リアホナ2011年12月号 先祖の心を子らへ,子らの心を先祖へ

●先祖の心を子らへ,子らの心を先祖へ

1通の手紙に始まる不思議な長い旅

─中国と日本の歴史によって引き裂かれた二つの家族

「父が中国から日本に働きに来るために船に乗ったときから系図の業は始まったとわたしは考えています。」

現在,福岡神殿でメイトロン補佐を務めている長谷川洋子姉妹は日本人の母親と中国人の父親を持つ。「父は山東省の出身で,家族を養うために15,6歳のとき,言葉のまったく分からない日本へ独りでやって来ました。1930年代のことです。」

1969年,父親の経営する中国料理店の隣に北九州支部が建てられ,長谷川姉妹は18歳でバプテスマを受ける。そこで「家族は永遠に続くものであり,家族歴史の探求をしなければならない」ことを学んだ。しかし彼女は父親から,来日後の生活の様子も中国の家族のことも聞いた記憶がほとんどない。

「母から聞いたのですが,(来日して)父は(中国料理店で)下働きのような仕事をしていました。部屋も何もない。みんなが帰ったあとの店を掃除して,そこにあるいすの上にごろんと横になって寝るだけ。そういう生活をずっとしていたそうです。父は苦労話はしたくないから何も教えてくれませんでした。中国のことも,昔亡くなったおじいちゃんとおばあちゃんの名前と古い住所くらいで。」

何も聞けないまま1982年に父親が亡くなり,系図探求の道は閉ざされてしまう。「系図を調べなさいと言われたときから(探求したい)気持ちはあったけれど,父の系図に関しては,『中国は無理。わたしの場合は仕方がないから神様は赦してくださるだろう』と自分自身を納得させ,あきらめていました。」

長谷川姉妹は結婚後,長谷川兄弟の仕事の関係で北九州市から福岡市,大阪を経て千葉で暮らすようになる。父親が亡くなって10年あまりたったころ,千葉ワードで家族歴史相談員の助けを借りながら母方の系図をやり遂げた。「母は70歳でバプテスマを受けました。そして母の系図が終わって母は亡くなりました。そのころからわたしの心は変化し始め,『父親の系図を調べなければならない』と思うようになりました。」しかし知っているのは父親と祖父母の名と彼らの住んでいた住所だけだ。

投函された1通の手紙

千葉ワードには方兄弟という中国人がいた。長谷川姉妹は彼に1通の手紙の翻訳を依頼する。「わたしは隋承連の娘の長谷川洋子という者です。先祖の供養をしたいので系図を調べたいと思っているけれど,父も亡くなり手段がないのでどなたか分かる人がいたら教えてほしい。」封筒の宛名は「隋承連」長谷川姉妹の亡くなった父親の名だ。「だれに書いたらいいかわからないから。父の両親も亡くなっているから父くらいしか思いつかなくて。」しかしこのとき長谷川姉妹は手紙を出さなかった。「父の名前を書いて着かなかったらそれで終わりじゃないですか。住所もすごく古いものでした。10数年前の中国はちゃんと名前を書いても着くかどうか分からなくて『それが着かなかったら終わり』という思いがあったんです。あとは何も手がかりがないんです。それで勇気がなくて出せませんでした。」その後,長谷川家族は転勤で福岡に戻って来る。千葉で翻訳してもらった手紙はしまう場所をどれほど変えても常に姉妹の目に入ってきた。「どこにしまってもその場所を開ける用事が出てくるんです。見る度に『あぁ出さなくちゃ』って思うんですよね。そしてほかの所にしまう。でもまた別の何かを探すときに手紙が出てくるんです。それが何度もあって。」

手紙の存在が頭から離れない長谷川姉妹は一つの記事に目を留める。「わたしはスコット長老の『主を信頼しなさい』というお話を読みました。そのときに『一寸の疑いもなく主を信頼できたらどんなにいいだろう』と思いました。」届かなければほかに手だてがないという不安を払拭するには主を信頼するしかない。1996年の春に長谷川姉妹は自分の家族の写真を同封して手紙を投函した。「着くか着かないかはわたしの責任ではなく,郵便局に持って行くまでがわたしの責任だと感じました。」

驚くべき返信

4週間後,中国に住む,長谷川姉妹の父親の弟から返事が届いた。

「『この手紙が届いてびっくりした』という返事が来ました。『どうして隋承連の娘から隋承連あてに自分のところに手紙が来たのか』と。でも『あなたのお父さんは死ぬまでずっと仕送りをしてくれていたので自分たちは生活ができた。だからあなたの望むことは何でも手伝いたい』って書いてありました。そしてそこに7代までの系図が書いてありました。そしてもっと古くまで分かるかもしれないと書いてありました。」長谷川姉妹は少しでも古い人の名前が知りたいと返信した。

「また4週間後に(返事が)来ました。今度はダンボール箱でA4用紙が282枚入っていました。」用紙には「31代までの直系と膨大な数の傍系の方たちの名前,また多くの情報も書かれてありました。書き出しは『隋氏の記録は唐より前は分からないが唐より後は分かる』というものでした。家系譜ですね。巻き物をコピーしてくれたみたいです。」

漢語でびっしり書いてある資料を手にした長谷川姉妹は戸惑った。「読み仮名も分からないし年代も分からない。中国独自の年代だから西暦じゃないんです。数か月の間ずっと見ていました。『どうしよう,どうしよう』と思って。」千葉ワードの方兄弟に相談した。彼の勧めを受けて資料のすべてを台湾の台北神殿に送ることにする。「巻き物のコピーを封筒に入れて送っただけです。家族の記録を送ったわけではありません。」神殿の人たちが困るだろうと思いはしたが中国語が分からないから事情や理由も書けない。

長谷川姉妹は当時,ワードの仲間と一緒に3か月に1度東京神殿に参入していた。台北神殿に資料を送ったのはちょうど東京神殿に行くときだった。「(東京神殿に)申し込もうと思うんだけれど予約を入れる気がしなくて。だんだん東京じゃなくて台北神殿に行かなきゃという気持ちになって『今から2週間後に行きます』っていう電話連絡を台北神殿にしました。」長谷川家には中国語が話せる人はいない。台北神殿には「日本語よりましかと思って息子に英語で話してもらいました。」

台北神殿での慈愛

1996年11月,仲間が東京に向かった日,長谷川姉妹は独り台北行きの飛行機に乗った。「台北神殿に無事に行くことができるのか。神殿に行って一体何を話せばいいのか不安だらけでした。でも行かなければ……という思いの方が強かったんです。そして幾つもの奇跡が起こりました。」方兄弟が急な仕事で台北に行くことになり,長谷川姉妹より1時間前に到着した。彼はタクシーを調達してくれ,姉妹は空港でタクシーの運転手の出迎えを受けた。神殿では職員が台北に住む日本人の姉妹とともに玄関に出て到着を待っていた。

「今はファミリーサーチでコンピューター入力ですが,当時家族の記録は手書きで,一人の職員の姉妹が2週間で2,000枚もの家族の記録を書いてくださっていました。わたしが神殿の事務所に行ったときも彼女はまだ書いていました。」夜7時ごろの到着であったにもかかわらず儀式の準備がされていた。「『すぐに着替えなさい。今から儀式をします』と言われて。ここでまさか儀式ができるとは思いませんでした。わたしは『申し訳ありません。これからどうしたらいいでしょうか』と言いに行っただけ。けれどエンダウメントができるようにしてくれていました。この日わたしは自分の直系の儀式を受けることができました。あれは愛ですね。遠くから来たわたしのためにできるだけのことをしてあげようという慈愛だと思いました。」

長谷川姉妹が台北神殿へ到着したときには,直系の人々のバプテスマと確認の儀式はすでに終わっており,姉妹は滞在中に行われたすべてのセッションに入り彼らのためにイニシャトリやエンダウメントを受けた。日本に帰った後も台北神殿では彼女の先祖のための儀式が多くの人によって行われ,後に完了の通知が届く。たった1通の手紙が数千人の先祖を救いの儀式に導くことになった。

数日後,多くの人の愛や信仰,協力のありがたさをかみ締めながら長谷川姉妹は台北神殿を後にする。日本に帰る飛行機の中で「このお返しは必ずします」と主に祈った。その祈りのせいだろうか,「奇跡はこれだけでは終わらなかったんです。系図が出てきたら不思議なことがいっぱい起こりました」と長谷川姉妹は言う。その中でも一人の中国人女性との出会いは驚きの連続だった。

不思議な縁

長谷川姉妹は現在,福岡県大野城市という町に住んでいる。台北神殿で先祖の儀式を受けたころ,時々通る踏切のすぐ横に中華料理店ができた。「わたしはその店がとても気になりました。店の名前が『山東飯店』といい,中国人が経営しているように思われたからです。」

あるとき姉妹は店に行き,自分の父親が山東省出身の中国人であることを話した。経営者の奥さんの李さんに山東省のどこかと尋ねられたので「煙台」と答えると,彼女も同じだと言う。「中国は広いのにどうして家のすぐ近くに(同郷の人が)いるの?って思いました。李さんは初対面のわたしの前で『(李さんの)お父さんに会いたい』と言って涙を流し話してくれました。」

李さんの父親が日本に来たのは1947年か1948年,敗戦後の日本が進駐軍によって占領されていた時期であった。中国を出るときは二度と祖国の地を踏めなくなるなど夢にも思わなかっただろう。中国では1949年に共産党による中華人民共和国が成立。その後の1952年に日本は独立するが,日本政府には中国共産党政府との国交がなかった。そのうえ,1966年からの文化大革命1によって中国は大きな混乱期を迎える。

1972年に日中国交正常化がなされた後も文化大革命は続き,1976年にようやく終結する。「(長谷川姉妹の)父は日本人の母と結婚し,日本で家族を持ち,文化大革命後の中国に一度も帰ることなく亡くなりました。李さんの家族は中国に住み,彼女がまだおなかの中にいるときにお父さん独りが日本に来て,彼女と一度も会うことなくお父さんは亡くなったのです。」長谷川姉妹は李さんから,長谷川姉妹の父親よりも李さんの父親が先に亡くなったことや,父親のいた形跡を探し歩いたが何も見つけられなかったことなどを聞く。そして,「李さんは『わたしの父はここで働いていました』と1枚の紙を持ってきました。その名前を見てびっくりしました。わたしの父も同じころそこで働いていたんです。」そこは,長谷川姉妹たちが住む大野城市から80キロほどの所だった。

二人は互いのことを語り合った。「李さんが『わたしはあなたがうらやましい。わたしはお父さんに会ったことがない。あなたは幸せよ』と言いだしたんです。わたしは彼女に,『これは慰めじゃなくてほんとうのことを言うからね。必ず会える日が来るから』と伝えました。」

わたしが知っていた!

そして長谷川夫妻と李さん夫妻は思い出探しの旅に出かける。互いの父親が働いていた職場は今も中華料理店だった。しかし当時のことを知る人はだれもいない。李さんの父親の住んでいた所は空き地になっていたが,そこは長谷川姉妹が幼いころに家族と住んでいた家の目と鼻の先だった。

「李さんのお父さんはわたしの父と友達だった可能性が高いんです。わたしは彼女の父親を知っている人がいないかとわたし自身の幼い記憶をたどってみました。」長谷川姉妹の心に一つの場面が浮かんできた。「お正月になるとそれぞれの家族が店に集まり食卓を囲んで食事をする習慣がありました。そのときにわたしの横でにこにこと笑いながら(わたしを)見つめている男性がいました。」彼のことを母親に尋ねたことや自分を見るおじさんの背格好,表情など幼いころの記憶がどんどんよみがえってくる。「その男性の特徴を話すと李さんは『わたしのお父さんです』と言いました。2 わたしが知っていたのです。」

長谷川姉妹と李さんが出会ったのは「導かれての巡り合わせだ」と姉妹は言う。「李さんは何回も宣教師からレッスンを受けています。娘さんも台湾でレッスンを聞いています。福岡神殿も一緒に見に行って,『家族が永遠に住めるようになる場所なのよ』って言ったら,『わたしの娘はここで結婚してほしい』と李さんは言いました。まだどうなるかは分かりません。いずれ中国に帰りたいと言っているので向こうで伝道が始まったときになるかもしれない。でも今,自分がしなくてはならないことを見つけてやるだけかなって思っています。」長谷川姉妹は李さんの店に教会員や宣教師を連れて度々訪れた。系図の探求による出会いが伝道の業につながっていく。

長い旅路の果てに

そんな李さん夫婦の助けを借りて数年前に,長谷川姉妹は夫婦で父親の故郷,山東省煙台福山区に行った。「父親の代わりに行きました。そこには系図を調べて協力してくれた従兄弟たちや,父のことを覚えている年配の方がいらっしゃり,父の面影を探すかのようにわたしの顔を見詰め泣いていました。……父の生まれ育った家がまだ残っていました。今では物置きになり壊れそうでしたが,父の代わりにわたしが来るまで耐えて待っているかのようでした。」

李さん夫婦は長谷川姉妹の親戚と連絡を取り,いろいろな手配をしてくれた。彼らとの出会いがなければこの訪問は実現しなかったかもしれない。「毛沢東の言葉に『出会いは偶然ではなく必然である』という言葉があります。教会の指導者の言葉ではないですが,それは真実だなと思いました。人と人との出会いにはつながりがあるんです。たった1通の手紙がたくさんの人との出会いといろいろな経験をさせてくれました。……系図による霊的な経験を皆に知ってほしいです。不思議なことがたくさん起こるんです。」

ワードで系図相談員の召しを果たしながら,長谷川姉妹は今日も福岡神殿で,一人でも多くの人が系図を探求し,先祖のために儀式を受けに来るのを待っている。◆

●先祖の心を子らへ,子らの心を先祖へ

長谷川姉妹と李さん夫妻

台北神殿にて

注:

1. 文化大革命とは,毛沢東の指導による権力闘争で,

反革命分子として処刑されたり職を追われたりなど粛

清の嵐が吹き荒れ,1億人ほどが被害に遭ったと言われ