むしろ増しているように感じられた。わたしはたまらずポケットからマスクを取り出した。

4階に本部があると聞いていたが,本部室にはだれもいなかった。さらに奥に進むと,ようやく「北海道職員」の腕章を着けた一人の男性に会うことができた。派遣されてやって来たその人は,「わたしにはよく分かりません」と前置きしてから,「傾聴ボランティアはまだ必要でないと思います」と答えた。確かに,それ以前の状態であるのがはっきりと見て取れる。調理室と書かれた教室では,ボランティアと思われる女性が3人立っていた。彼女たちにも動きがなく,全体に時間が止まっている感覚だ。

日赤からのボランティア二人を見かけたときには,ほっとした。彼らは市販の風邪薬などを手渡し,北海道職員の人に衛生面での注意をしていた。「最近ようやく清掃ボランティアが入りましたから」とのことだったが,帰京後新聞で読んだところによると,トイレは非常に不衛生で,ダンボールにおむつをのせて,その上に用を足している現状が続いているらしい。仮設トイレはもちろんない。このままでは感染症の集団発生は必至だ。

わたしたちは「不足している物資はありますか」と質問を変えた。最近ようやく給水車が来たが,また間隔が空いてしまうのではないか不安だ,との答えだった。他の避難所と比べて圧倒的に物資が不足しており,すべてがほとんど手付かずでいる状況に,とりあえずわたしたちは物資を届けることを約束した。

わたしは被災者がどこに避難されているのか,気づかなかった。「ここじゃない?ここしかないわよね。」美香姉妹はわたしたちが何度かその前を行き戻りした大きな部屋を指さした。言われてみれば中が薄明るく,そのような気もする。しかし,前後のドアはきっちりと閉ざされ,人の気配はまったくない。動きも物音もない。ここは海岸線に近い非常に危険な区域だ。今にも崩壊しそうな建物,外気の臭いがそのまま充満するこの劣悪な環境の中で数十人が暮らしていることは,あまりにも衝撃的な事実だった。

わたしたちが車に戻ると,待っていた仲間たちは明るく「どうだった?」と尋ねた。時間がかかったために,ボランティアの交渉が成立したと期待していたらしい。わたしは「傾聴ボランティアなんていう段階ではない。みんな一度見てきて」と答えた。この現状を見ないで帰るわけにはいかなかった。仲間はぬかるんだ地面に降りて,めいめい偵察に出かけた。

車がゆっくり出発すると,重い空気が垂れ込めて,皆黙りこんでしまった。ここで避難されている人たちはいったいどんな思いで生活されているのだろう。体中を覆った臭いと五感に焼きついた印象がわたしの心を暗くさせた。とても人が住めると思えないこの場所で,被災されて体も心も傷ついた人が暮らしていることを思うと,いたたまれなかった。

わたしたちはさらに次の場所へ急いだ。瓦礫をかき分けて車が通れるだけの道を作るのに,どれほどの時間と労力を要したことだろう。車の高さ以上の瓦礫はきっちりと角があり,まだ詰まれて真新しいように思われた。瓦礫のクランクを曲がると,四方はまた瓦礫の山。積まれた瓦礫の隙間は思ったより空間があり,目を懲らすと何かを発見しそうで,迷路のような道を間違いなく前進してくれる長澤兄弟の運転をほんとうにありがたいと思った。無事にここを抜け出したい,皆の共通した思いだった。

津波警報から逃れる

壊滅状態になった所からだいぶ登ったところに,法山寺幼稚園があった。約束の予定時間をはるかにオーバーしていたが,「遅くなってもかまいませんのでお願いします。」ということで,この避難所におじゃますることになった。

ちょうど炊き出しを終えたところのようだった。避難所にはストーブがたかれていて暖かく,和やかな雰囲気に満たされていた。

手前の方から順に進んでいくと,眉を剃った若い奥さんに「わたしにもやってちょうだい」と奥の方から声をかけられた。自分の家は流されたけれど,昼間はほかの人のために泥かきや瓦礫を取り除くのを手伝っているという。しゃがれた声が疲労のピークを物語っていた。

隣には彼女のたくましいご主人が食事をしていて,たばこをふかしながら陽気な会話をしていた。彼はその時のことを話し出した。3月11日,地震の後,津波警報が流れると,多くの人が車に乗ってこの高台を目指した。彼も車に乗り込んだが,渋滞がひどかったためほかの道を迂回してどうにかここにたどり着くことができた。津波はこの高台のぎりぎりまで押し寄せ,渋滞に巻き込まれた車はほとんど津波に飲み込まれてしまったという。彼はそれまで潜水夫の仕事をしていて,海の底に潜っては,船にひっかかった網を直したりしていた。彼は津波から逃れることができた。でも目の前でおぼれていく人たちを見て,自らの危険を顧みず水の中に入り,10人の人を助けた,と話してくれた。

わたしは彼にもハンドマッサージを勧めた。なかなか首を縦に振らなかったが,ついにはわたしの前に座ると,手を差し出した。わたしは黙ってオイルを塗り,そのたくましい手に感謝をしながらマッサージを行なった。彼も黙っていた。ふと目を上げると,それは穏やかで優しげな表情でくつろいでいる様子が目に入った。目には光るものがあり,わたしはそれを正視してはいけないと感じた。

わたしはハンドマッサージをしながら,その人がどのようにしてほしいのかが徐々に分かるようになっていた。こちらが押すと相手も押し返す。どの位の力で,どの角度で,どこをどうしてほしいかを,手と手を通して会話するのだ。その分,沈黙の時間が増えるようになっていく。わたしの思いが確かに届いているのも感じた。

そのとき,また地震速報が鳴った。身構えると,数秒してガタガタと地震が来た。ラジオから震源地は東北地方太平洋沖で,福島で震度6が観測されたとの速報が流れた。ここ石巻沿岸にも津波警報が出され,津波到着は18時20分とのこと。この高台の下は,全域が津波で壊滅状態になった場所だ。わたしたちは津波到着時間を過ぎてから帰路に着くことに決め,続けてハンドマッサージをしながら傾聴をしていた。

18時20分,津波が到着した時間を確認して,わたしたちは避難所を後にした。あのたくましいご主人と奥さんはとても若いのに正座をして両手をつき,頭を床につけて何度も「ありがとうございました」を繰り返した。先に訪問した住吉中学校でもそうだった。どの人も正座をして,深々と頭を下げて御礼を言われた。手を合わせようとする人もいた。小さな親切にこれほどの誠意と礼節をもってこたえてくださる。何という人たちだろう。許されるなら毎日でも来て,どんな仕事でもいいから手伝わせていただきたいと心から願った。

車が出発したときには辺りはもう真っ暗で,雨が降っていた。高台から降りると,皆の緊張が高まっていくのを感じた。わずかな光が時に見え隠れするが,周囲はほとんど真っ暗で,車も通っていない。わたしたちはこれから,来るときに通って来たあの瓦礫の道を通り抜けなければならなかった。ふと怖くなった。もし先ほどの地震で瓦礫が崩れて通行止めになっていたり,津波が瓦礫を押し流していたら,わたしたちは帰れなくなるかもしれない。暗闇の道なき道は危険で,万一迷ってしまったり道中で地震や津波に遭おうものなら二次災害は免れない。

瓦礫の道を抜け,地震で損壊して重量制限のある橋を渡るとき,運転していた長澤兄弟が「水かさが増していますね」と言った。橋から川を見下ろすと,大震災で潮位が増した水面はずいぶん上がり,今日の小さな津波の影響もあるのだろう,水は橋の近くまで迫っていた。その黒の濃淡に不気味さを感じた。

橋を渡ると「逃げ切った」という安堵感が包み,車内でも会話が増えてきた。ラジオは何か所かのがけ崩れや通行止めを伝えていた。20時30分,ようやく上杉ワードに到着。わたしたちはもっと早く帰って来なければならない。あのとき石巻市には避難勧告が出ていたことを,わたしたちは後から聞いた。

教会に戻ると分かち合いの時間があった。その後,わたしたちはアパートに戻り,カップめんの食事を済ませると,反省や感想を話し合った。12時前にまとめ役の戸浪姉妹から電話が入った。明日は全員で湊小学校,6時50分集合。

4月12日宮城県石巻市

石巻市立湊小学校 2~4階 

手作りクッキーを持参,傾聴ボランティア 

今日は全員で湊小学校を訪問した。湊小学校のリーダーの男性は避難所全体をよく把握し,管理されており,わたしたちボランティアを快く受け入れてくださった。

彼は心のケアの必要性を認識されていて,できれば全員に傾聴ボランティアをしてほしいとのことで,親切に案内と紹介をしてくださった。わたしたちは各階に分かれて行動した。

大きな体育館と違って,小さな教室は幾分ほっとする。最初に入った教室には,ベッドに横になった男性がいた。津波から逃げるときに負傷したのが原因で,ほとんど寝たきりになっている。今回の震災と避難所の生活により,多くの人が寝たきりになるのではないかと,今日もわたしは危惧した。わたしはまずこの男性と奥さんに,次いで隅っこでじっと座っている女性,そして横になって目を閉じている女性に声をかけ,マッサージをさせてもらった。彼女は眠っていたわけではない。ほとんどのお年寄りが,だれとも話さず,何もせずに一日を過ごしている。彼らの辛抱強さと礼儀正しさ,柔らかい物腰,謙虚さは世界が驚嘆するとおりだ。が,お年寄りからすべてを取り上げたままではいけない。一緒に歌ったり,運動したり,遊んだり,皆のために働く役割があったらどんなにいいだろうと思った。

別の部屋では,脳性麻痺の女の子が車いすで寝かされていた。透き通った肌がまったく外に出ていない生活を思わせる。ご両親はどのようにしてこの少女を津波から守ったのだろう。薬は手に入っただろうか。ほこりっぽい環境の中で状態は悪化しないだろうか。この少女の今後を案じた。

マスクを着けていなさい

この日,わたしは機嫌の悪そうな女性と話をした。彼女は若いときにこの町にお嫁に来て,1年4か月前に夫婦で頑張って家を建てた。両親と一緒に住んで,親孝行をしようと思ったのだ。その家も流されてしまい,多くのものを失った彼女は,行政の対応の遅さにいらだち,ひとしきり不満を並べた。

そのとき,また地震速報が鳴った。

一瞬,緊張で身構える。しばらくして横揺れ。ラジオは福島で震度6の地震を観測したと告げていた。強い余震が連発している。人々の不安に追い討ちをかける。「今回の地震は,まだ本物ではないのよ。」「宮城沖地震はまだ来ていない。もっと大きな地震が来ると,みんな思っているのよ。」彼女は続けた。本当の地震がこれからもっと恐ろしい形で来るということを,この地の人々が覚悟していることに, わたしは非常に驚いた。それでもこの地にとどまろうと決意しているのだ。

わたしは黙ってハンドマッサージを続けた。しばらくして,「どこから来たの?」と彼女は尋ねた。「神奈川です。」そう答えると,「気をつけなさいよ。マスクを着けていなさい。二重にしていなきゃあだめよ。」「ボランティアに来てくれてありがとう。危ないから絶対海岸の方を歩かないようにね。用がないときには海岸を通らないように。」まるで自分の子供に言い聞かせるかのように,真剣にわたしを諭した。

「復興できたとしても,自分は生きているかしら」と彼女はつぶやいた。「まだ55歳なんですよ」と言う。明日はわたしの55回目の誕生日。わたしと同い年だ。「わたしたち同い年なんですね。あなたにお会いできてほんとうによかった。」わたしはお礼を言った。

「どうか,お体に気をつけてくださいね。」そういって彼女の両腕を握ると,わたしの目から不意に涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。被災して疲れ切っている同い年のこの女性は,健康で何不自由ないわたしの体を案じて,心からいたわってくれる。まったく逆ではないか。彼女も泣いた。最初の固い表情とはうって変わった,穏やかで情愛に満ちた表情だった。この出会いを境に,わたしはすっかり涙もろくなってしまった。

4月13日宮城県亘理 町

亘理町立亘理小学校体育館

亘理町はさらに災害対策本部が確立していた。わたしたちは受付でボランティア登録を済ませると,全員が本部のオリエンテーションを受けた。二次災害に遭わないように,不測の事態に備え,ボランティアの安否が把握できるようにとの配慮だ。たくさんのボランティアが次から次へと入り口にあふれる。若者もいるし,わたしの年齢の人もたくさんいる。外国人もいるし,若い女性もいる。駐車場ではボランティアが設営したテントが張られている。わたしたちには教会堂や宣教師アパートがあるので,いかに恵まれていることかと思った。

わたしたちは亘理小学校,中学校,高校の3つに分かれて活動した。わたしは亘理小学校だ。いつものように,運動場に設置された仮設トイレに入る。節水のために少量ずつポンプを踏んで水を流す。手を洗う水はなく,消毒液で洗浄する。わたしは個人用にも消毒液を持ち歩いていた。

体育館の中を手分けしてくまなく歩き,ハンドマッサージを勧める。たくさんの人と接しながら,わたしはだんだん言葉数が減っていく自分に気づいていた。手を通してのコミュニケーションで語り合えるので,多くの言葉は必要ない。被災された方が黙っている場面も増えてきた。心地よい自然な沈黙だ。

おらあ,うなぎを開いていたんだ

70歳くらいの男性が,背中を丸めて座っていた。この避難所では低い仕切りを使っていたので,どういう家族単位で避難されているのかがひと目で分かる。彼には家族がなく,ここでは独りのようだった。彼に何があったかは知らない。彼は傍目にも非常に穏やかな表情でじっと座っていた。「マッサージさせてもらっていいですか。」声をかけると,「はい,お願いします」の丁寧な返答。オイルを温めて,腕全体にゆったりと広げる。マッサージを始めると,その人はしばらくわたしの手の動きを見ていた。

「おらあ……」小さな声で何か話そうとしている彼に気づき,わたしは顔を近づけた。彼は懐かしむかのように言った。「おらあ,うなぎを開いていたんだ。」わたしはうんうんとうなずき,その手を優しくなでながら,「よく働いてきたんだね。この手でうなぎを開いていたんだね。ほんとうにありがとう。」そう心の中で語りかけた。それは彼の生きがい,誇り,喜び,彼のすべてだったのだ。その仕事で家族を養ってきたのだ。胸がいっぱいになった。「神様,どうかこの方にわたしの思いが伝わりますように,慰めと平安がありますように,あなたの愛を感じられますように。」わたしは手に精いっぱいの祈りを込めた。

すると,ぐすっ……鼻水をすする音が聞こえた。そっと目を上げると,彼の目に涙があふれている。祈りを通して心が通い合い,わたしの思いが確実に伝わったと感じた瞬間だった。「おらあ,おらあ,うなぎに串を刺していたんだ。」わたしは慌てて下を向き,またうんうんとうなずきながら手を滑らせた。わたしも涙をこらえていた。神様の愛がこの空間を満たしている。この人が元の仕事に就けるかどうかは分からない。わたしは,明日も明後日もまたここに来たいと思った。「どうかお体を大事にしてくださいね。」別れの言葉に,彼は丁寧に何度もおじぎをした。その後彼はまた元のように,このうえなく柔らかい表情で背中を丸めた。

娘は津波で流されました

この日わたしは初めて,身近な肉親を津波で亡くされた人の話を聞いた。その女性は75歳くらいだろう。マッサージを始めると彼女は突然,わたしの目を見て,しっかりと話し出した。「わたしの娘は津波で流されました。」うなぎ焼きのおじさんと別れたばかりで,わたしはとても敏感になっていたこともあると思う。彼女があまりにも唐突に,淡々とわたしの目を見つめて語るものだから,わたしは思わずぽろぽろっと涙をこぼしてしまった。

かばんからタオルを取り出して涙をふいていると,「こんなことを話してごめんなさいね。泣かせちゃったわね」と彼女は言い,その娘がいかに親孝行であったかを話し始めた。わたしに話すというより,むしろ娘が自分にしてくれたことを一つ残らず思い出して,それを自分に言い聞かせるような,そんな話しぶりだった。「口数の少ない子で,あまり遊びにも行かない子だった。」「でも,どんなに忙しくても,週に2回は必ずわたしのところに来てくれていたんです。」彼女は愛する娘の葬儀を済ませてきたばかりだった。

ぬぐっても涙があふれるものだから,わたしは途中で何度もマッサージをする手を止めざるを得なかった。周りの人は何事かとわたしをちらちら見ている。まるで反対だ。彼女は前と同じ言葉を繰り返した。娘がどこにも遊びに行かず,毎週欠かさず自分たちのところに来てくれたということを。わたしは繰り返される言葉を,涙しながら黙って聞き続けた。わたしは純粋に,混じり気なく真心から,悲しむ者とともに悲しんでいる自分に気づいた。同時に,わたしが悲しむことによって,この女性が慰めを感じていることにも気づいた。おそらくこの女性に寄り添うために,主がわたしにともに悲しむ心を授けてくださったのだ。

彼女はこれからも何度も思い返して悲しむだろう。しかし,やがて娘が遊びに行かなかったことが不憫でなかったことも,母親のもとに毎週通うことで娘に負担などかけていなかったことも,それどころか,それが娘の喜びであり,心からの望みであったことをはっきりと知る時が来るだろう。わたしは,彼女がこのような娘を育てた自分に満足を覚える日が来ることを信じている。

追い詰められた親子

わたしはマッサージをしながら「わたしは看護師です」と名乗るようにしていた。そうすると,たいてい心に秘めていた健康上の不安を打ち明けてくれる。その人の体から心へと入っていける。

帰る時間が近づき,周りを見回すと,体育館の後ろの方で二人の仲間がしゃがみ込んで話をしている姿が目に入った。その時間がとても長かったので,帰りを催促しようと少し顔を出してみた。

40歳くらいの母親と13歳の娘さんがいて,母親は娘の体のことで大変悩んでいる様子だった。娘はこれまでに喘息による10回の入院歴があり,学校でもいじめられていたらしい。新学期が近づき,学校が始まると,娘はまたいじめられるのではないかと不安で仕方ない,というのが彼女の悩みだった。大震災の影響で,娘は毎日のように過呼吸症候群にも苦しんでいた。余震の度に発作を起こしては病院に駆けつけるらしい。それでも,赤ら顔のその少女は隠し立てなく何でも話す明るさがあり,甲斐田兄弟と桐沢姉妹にすっかりなついて甘えていた。

わたしは初めから母親の視線がとても気になっていた。彼女はずっとわたしの方を凝視し,目をそらさない。娘のことを相談しているが,その視線が病的な感じなのだ。わたしは彼女のそばに近づき「お母さんの体こそ,大丈夫なんですか。わたしはお母さんの方が心配です」と率直に話した。「実は……」彼女は話し始めた。「わたしは大変な病気を持っていまして……膠原病で治らない病気なんです。」彼女は,娘のことを過度に思い悩む自分の方こそ助けが必要な状態にあることに気づいていなかった。ここにきて彼女は,自分自身のことについて堰を切ったように話し出した。「ご自分も病気なのに,それは大変で

したね。ところでご主人は?」と尋ねると,「お父さんは腎臓が悪くて,透析に行っているよ。糖尿病もあって,この前も危なかったんだよね」と娘が即答した。あり得ない! と思った。家族全員リスクが高く,病院にいるべき人がこの寒くて窮屈な避難所にいることに,わたしは違和感と憤りに似たものを覚えた。避難所の生活は,彼らにとってあまりにも過酷で危険だ。

わたしはせめて母親の心を少しでも楽にしてあげたかった。「お母さん,娘さんが甘えてきたときに抱いてあげるので十分なんですよ。」娘のことが心配で,いつも守り,かばい,抱き締め,囲ってきた母親は,自分の体をいたわることがなかった。そのことが様々な悪循環を生んできた現実。「甘えてきたときに抱き締めてあげるだけで,それだけでいいんですね。」「ずっと抱いていなくてもいいんですよね。」母親は何度もわたしに尋ねた。「どうか,ご自分の体も大事にしてくださいね。娘さんはお母さん思いのすばらしいお嬢さんですよね。娘さんはお母さんが思っているよりしっかりされていると思います。お母さんも知ってらっしゃいますよね。」母親の表情は緩み,うんうんとうなずいた。娘はわたしたちに,実は母親が過剰に心配するのが窮屈で嫌だった,何もできなかったということを打ち明けた。

この女性には専門家による心のケアが必要で,おそらく震災前から心の病があるのだと思う。震災が傷口をさらに大きくし,生活をより困難なものにしている。苦しいことはこれからもあるだろうけれど,母親には代わってやれない,子供が自分で乗り越えていかなければならない厳しい現実がある。

最後に,わたしは母親を固く抱き締めた。母親はわたしにしがみついて泣いた。これまで甘えることなどなかった彼女が,今度は娘のようにわたしに抱かれた。甲斐田兄弟と桐沢姉妹は娘をしっかりと抱き締めてくれていた。

この家族に適切なケアが行われるようにと心から願った。同時に,わたしたちの無力さを思い知らされた。

4月14日宮城県女川町

女川第1小学校,勤労青少年センター……傾聴ボランティア,老眼鏡を届ける

この日,わたしたちは全員女川へ向かった。これまで何度か通った石巻を通り過ぎると,津波がなめ尽くした瓦礫がさらに延々と続いた。瓦礫の向こうには,静けさを取り戻した海がひたひたとそこまで来ている。今地震が起きれば,この海はまた押し寄せてくるのではないか。わたしは猜疑心を持って海を見ていた。

車に同乗していた仲間たちは,この事実を残しておこう,友人に伝えようと,しきりにシャッターを押している。わたしは今回の旅にカメラは持参しなかった。今もその気になれなかった。本当なら美しい海岸線を楽しんでいたはずの行程も,ここまでできるかと思われるほど完璧な破壊の爪跡。鮮やかな緑や青に恵まれたこの地は一面平坦な灰色と化し,よそから来たわたしでもその事実を受け入れ難い。

被災された案内人

女川に着くと,6 0歳くらいの現地の女性が案内役をしてくれた。ご自分も被災されたにもかかわらず,ボランティアの募集に進んで応募し,案内役を買って出たという。瓦礫の中に緊急に作られた道をぬっていくと,彼女は「あそこが流されたわたしの家があった所です」と左側を指差した。その先を見詰めると,四方八方どこまでも瓦礫の山。その女性の言葉に,わたしたちは何と答えていいのか窮してしまった。自分の不幸をそのように案内できる人がいるだろうか。女性は淡々と普通の表情で,時に笑顔を交えながら案内を続けた。

すべてが瓦礫となった今も,彼女はそれぞれを「ここは〇〇です」と説明した。わたしたちには瓦礫としか映らない光景も,彼女にとっては,つい先日までそこに存在した美しい自然や町並みが重なっているのだ。わたしは瓦礫を,単なる撤去する不要物としてではなく,尊厳をもって扱わなければならないことを感じた。

横倒しになって鉄骨がむき出しになった建物には,瓦礫が幾重にもぶら下がり,遠目にはそれが引っ掛けられた藁,押し込まれたような弱々しい紐のようにも見える。その上には転がることもできずに置き去りになった船や車。アララテの山頂に置かれたノアの箱舟を思い出した。

高台には女川町立病院があった。標高15mの高台にも津波は押し寄せて来た。波は17mくらいの高さまで来たとその女性は語った。想像もつかない威力,破壊力が,何度も行きつ戻りつ,この町を破壊し尽くした。「ここからがいちばんよく津波の被害が一望できます。」彼女はまるで観光名所を案内するかのように,こともなげに言った。自分に遠慮などせずに,この悲劇を直視するようにとわたしたちを促したのだ。

車はさらに海岸線を走った。「向こうに見えるのが女川原発です。ここから約20kmです。原発事故が起きたら,ここはもうだめですね。事故がないのを祈るだけです。」この地域の人たちは津波による壊滅的な被害を受けたうえ,原発事故への不安も抱えているのだ。

しばらく車を走らせて行くと,眼下に海が広がった。彼女は目を細めて語った。

「いつもはとってもきれいな,とても穏やかな海なんですよ。でも一度牙を剥いたら,どうしようもなく恐ろしい。今はこんなに静かですけどね。」この地の人は海を怒ってはいなかった。やんちゃな息子を見るような目で海を見て,「どうしようもないものね」と言う。海は何も悪くない。海は絶対で,人々はこれまで自分たちを海に寄り添わせて生きてきたのだ。多くを奪った海は,同時に,これまで彼らを豊かに養い,育て,守ってきた。その奥深いきずなはわたしたちには分かり得ない。被災された人に「いちばん食べたいものは?」とだれかが尋ねると,「やっぱりここで取れた刺身だね,最高にうまいんだよ。」そう返ってきた。

喜ばれた老眼鏡

教会は1,000個の老眼鏡を用意し,それをプレゼントすることに決めた。わたしたちはこれまで何日間か注文を聞き歩いて届けてきたが,今日は避難所で受付の場所を設け,希望する方に直接お渡しすることになっていた。

小学校でいつものようにハンドマッサージをしていると,「老眼鏡が必要な人は玄関に来てください」の案内に,あっという間に教室ががらんと寂しくなった。やがて彼らはざわざわと帰って来ると,真っ先に新聞に向かった。「見えた,見えた」の声が上がる。「眼鏡のアイザワですって。一流のところよ。うれしいわあ」と大好評だ。感謝の言葉が飛び交う。これほど老眼鏡は必要とされていたのだ。教会がこんなにタイムリーにすばらしいプレゼントを思いついたことにうれしくなった。

避難所回りを終え,わたしたちは帰路に就くことになった。仮設トイレの後ろには仮設住宅の建設が進められている。よく見ると,建っている地面が大きく割れている。かなりの戸数の建設が急務であり,他に建設する適切な場所も見つからないのだ。津波に襲われる心配のない高台は限られており,相次ぐ余震でできた地割れは工事を遅らせているようだった。

最後の働きを終えて車に乗り込む前に,わたしは案内役をしてくれた女性に感謝とお詫びの気持ちを伝えたいと思っていた。車中での時間,わたしたちは被災者として彼女を十分に気遣ったとは思えなかった。写真を撮ったり,軽率な会話の中には,きっと彼女の心を傷つけたこともあったと思う。それでも彼女は一度も感情を取り乱すことなく,静かに,丁寧に,案内をしてくれた。

わたしは彼女に駆け寄った。「ありがとうございました。嫌な思いもさせたりして,申し訳ありませんでした。」

「どうかお体を大切にしてくださいね。ほんとうはあなたにもマッサージさせていただきたかった。」両手を握りしめ,肩を抱いた。彼女は顔を覆って泣き始めた。仲間たちが次から次へとやって来て,彼女を抱き締めた。◆