リアホナ2011年7月号 先輩からの手紙

先輩からの手紙

◉文屋美咲姉妹/仙台ステーク上杉ワード

仙台市の山手に住んでいる文屋姉妹の家では津波の被害はなかった。震災後4日ほどで電気も復旧した。しかし自宅からわずか30分ほどの沿岸部は壊滅的な被害を受けている。「その差に愕がく然ぜんとして,(被災地のために)何かしたいなと思いました。」上杉ワードの扶助協会会長をしている母親について来て災害対策本部を手伝ううち,救援物資管理のリーダーを頼まれた。物資を「賢く管理する」エキスパートである。「物資が来てからの作業ではなく,来る前の態勢作りが大切」なのだという。到着前にトラックの中身を聞いておき,場所を前もって空けておいて,いざ来たらすぐ搬入! 何をどこに入れるか皆に的確な指示を出す。efyのユースカウンセラーに召されているが,「支援物資の仕事が忙しくてなかなかミーティングにも出られなくて……」と苦笑いする。5 人家族で,姉と弟がいる3人の真ん中。

大震災が発生して4日後の3月15日,仙台ステーク上杉ワードに現地災害対策本部が設置され,その日のうちに緊急支援の2トントラックが上杉ワードにやって来た。荷台には100箱以上の救援物資がぎっしりと満載されている。それを皮切りに全国から続々と支援物資が対策本部に運び込まれ,ピーク時には,ほとんどすべての部屋に天井に達するほどの物資が積み上げられた。そこでまず必要なのが物資の分類と整理。食糧,清掃用品,雑貨などの分野別に全体で50品目以上に仕分けし,求めに応じて被災地へと搬出されていく。その慌ただしい現場で陣頭指揮を執っていたのが文屋美咲姉妹であった。「ほとんどの在庫を把握しています。聞かれたらすぐ分かります」と,大変なことを涼しげな顔で言う。

物資全体を均等に見るとき,文屋姉妹は欠けているところにすぐ気づくことができた。例えばお米はあるのに水は足りない,そうした情報はリアルタイムで対策本部に伝えられ,すぐに足りない部分を補うように支援要請が出された。

賢く管理する

物資の動きを見ながら文屋姉妹は,モルモン書のアルマ書後半にあるニーファイ人とレーマン人の都市攻防戦を思い出していた。「しかし見よ,驚いたことに,これまで弱い所であったノアの町は,モロナイの働きによって今や堅固になっており,アモナイハの町の堅固さをしのぐほどになっていた。」(アルマ49:14)ニーファイ人が国全体の中で弱い部分の防備を固めてレーマン人の襲撃に備えたように,文屋姉妹は不足しがちな品目を補い,いつでも被災地からの求めにこたえられるよう備え続けた。それはいつしか,個人の霊的な備えをすることへの深い洞察につながった。

「(大震災を通じて)個人の霊的また物質的な備えの大切さをすごく感じています。特に霊的な備えは物資として入って来ないので,自分で培い,養い,補強する必要があります。」自分の目的に応じて,弱い部分はどこかを把握し,そのリストを作り,防備を固める。「そうやって,自分を賢く管理することの大切さをすごく感じました。サタンは密偵を放ち,いちばん『弱い所』を探って攻めてきますから。」─ただし,文屋姉妹の言うのは,あなたの欠点を直しなさい,といった単純な話ではない。

伝道中の事故

2009年2月20日のことだった。文屋姉妹はそのとき,福岡伝道部に召されて伝道6か月目を迎えていた。宣教師として福岡ワードに赴任していた文屋姉妹は,福岡神殿から1キロほどの平和という町で,先輩同僚の後について自転車を走らせていた。坂道を下っていたとき─勢いがついて時速30キロほどは出ていただろうか─突然,路肩に止めてあった車の右ドアが開く。1〜2メートルの至近距離だった。「もう避けられなかったですよ,そのまま突っ込みました。(ドアに当たって)2,3メートルくらい飛んだらしいです。落ちて,3秒くらいで意識がなくなって。気づいたら救急車の中にいました。」まるで頭の中の血管が破れて血が流れているような感じがする。手足も動かない。「そのとき,わたし(前の任地の)熊本にいる,って思っていたんです。(一時的)記憶喪失になってしまって。そのとき,(実家の)仙台の住所と家族の名前,電話番号しか思い出せなかったんですよ。」身元が分かるよう,救急隊の人にこの3つを書き取ってもらう。すぐにまた意識がなくなり,再び気がつくと病院でCTスキャンを撮られていた。

─ところがどうしたことか,診察の結果,「大きな異常はない」とのことで病院から帰されてしまう。「わたし全然,動けなかったのに……」文屋姉妹はそのまま宣教師アパートへ帰った。「むちうちが,早めに対処しないとどういうことになるかといった専門知識がまったくなかったので,次の日からバスに乗って伝道していました。」

しかしやはり後遺症は厳しいものだった。「初めは動けていたんですけど,梅雨の時期,低気圧と寒さがほんとうにだめで,6月は夜一睡もできなかったりとか,首が痛いし吐き気もすごいし,頭はぼおっとしてくるし,手も舌もしびれてくるし……苦痛でしたね。」そんな状態にもかかわらず伝道を続けたのは,一つは伝道が好きだったからだ。「(街頭伝道をしていると)神様が道行く人のことをほんとうに愛していると,媒体として感じるんです。わたしの後ろに神様がいて,(前に)人がいて話している感じ。わたしは媒体にしかすぎないんですよ。ただ,神様の目となり足となり口となって福音を伝えている。わたしの思いはそこに何も入っていなくて。そういうふうに自分を捨てることができたときにいちばん価値のある喜びを感じました。だからわたしはほんとうに働きたかったんですよ。」

後遺症に苦しみながらも頑張って伝道を続けた文屋姉妹だったが,伝道が終わる3か月前

の鹿児島で,冬の寒さがこたえ,ついに寝込んでしまう。「ぼろぼろになって働けなくなって,わたしは泣く泣くベッドに戻り,ほんとうにごめんなさい,って休んだんです。わたしの心がちょっと和らいで,初めて自分で自分を許して,休もうかな,って決意したときでした。─そのときに,ものすごい神様の愛を感じてたくさん涙が出ました。わたしは伝道がいちばんだと信じてやってきたんですけど,そうじゃなく,神様は最も弱いわたしの体を心配されていた,それが分かって。すごい愛を感じました。」

伝道を休めなかったもう一つの理由を文屋姉妹はこう振り返る。「わたしの人生の中で解決しなければいけない大きな問題(弱さ)が3つくらいあって,そのうちの1つは,『頑張りすぎてしまうこと。』自分の最善以上,神様がわたしに望んでいる以上をいつもやろうとして,苦しくなってしまうんです。それを解決しないとわたしは幸せになれないとずっと感じていて。」それが文屋姉妹の中での「弱い所」の1つだった。神様の御心は何かを知ることの大切さ。事故を通し,文屋姉妹はそれを身をもって学んで帰還した。

弱さは尊い

「神様はきっと何度もわたしにそれを学ばせようとしてくれていたけど,学びきれなかったので,最終手段として事故に遭わせて教えてくれて……わたしはすごく弱いけど,弱さがあるからこそ,神様がどういう愛をもってどういう方なのか,その人柄に触れることができる。弱いから,イエス・キリストの贖いを感じることができるので,ほんとうに弱さはすごく大好き─変な言い方ですけど。弱さって,とても尊い神様の創造物だと思うんです。」

「『わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる。』それだから,キリストの力がわたしに宿るように,むしろ,喜んで自分の弱さを誇ろう。……なぜなら,わたしが弱い時にこそ,わたしは強いからである。」(2コリント12:9−10)

文屋姉妹は2010年4月に伝道から帰還して1年近く,療養生活を続けた。常に頭痛や吐き気があり,重いものは持ってはいけない,1時間動いたら1時間横にならなければいけないような状態が続いた。ところが事故から丸2年目の2011年2月20日,仙台を訪問した青柳弘一長老から祝福を受け,驚くべき快復を遂げる。それから3週間後に大震災が起き,支援物資管理のリーダーとして重い荷物を運び,1日12時間も働くようになった。「今,こんなに動けていることが信じられないんです。」

文屋姉妹は若い兄弟姉妹に向けてこう語る。「試練に遭ったとき,今度は神様はわたしに何を学ばせたいのかな,と思ってわくわくします。どんな事柄も,学び取るために与えられているので,全部自分の考え方,受け取り方,望み次第だと思うんです。そういう力によって人生は幾らでも変えられると思うので。学び取る力,というのをefyで養えたらいいかなって思います。」◆