リアホナ2011年1月号 希望を見出す5 「元の生活に戻ります」と告げられ

希望を見出す5 「元の生活に戻ります」と告げられ

瀕死の事故から生還して

─日本神戸ステーク尼崎ワード 匿名希望

平成22年2月17日午前9時,二人の息子は小学校と幼稚園に,妻は幼稚園の行事にそれぞれ出かけた後,わたしはテーブルの上にあったおにぎり3つを昼食代の節約にしようとカバンに入れ,いつものように原付バイクで仕事に出かけました。家を出て数分後,交通量の多い片側2車線の県道で,路肩に停車中の小型トラックの横を通り過ぎようとした瞬間,トラックの右ドアが開き,衝突してバイクは転倒。衝突のショックで気を失い路上に投げ出されたわたしは,後続の車に轢かれてしまったのです。

西尾支部の出来事

その1週間前のこと,仕事で名古屋に出張したとき,かつて西尾支部の会員であった杉田姉妹とたまたま会って話をしました。西尾支部は,わたしが宣教師のとき(名古屋伝道部1980-1982年), 3番目の赴任地でした。伝道が終わって数か月後に,西尾支部の阿南支部会長が交通事故に遭い,3人の幼い子供と奥さんを残して天に召されたという知らせを聞いて,大変ショックを受けました。杉田姉妹は当時を振り返って言いました。「阿南支部会長は,最後に子供たちを一人ずつ抱き締めたんですよ。みんな驚いて,その奇跡に涙を流しました。」

それを聞いて思いました。「支部会長は避けられない運命を受け入れる覚悟をしたのだろう。でも最後の願いとして,今一度子供たちをこの手で抱き締めたいと主に願ったのではないだろうか」と。そんな話をした1週間後に,まさか自分が事故に遭うなんて夢にも思いませんでした。

自分にいったい何が……

ドアにぶつかった瞬間までは覚えていますが,その後は記憶がありません。気がつくと,兵庫医大病院救命救急センターに運ばれていました。何が起こったのか分からず,とにかく息苦しくてヒーヒー言いながら,酸素マスクにすがりつきました。連絡先を尋ねられ,やっとの思いで答えると「意識はあります」と言う声が飛び交いました。この事故で顔面は,唇が裂け,鼻は折れ,上あごが折れて陥没,両目は眼底骨折で真っ赤になり,上の前歯すべてを失いました。胸部は19か所骨折し,折れた骨が左肺をつき破り,心臓の周りで出血していました。「心挫傷,急性呼吸不全,肺挫傷,両側外傷性血気胸,肺炎,外傷性上肢挫傷,心のう液貯留,上唇裂挫創,前額部挫創,顔面多発骨折,両側肋骨多発骨折」など,カルテに幾つもの危険な症状が並びました。そのような状況は,すべて後で分かったことです。そのときのわたしは,顔と胸がつぶれていることも知らず,とにかく苦しく,なんとか今をやり過ごしたい,いつまで続くのかという思いだけでした。駆けつけて来た姉妹に「神権者,神権者」とうわ言のように繰り返しました。姉妹は方々手を尽くし,やっと西宮の宣教師とコンタクトが取れ,長老たちが癒いやしの儀式のために来てくれました。

翌日,血中の酸素濃度が下がり続け容態が悪化,そこで体内に強制的に酸素を送り込む最新設備が使われました。もうろうとする意識の中,ホームティーチャーの兄弟の心配そうな横顔,遠く九州や東北から駆けつけて来た親戚たちの表情が,ぼんやり目に映りました。みんなが控室で泣いていたことは知りませんでした。母は事故現場に花を手向ける自分の姿が頭をよぎったと言います。破れた肺を修復する緊急手術を受けるとき,こらえきれずに泣き叫ぶ息子の声と「大丈夫だよ,大丈夫だよ」と励ます母の声を聞きながら手術室に運ばれて行きました。妻は最悪のケースを覚悟しつつも,長老の祝福の中に「元の生活に戻ります」の文言があったことに「きっと助かる」との思いを強くしたそうです。多くの兄弟,姉妹が祈ってくださいました。二男の幼稚園はキリスト教系の幼稚園で,園長先生を中心に毎日祈ってくださったそうです。しかし胸部の内出血が止まらず,状況は一進一退を繰り返しました。

総大会でのお話

意識が行ったり来たりする中で,阿南支部会長のことと,いま一つ交通事故にまつわる出来事を思い出していました。これも伝道中,菊地良彦長老が大会で話された奇跡的な出来事です。それは,ひき逃げに遭い仕事も家族も失い,重度の障がいを負い医師に回復の見込みはないと言われたある男性の話です。「彼は絶望し,自殺を考えたときに宣教師に出会いました。宣教師は教会へ誘いましたが,彼は歩くことができないので断りました。しかし,安息日の朝,何かに背中を押され,彼は動かない足を引きずりながら倒れては起き上がり,這はうようにして何時間もかけて教会へたどり着いたのです。やがて彼はバプテスマを受け,その翌日に奇跡が起こりました。両足に力を感じ,その兄弟は事故後初めて立ち上がったのです。」

30年前に聞いた二つの出来事に思いを巡らし,「元気になりさえすれば,ああしよう,こうしよう」と考える毎日でした。実際に元気になれば,そう理想的にはいかないのですが,そのときのわたしは過去を走馬灯のように振り返りながら,今さえ乗り越えればなんとかなると思い,どんなに苦しくても「もうだめだ」と思うことはありませんでした。そうして,長い長い1か月が過ぎました。

天に届く祈り

祈りは天に届きました。1か月目を境に,内出血は止まり,あらゆる数値が改善し,急速に快復していったのです。ステーク会長が,お見舞いに来て祝福をしてくださいました。ビショップは,わたしの容態をワードの会員にメール配信して,祈りを呼びかけてくれました。ビショップとともにお見舞いに来た長老定員会会長は,戸惑いの表情でした。後で聞くとわたしだと分からなかったそうです。それもそのはず,体のあちこちに差し込まれていた管が外され,やっと動けるようになり,初めて自分の顔を鏡で見たときは,愕然としました。これは自分の顔ではない。とてもその現実を受け止められません。しかし,勇気づけられたのは,主治医の先生の「手術をすれば顔は元に戻ります」との言葉と,毎日見舞いに来る妻や子供たちが,わたしの顔のことなどまったく気にせず,命が助かったことを心から喜んでいることでした。

周りの人のために

4 0日間お世話になった救命救急センターは戦場のような所です。昼夜を問わず,重症患者が運び込まれてきて,その度にスタッフは懸命に対応します。チームワークでわたしを救ってくれた主治医,スタッフの皆さんには,感謝の気持ちでいっぱいです。この試練を通して学んだ最大の真実は,「自分の体や時間は自分のためのものではない。それは周りの人のためのものだ」ということです。自分が周りの人々の役に立てるとしたら,それに勝る生きる力の源はありません。「わたしは家族,親族,兄弟,姉妹,隣人のためにまだまだやるべきことが残っている」ということを,主に教えられたように感じます。

2か月後,わたしはいったん退院しました。そして,そのころになってようやく,冷静に鏡を見ることができるようになりました。これも事故に遭った結果の自分の顔だと受け止めました。結局,11月まで入退院と手術を繰り返し,ほぼ元の自分を取り戻しました。

主の祝福と感謝

事故後,初めて家族で教会に集ったときは,「こんな日が来るなんて」と姉妹と喜びました。ビショップに「試練でした」と言うと,「兄弟だけでなく,ワード全体にとっての試練だったように思います」とビショップが言いました。みんなに大きな心配をかけました。事故当初,わたしの前では涙をこらえ,ICU(集中治療室)から出たらずっと泣いたという息子は,6月で8歳になりました。7月に息子のバプテスマを,この手で行うことができました。なんという祝福でしょう。「息子よ,あなたの心に平安があるように。あなたの逆境とあなたの苦難は,つかの間にすぎない。その後,あなたがそれをよく堪え忍ぶならば,神はあなたを高い所に上げるであろう。あなたの友人たちはまことにあなたの傍らに立っている。そして,彼らは温かい心と親しみのある手をもって,再びあなたを歓呼して迎えるであろう。」(教義と聖約121:7-9)

走るべき行程

一昨年の2009年12月30日の朝,妻の提案で「家族みんなでジョギングしよう」ということになり,みんなで近所を走りました。それが気持ちよかったので毎日やろうと決心し,それ以来独りで,雨の日も風の日も,出張先でも走りました。しかし事故の日の朝を最後に,中断することとなりました。でもまた,走り始めたいと思います。わたしの走るべき行程は,まだ終わっていません。

11月現在,体力も回復し,職場にも復帰しました。まだ通院は続きますが,宣教師の祝福のとおり「元の生活に戻り」つつあります。事故当日のわたしの姿を見て,いったいだれがそんなことを言えたでしょう。神様の力以外にはあり得ません。

この経験を忘れず,初心に帰り,これからの人生,自分の持てる時間と才能を

使って,主と周りの人々に恩返しできればと思います。「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき,走るべき行程を走りつくし,信仰を守りとおした」(2テモテ4:7)と言えるように。◆