リアホナ2011年12月号 福祉のABC 15 従順

福祉のABC 15 従順

わたしたちは試されるためにこの地上に送られてきたことを,末日の聖文を通して知っています。「そして,わたしたちはこれによって彼らを試し,何であろうと,主なる彼らの神が命じられるすべてのことを彼らがなすかどうかを見よう。」(アブラハム3 :25 )多くの戒めが聖文と生ける預言者の教えからもたらされます。個人的にも日々啓示を受けることができ,それもまた,わたしたちへの戒めと考えることができます。

霊的な戒めに従う

幾つかの戒めは,特にわたしたちの霊的な幸福のためにあります。先日行われた総大会では次のような勧告が与えられました。毎日祈る,聖文の力を忘れない,個人の啓示と証を求める,悔い改めという神の賜物を享受する,神殿に参入する,家族歴史の業を行う,召しを果たす,ほかにもまだあります。モンソン大管長からは「聖なる地に立つ」というチャレンジが与えられました。

イエス・キリストは霊的な事柄におけるわたしたちの模範であられます。ニーファイは次のように教えました。「あなたがたは小羊が聖くあられたことを知らないのか。しかし小羊は,聖いにもかかわらず,肉においては御父の前にへりくだることを人の子らに示される。そして,御父の戒めを守ることについて御父に従順であることを,御父に証明されるのである。」(2ニーファイ31:7)また,次のようにも書かれています。「父がわたしを遣わされたので,わたしは父の御心を行うために世に来た。」(3ニーファイ27:13)そして聖書には次のようにあります。「わたしが天から下ってきたのは,自分のこころのままを行うためではなく,わたしをつかわされたかたのみこころを行うためである。」(ヨハネ6:38)

物質的な戒めに従う

より物質的な側面に焦点を当てた戒めもあります。もう一度10月の総大会からです。適切なときに適切なことを行う,自分自身と家族の必要に心を配る,苦労している人,苦しんでいる人を思いやる,家計を管理する,必要な教育を受ける,などの教えがありました。これらは初めて聞くメッセージではなく,今まで何度も繰り返し教えられています。

もう一度,主がどのような模範を示されたか見てみましょう。救い主が勉強し,大工として訓練を受け,御自分の肉体の健康を大切にしておられたことをわたしたちは知っています。貧しい人や困っている人に手を差し伸べ,世話をして模範を示されました。また,税金を納める必要性を認めておられました(マタイ17:24-25,マタイ22:17−21参照)。現代の預言者を通じ,主は次の真理を啓示されました。「だれもその地の法律を破ってはならない。神の律法を守る者は,その地の法律を破る必要がないからである。」(教義と聖約58:21)

物質的なものと霊的なものの結合

物質的な戒めと霊的な戒めの間に境界線を設ける必要はありません。ディーター・F・ウークトドルフ管長はこう教えました。「神と隣人を愛するという二つの大切な戒めは,物質的なことと霊的なことが結合したものです。この二つの戒めが『最も大切な』戒めと呼ばれているのは,ほかのすべての戒めがこの二つにかかっているからだという点に注意してください。つまり,わたしたち個人の,家族の,そして教会の優先事項の筆頭でなければならないものなのです。ほかの目標や行動はすべて,この二つの大切な戒めという泉から,すなわち神への愛と隣人への愛からわき出るものなのです。」(「主の道にかないて助けをなす」『リアホナ』2011年11月号,53)

従順を通して受ける祝福

戒めを守るならば物質的にも霊的にも祝福される,というのがモルモン書の中心を成すメッセージです。神の言葉に従順だったことでリーハイがいかに祝福されたかは,この書物を読むことで知ることができます(1ニーファイ2:1)。ニーファイに語られ,時代を超えて繰り返し語られた次の言葉をわたしたちは読むことができます。「あなたがたは,わたしの命令を守るかぎり栄え〔る〕。」(1ニーファイ2:20)そして同時に,神の戒めに従順でないために苦しみを経験した個人や都市についても学ぶことができるのです。(アルマ16:2-3;30:6-60参照)

青柳弘一長老の教えはわたしたちのビジョンを広げてくれました。「彼らは,ほかの人々が知らないところで,義務や責任感からではなく,自らの自由意志によって,喜んで預言者の勧告に従っています。」(「助けの手,救いの手」『リアホナ』2010年5月号,37)人に知られず,喜んで,自らの自由意志で戒めを守りましょう。そのようにして最後まで堪え忍ぶならば,わたしたちは永遠の命を得るでしょう。この賜物は,神のあらゆる賜物の中で最も大いなるものなのです。(教義と聖約14 :7 参照)◆