リアホナ2011年2月号 日本教会歴史拾遺1

日本教会歴史拾遺1

平成22年(2 010年)11月9日。皇居では恒例の秋の叙勲の授与式が行われた。その受章者の中に,藤沢ステーク保土ヶ谷ワードの杉山洋二・敦子ご夫妻の姿があった。この日,杉山兄弟は瑞宝中綬章を受けた。日本の勲章には様々な種類があり,瑞宝章とは,長年の公務を通し,国家または公共に対して功績のあった人に贈られるものである。杉山兄弟は長く外務省に奉職し,日本の戦後の高度経済成長と幾度もの歴史的転換点をつぶさに見てきた。

「この教会に入っていれば大丈夫」

杉山兄弟が,後に伴侶となる渋谷敦子姉妹と出会ったのは,まだ学生だった1960年代の初頭, 東京・新橋の英語学校においてであった。「Do you believe in God?」(あなたは神様を信じますか?)─これが, そのとき杉山兄弟が姉妹に話しかけた最初の言葉である。1959年にこの教会へ改宗していた敦子姉妹はそれならと,杉山兄弟を教会へ誘った。

敦子姉妹の父親は潜水艦の機関長で,太平洋戦争中にパプアニューギニアで3日3晩,海を漂い生還した。1,000人中20人の生存者の1人として復員した父親は,その後の人生を余生ととらえていたという。そうした父親を見ていて敦子姉妹も自然と,人生の目的とは何だろう,と考えるようになっていたところに福音と出会ったのであった。

敦子姉妹が杉山兄弟を連れて行ったのは当時の東京中央支部(表参道)であった。そこには『モルモン経』の翻訳者として知られる佐藤龍猪兄弟が集っていた。「たいへん立派な人でした」と杉山兄弟は回顧するが,中でも印象に残っている言葉がある。「これから,いろいろなことに遭遇するだろうけれど,この教会に入っていれば大丈夫ですよ。」いちばん影響を受け,バプテスマのきっかけともなったのは龍猪兄弟のこの一言だったという。

1962年に改宗した杉山洋二兄弟は, その年の暮れに敦子姉妹と東京中央支部で結婚式を挙げた。明くる年に外務省へ入省してすぐ,単身,2年間の海外語学研修に赴き,スペイン語を本格的に勉強させられる。そこでまず教官から言われたことは「聖書を読みなさい」だった。「要するに孫子の兵法ですよ。相手のことを知らなくては交渉はできない。それには聖書をしっかり読まなければだめだと。でも皆, 読まないんですよ。わたしは何度も読みました。」

杉山兄弟は,その後の波瀾万丈の職業生活を通して,まさに龍猪兄弟が語ったとおり様々な経験と遭遇することになる。1978年8月の日中平和友好条約の締結時には「何としても締結しろ」との園田外務大臣(当時)の指令を実現すべく中心となって取り組むも,右翼の脅迫に悩まされた。官舎に住む敦子姉妹のところにまで脅迫電話がかかってきた。ついには外務省に右翼の活動家が押しかける。対応に出た杉山兄弟は一歩も退かず, 「日本の(国益の)ためにやっているのだ,文句があるなら柔道場で勝負しろ」と,守衛も驚く大声で呼ばわったという。1980年代になり,メキシコ大使館に駐在していたときには,不当に逮捕された三井物産現地法人の社長と副社長を直ちに釈放するよう,公使として当局に乗り込み, 日本の国力を頼んでメキシコの検察庁長官と直談判したこともあった。そうした危機的局面で心にあったのは, 「この教会に入っていれば大丈夫」という龍猪兄弟の言葉であった。

初めての『モルモン経』贈呈

1973年6月,杉山兄弟がベルギー(欧州連合日本政府代表部)に勤務していたとき,皇太子殿下ご夫妻(今上天皇皇后両陛下)が欧州を訪問された。それが皇太子ご夫妻とお会いした最初であった。当時の空路はアラスカでの給油を経て欧州まで18時間もかかる長旅で, 普通の人ならくたくたに疲れ果てるほどのものだった。それを, 美智子妃殿下は気丈に和服に着替え,待ち構えていた外交官や現地法人役員らと接しておられた。「その姿勢を見て感激しました。美智子さまには国母(国民の母の意)の自覚がおありでした」と敦子姉妹は回顧する。

杉山ご夫妻は19 7 5 年に欧州勤務を終え帰国する。1977年,皇室主催のお茶会が開かれた。皇太子ご夫妻欧州訪問の際の関係者の労をねぎらうためであった。杉山ご夫妻も招かれて皇居を訪ねたが,そのとき敦子姉妹にはひそかに願っていることがあった。それは,美智子妃殿下に『モルモン経』(佐藤龍猪訳)を差し上げたいということだった。「美智子さまにお会いしてすごく感動したものですから,ぜひお渡ししたいと思ったんですね。美智子さまは(カトリック系の)聖心女子大学を出ていらっしゃる,聖書を読んでおられるんです。」 しかし,当時一介の外交官夫人でしかなかった敦子姉妹が美智子妃殿下に近づくのは難しい。「前の晩に,わたしはこういう格好で参りますから,どうか美智子さまの夢の中にわたしの姿を現してください,とお祈りしました。」敦子姉妹は朝から断食し,その晩のお茶会の席に臨んだ。教会の二人の姉妹がともに断食し祈ってくれていた。

皇太子ご夫妻がお出ましになったとき,敦子姉妹はたまたま前の方に立ってお迎えした。すると─「理由は分かりませんけれど,美智子さまがわたしに目を留められて,しばらく御覧になったままなんですよ。」しかし要人が取り巻く中,とても美智子妃殿下に近づける雰囲気ではなかった。けれども,「お渡しできると,御霊がささやいているんです。」

時は過ぎ,お茶会の終わりが近づいた。皆が道を空け,皇太子殿下が美智子妃殿下を促し,まさに部屋から退出されようとしたそのとき。なぜか美智子妃殿下が忘れ物でもなさったかのように後ろを振り向かれたのである。敦子姉妹は勇気を奮い一歩前に出る。頭の中が真っ白になった。─その『モルモン経』には,聖書に造詣の深い美智子妃殿下のためにエゼキエル書の聖句(エゼキエル37:15−17,ユダの木〔聖書〕とエフライムの木〔モルモン

書〕が一つとなるとの預言)を記し,土の中から出てきた書物です,と書いたメモが付けられていた。それを美智子妃殿下に差し出し,「差し上げたいんですけど,もらっていただけますか」と申し上げると,美智子妃殿下は一言,「いいの?」とおっしゃって受け取ってくださったのだった。

「そのことは(当時)だれにも言いませんでした。美智子さまのお立場もおありですから。今はもう時効ですけれど」と敦子姉妹が回顧すると,「あの方は,(モルモン書を)お読みになりますよ。熱心な,学究心の非常に強い方だから」と杉山兄弟も言い添える。

皇室とのかかわり

その後も,杉山ご夫妻は何度か皇太子ご夫妻と同席する機会があった。杉山兄弟は1980年代後半に再びベルギーで勤務する。その間何度か,日本と同様に王室を持つベルギー,オランダ,ルクセンブルクなどの欧州を皇太子ご夫妻や浩宮様(現皇太子)が訪れた。また皇室では時に,日本を巡る諸問題について専門の官僚が「ご進講」と呼ばれる解説をする。その席上で皇太子殿下(今上天皇)から杉山兄弟に質問が投げかけられた。「日本はどのようにして2度のオイルショックを乗り切ったのですか?」─1970年代の杉山兄弟はエネルギー政策に取り組んでいた。杉山兄弟は1971年ごろ外務省に国際資源局を自ら立ち上げ,エネルギー政策の重要性を周囲に説いていた。やがて1973年夏,通産省(当時)に資源エネルギー庁が設置される。その直後の1973年10月に始まった第一次オイルショックにより日本経済は大打撃を被り,資源輸入国である日本にとってエネルギー資源の確保がいかに重要であるかが浮き彫りとなった。1978年には第二次オイルショックで再び原油価格が高騰した。─ちなみにご下問への杉山兄弟のお答えは, 「エネルギー効率を高めて乗り切りました。」同じ物を生産するのに,日本では途上国に対して7から8分の1,先進国と比べても2分の1のエネルギーでできるのだという。

1990年代に入り,杉山兄弟が在パナマ特命全権大使として赴任していたとき,浩宮様がパナマを訪れた。過密スケジュールの中,パナマ運河を空から見たいとのたってのご希望であった。杉山ご夫妻は空港で浩宮様を迎え,その場でご進講を行った。また2000年に,杉山兄弟が在スリランカ特命全権大使の任を終えて帰国したときは,杉山ご夫妻ともう一人の大使の3人で,天皇皇后両陛下とじかに対峙して懇談する席が設けられた。「病床にあった晩年の父のために写真を撮りたかったのですけれど,皇太后さまが亡くなられた直後で,美智子さまは非常に疲れておられるのが見て取れたので,撮りませんでした」と敦子姉妹は振り返る。

2度目の贈呈

2009年2月19日,杉山ご夫妻は幾度目かのお茶会に招かれて皇居を訪れた。 敦子姉妹は再びモルモン書(19 9 5 年改訂版)を持参した。「お祈りはしていましたけれど」と敦子姉妹は話すが,1977年のときに比べるとはるかにプレッシャーは軽かったという。欧州勤務のころから大使時代にわたる訪問やお茶会,ご進講,懇談などを通じ,両陛下とお会いするのはすでに7回目で,顔なじみとなっていた。その席上で再び,美智子皇后にモルモン書を手渡すことができた。「宮内庁の人に後で名前を聞かれましたけれど,渡してしまえばこっちのものですから」と,敦子姉妹はいたずらっぽくほほえむ。

記録によると,皇室にはこれまで7冊のモルモン書が贈られた。それがどのような種となって日本に芽吹くのか,明らかになるのは主の来臨の時かもしれない。◆