リアホナ2011年8月号  東日本大震災と教会③ 「神様以外に分かっている方はいない」

東日本大震災と教会③ 「神様以外に分かっている方はいない」

見えない災害と戦う福島県の聖徒たち

◉東日本大震災と津波に加えて,福島第一原子力発電所の大事故に見舞われた福島県。今も現在進行形で進む,放射能という見えない災害の中で,不安と戦いながらも信仰によって前向きに生きる福島県の聖徒たちの現況をレポートします。(編集室)

福島県福島市3月11日,福島市内のすべての公立中学校では卒業式が行われた。仙台ステーク福島ワードの服部典子姉妹は,午前中に長男の卒業式を終えた。中学3年から幼稚園年長組まで5人の子供たちと伴侶の両親との9人家族を切り盛りする服部姉妹は,ちょうど買い物から帰って来たところだった。「週末だったので,(食料品を)2箱くらい山のように買って冷蔵庫にばんばんって入れて,─冷蔵庫も食糧貯蔵庫だと思って埋めておけって(教会の姉妹から)言われていたんですね,うちは停電はなかったのでほんとうによかったんです。─そして,さあ,卒業記念のDVDを見せてもらおう,と思っていたら揺れ出しました。すごく揺れて止まらなくて,息子は避難経路(を確保するため)2階の窓をがらがらと開けて。わたしは揺れの中で,とにかくもう泣きながら祈っていて。もっと福音をきちんと子供たちに教えておけばよかった,まだ早い─! と。(笑)」

今となっては笑いも交えて振り返る服部姉妹だが,深刻な事態はその後に忍び足でやって来た。

関西出身の服部姉妹は阪神淡路大震災を経験していたことから,断水に備えてまずは浴槽に水を貯めた。「主人が帰って来たら,水が出るうちにお風呂に入っておこうと。そのお風呂が怖くて。(余震で)たっぽんたっぽん揺れて揺れて,船に乗ってるかのごとく一夜を過ごして。でもその段階で福島市にはほんとうに何一つ原発の情報は来なかったんです。ニュースでまったく流れなかった。」

このときすでに福島第一原発1号機では冷却機能が停止,11日(金)夜に緊急事態宣言が発せられていた。翌12日(土)の午後3時36分,1号機が水素爆発。13日(日)早朝には周辺住民の避難が始まった。

「12日に白煙が上がって初めて報道されました。でも安息日ってテレビつけないじゃないですか。14日の報道はよく見ていて,ええっ?って感じだったんです。月曜日に爆発したのはよく覚えているんですけど( 1 4 日午前11時1分,3号機水素爆発)。(被曝量は)胃がん検診の何パーセントくらいだから大丈夫,直ちに健康に影響を及ぼす状況ではないので落ち着いて行動してください,っていうテロップばかり流れて。県からも市からも発表も避難勧告もなく,何も教えられないまま,ネットの情報だけで。主人がいろいろ検索してましたけど,主人も当時ステーク会長会の一員だったので安否確認に追われて,ステーク関係者や指導者とやり取りしていて。福島県の原発が危ないって(情報が)ほんとうに来たのは火曜日か水曜日。だから東京より遅かったと思います。」

そのころ,福島市西部にあるあづま総合体育館には,沿岸部からの被災者が続々とやって来ていた。特に第一原発の北にある浪江町,南相馬市からの被災者が多く,ピーク時にはおよそ2,500人の人が広大なメインアリーナとサブアリーナを埋め尽くした。

福島ワードの扶助協会会長である関野圭子姉妹は,この体育館を拠点とするスポーツクラブで体操のインストラクター兼事務員を務めている。震災後アリーナが使用できず,スポーツクラブの活動どころではなくなった関野姉妹は,自然と体育館で被災者への炊き出しなどを手伝うようになり,翌週には県の体育館職員からの依頼で,正式にボランティアのリーダーとして働くようになっていた。

「ちりちりするんです」

服部家では12日(土)の夜から断水が始まった。水の配給を受けるために並ばなければならない。物資も不足し,店の前でもガソリンスタンドでも長蛇の列だった。「(一人当たり決まった量しかもらえないので)子供を全員連れて行って水をもらったという人もいっぱいいて,皆,放射能の中を何時間も並んだんです。わたしは子供を屋外には出さなかったんですけど,それでも水汲みに行って何回か往復すると鼻の奥がちりちりして,のどもちりちりちりちりするんですよ。でも片や,浪江町の方から中学校の避難所に被災者が来ていて,手伝いたい気持ちもあるじゃないですか。それで(物資を)持って行ったりしていると(,鼻やのどが)ちりちりするんです。

やっぱりこれは子供を(外に)出せない,出たらだめだ,という気持ちと,何かしなきゃ,っていう気持ちとのジレンマで。テレビの画面もパチパチって言うんです。それは放射線に反応しているんじゃないかとか思ってしまって,そういう時期もありました。一時は福島市も20数μSv/h(マイクロシーベルト/毎時)を示していました。県立医大の方でもあまりにも高くなったので独自に公表しようか,という間にスッと下がってきたので緊急広報はしなかった,というんです。県ももちろん公表しない,避難勧告もしない。」

ちなみに福島市のウェブサイトによると,6月下旬の放射線量は,場所によって違いはあるものの,市内約1,10 0か所の測定地点の8割方が 2μSv/h 未満(地上1メートルで測定)である。2μSv/hの戸外に1年間いて受ける外部被曝量は約17.5ミリシーベルト。文部科学省は年間20ミリシーベルトまでは許容量と発表している。何が安全かについては,専門家の間でも様々な見解があり,マスコミやインターネット上で議論百出の状態が続いている。福島県に住む人々は当事者として,あふれる情報を吟味し,それぞれが今後の生活についての決断を迫られている。福島ワードの中でも,乳幼児を抱えて県外避難を決断し,引っ越して行かれた家族もいる。服部家族の場合は,「わたしたちは祝福されて食糧貯蔵だけはばっちりだったので,水もあるし食べ物もあるし,買い出しに行くこともないし。なので3月の間はいつも祈って過ごしたんです。とにかく子供たちは外に出さないで,とにかくネットで取れるだけ情報を取って,とにかく祈り続けて,脱出するべき時を神様に教えていただこう,といつも祈っていて。」

福島県いわき市

郡山地方部いわき支部は直線距離では,「原発にいちばん近い支部」だと,いわき支部の猪狩勉兄弟は言う。福島県南部に位置するいわき市の一部は,福島第一原発から30キロ圏内にかかっている。そのため被曝を恐れて,いわき市には震災後の一時期,物流のトラックが入って来なかった。沿岸部の津波被害に加え,そうした風評被害がいわき市民の生活に打撃を与えた。いわき支部の村田光男支部会長はこう振り返る。「ゴーストタウンみたいで,お店が1軒も開いていないんです。震災後1週間から10日くらいがいちばんひどかった。ガソリンも買えない。最低3時間,長い人で8時間並んでも買えない。暖を取ろうにも灯油も買えない。物を売ってないから,非常食も持っていない市民は明日の食事にも困ったわけですよね。それで避難した方がかなりいました。放射能っていうのは後から来たものだから,当初はそこまで深刻に考えていなかったみたいですね。時間がたつにつれてテレビで原発の問題が毎日報道されるうちに,じわりじわりと怖さが出てきて,それで避難した人も結構多いです。」(実際には,6月時点のいわき市の空間放射線量は福島市よりも低い0.5から1μSv/hを示している。)いわき支部でも,若い人を中心に何人かがつてを頼って県外へ退避した。「その怖さも分かるし,引き止めることもできないしねえ。彼らの考えがあって決めたんだろうし,残された人でやっていくしかないな,と思いましたね。」そう語る村田支部会長の口調から寂しさがにじむ。

いわき市でも震災後,停電はしなかったものの断水が長く続き,復旧まで3週間から1か月かかった。猪狩兄弟は中学生一人,小学生3人の4人の子供の父親である。家には72時間キットを備えており,また教会員から水を分けてもらうも,断水が長期化する中,とてもそれでは足りなかった。車で15分の所にある浄水場は24時間開いていたので,子供と一緒に水を汲みに行った。「すごい長蛇の列なんですね,なるべく並ばないようにと夜に行ったりしたんですけど。同時に,放射能に関する知識がほとんどなかったので,それがものすごく不安をあおりました。ほとんど体を覆った状態でいなくちゃならないとか,なるべく吸い込んではいけないとかで,マスクも手袋もしましたし,そういった状態でほとんどの方々が1時間から1時間半並んで待ちました。中には順番を巡ってけんかする人も。切ないですね,そういうのを見るっていうのは。」それでも,危機的状況で協力して水汲みに行くことは親子のきずなを強めた,と猪狩兄弟は前向きにとらえている。

猪狩兄弟の父親は,第一原発10キロ圏内の富岡町で自宅介護を受けながら独り暮らしをしていた。12日の水素爆発を受けていったん郡山へ集団避難したが,避難先が手狭になったため,親族のもとへ帰れる人は帰すとの方針でいわき市へやって来た。そこで猪狩兄弟もまた,避難するべきかの判断を迫られた。「家族で祈ったりする中で,子供たちのこともあるので一旦,避難しようと。原発のどういった影響があるか分からなかったものですから。体の弱い父親もいましたので,その中で水がない状態ではいかんだろうと。わたし個人としては,いわきは守られているという感じは強く持ってはいたんですけれども,家族の長としては,少しでも家族を安心させるのも務めの一つかなと思ったんですね。

3月19日に妻の実家のある山形県米沢市へ避難しました。5日間米沢にいて,仕事のためにわたしだけいわき市に戻りました。」

4月に入って学校が始まるころ,家族もまたいわき市に戻って来た。ちょうど水道が復旧したころだった。

祈りは力

猪狩兄弟は,自分にできることの一つとして,「具体的に祈ること」を挙げる。「わたしは毎朝起きたときに,インターネットで,今日は(原発で)どういった作業をするのかな,ということを調べています。それらが順調に進むように,といった具体的な祈りをしたいと思うんです。今回,原発に関して昼夜を問わず働いている方がおられるので,その方々のために,疲れが癒されるようにって,そういった祈りができると思うんですね。」

福島市の服部家族でも同様に祈っていた。「そんな中で生活しているので,もう祈りと信仰なしにはやっていけない。皆, 涙流して断食して祈りましたね,あのとき。子供たちも切迫感をもって一所懸命祈ってくれて。『原発で働いてる人たちも守ってください』って6歳の子が。ああやっぱり,よっぽど皆切実に感じてるのかな,って。

あと放射能の中のたくさんの自衛隊とか警察とか消防隊とか……日本中から来るんですよ。うちが相馬市に続く国道のそばにあって,ガソリンがないから車は走っていない。でも緊急車両だけはどんどん行く。いつもそれを見ているので。こんなに来てくれて……この人たちこんなに頑張ってるのに,自分たちだけ逃げるわけにはいかない,とにかく祈ろう,今,祈る人が一人でも減ったら困る!ってことで。やっぱり祈りは力だと思うし,神様に祈らないと,きっともっと大きな災いになっていたかなという気がするので。」

最前線で働く自負

いわき支部の塙良郎兄弟はいわき中央署の警察官である。震災翌日の12日には遺体収容のため沿岸部の被災地に入った。「ひどいですね。やっぱり」と塙兄弟は訥々と現場の状況を語る。

「(いわき市平)豊間に自衛隊の人と一緒に行ったけれども,道がもう……あのときは全然片付いていなくて,ひどいもんでしたね。遺体もどんどん次から次へ出てきまして。これ運んでこれ運んでって,忙しかったです。─わたしはもともと鑑識をやっていたから,死体は何千体見てるか分からない。だから(遺体を見ること自体は)別に違和感はないんですけどね。当時は腐ってもいないしね。まだ(震災が)起きたばっかりで。そのままの状態で。」豊間では長く親しくしていた夫妻が一緒に水死しているのを塙兄弟自身が見つけたという。遺体には津波から逃れようとした形跡があった。「ああ,ちょっと前まで元気だったのになあ,なんて……いや,つらいですね。」

塙兄弟は淡々と話し続ける。

「最近(4月下旬)になって,富岡町とか,原発の近くの,まだ遺体が手つかずの所に行くようになったんです。(放射線で)近づけなかったんですね。だから1か月過ぎちゃって,遺体がもう白骨化して,そういう状態なんです。」

原発近くの捜索に入るときは,原発作業員が着ているのと同じ,白い不織布の防護服を着なければならない。放射性物質が付着しないよう,絶対に肌を出さないようにする。防毒マスクにゴーグル。長靴と手袋との境はガムテープでふさぐ。瓦礫に引っ掛けて破くとガムテープで補修する。一度着用すると水も飲めない。「あんなの着てはこういう瓦礫の中での作業なんかできないですよ,暑くて暑くて,ひどいもんですねあれは」と塙兄弟。しかし現場ではゴーグルが曇ってしまうので,外して拭きながら遺体を探すことになる。それで「( 目もとが)だいぶ被曝しちゃったんじゃないかな」と笑って言う。そうした職務が何日も何日も続く。

過酷な現場に赴く使命感のよって立つところを,塙兄弟はこう説明する。「原発の近くの,入れない所で,もしも自分の子供とか女房とかが白骨化してそのまま野ざらしになってたら,何とかしてくれ,っていうのが人情ですよね。そういうのを思えば,ちょっと被曝しようが何しようが,行ってやりたいって気持ちになります。家族の人が涙こぼして,見つけてくださいって言ってるのがいちばん,わたしらのやる気の源ですね。わたしはそれだけで動いてる人間ですから。それがなくなったら終わりですよ。警察官として,人間としてね。別に, 被曝しようが何しようが,少しくらい寿命, 短くなったってどうってことない,そんなに命を惜しがって仕事やってるわけでもないし。」

塙兄弟の息子さんもまた警察官として,原発から10キロ圏内で遺体収容の職務についている。「ずっとそっちに張りつけになってます。若い人でないと務まらないですよ,激務ですから。まして,休みなんかないですから。あれだけの重責に堪えるのは年配じゃ無理です。だから若い人にやってもらわないと,だめですもんねえ。わたしよりも子供の方が,かわいそうだなあと思ってますね。」

ふるさとが失われる

村田支部会長にはこのいわき市と,米国ユタ州在住のお子さん,お孫さんがいる。「孫たちから見ると,ここが田舎なんだけどね。わたしたち夫婦だけの生活じゃないな,とふと思いますね。」─いわきは福島県でもいちばん温暖で,住みやすい土地だという。震災さえなければ,この7月には娘さんがユタからお孫さんを連れて里帰りする予定だった。しかし,「今回,行かないから……」と連絡があったという。村田会長は語る。「当たり前かもしれないですね,小さい子もいるし。それに,夏に来るといっても海岸に行くわけにはいかないし。」村田会長はため息まじりに言う。いわきの美しい海岸線は海水浴やサーフィンのメッカだった。福島県は特産の果物でフルーツ王国と称えられ,海産物も豊かだった。塙兄弟も言う。「もう海はだめでしょ。今年は海水浴もだめ。放射能のおかげで,何もなくなっちゃうんじゃないですか。」─土地を離れた人にとっても田舎は心のよりどころである。ふるさとが失われる,ということの意味は重い。

入り乱れる情報

再び福島市にて。4月に入るころ,服部姉妹の周辺でも様々な情報が流れるようになってきた。「放射能の状態がだんだん明るみに出てきて,避難する人が増えてきたんです。でも,やっぱり行政からは,避難しなさいという話はぜんぜん聞かなかったですね。ただ,うちの学区には,県職員さんの公舎があるんです。だから,娘の友達やそのお母さんから,もうこれは避難レベルなんだよ,といった県の裏話をいろいろ聞かされると,どうしてわたしたちには教えられないのかな? ほんとうに大丈夫なの? っていう疑心暗鬼が生じて,ものすごいストレスで……。そんな中,日本全国からいろいろな友人たちが連絡をくれて,『避難するならいつでも来て!』って励まされてました。特に米軍関係の知り合いからは3月の段階で,もうメルトダウンを起こしてるよ,早く来て……!って。やっぱり(米軍には)情報がすぐに流れて行くのでちゃんと伝わってて。」(メルトダウンの事実を東京電力が公表したのは5月12日)

様々に錯綜する情報の中で,専門家でもない個人が何をするべきか決めるのは荷が重い。しかし,子供を守るためには何らかの判断を下さなければならない。「(線量計の)針が振り切れたとかいう話はいろいろな所から入って来るし,テレビで報道される測定値と彼らが言う測定値は違うし,ネットに流れるのもちょっと違う情報だったので。もうとにかく御霊の導きだけが頼りでしたね。」

服部家の10 0メートルほど先には下水処理場がある。そこの汚泥から,キロ当たり44万6,000ベクレルという高濃度放射性セシウムが検出された。この汚泥について地域住民への説明会が開かれ,服部姉妹も足を運んだ。多くの報道陣が取材に詰めかけた。振り返って服部姉妹は言う。「わたしたちも取材される機会がすごく増えたんですけど,結局分かったことは,取材した側は,自分たちが欲しい情報しか取らないということです。やっぱ

り怒ってる姿が欲しいんです,彼らは。でも,福島県民って穏やかな方が多いので,あまりそのような意見をおっしゃる方がいないんです。忍耐して, 『……仕方ないべ,頑張っていこう』って,ほとんどがそういう方です。でも,自分たちが言いたいような話にもっていきたいから,そういう意図に添って発言した人だけをチョイスしている。だれかが怒りの気持ちをバーッと言うと,シャッターがバチバチバチバチ……結局,中央局の撮られる映像には,怒った住民の姿だけが出てくるんです。まあそれも大事な側面ではあるんですけど,そうじゃなくて,現場も混乱してて,皆混乱している中で一所懸命やろうとしている人もいるわけです。でも,怒りの部分だけを見せると結局は,行政がだめ,国がだめ,みたいな意見しか出てこなくて,視聴者も全然,建設的な気持ちにならないじゃないですか。なので,真実というものからはやっぱりほど遠いかな,もっといい報道のあり方はないのかな,と感じましたね。

これだけ情報が氾濫してて,しかも情報を提供してる側もそんななんだ,というのをつぶさに見ると,もうやっぱり神様以外に真実を分かっていらっしゃる方はいない,という結論になりますよね。」

子供たちの受難

服部家族では自宅に線量計を備え,身近な場所を自分で計測している。同じ福島市内でも場所によって放射線量は違い,福島ワードや服部家のある市役所周辺は比較的線量が高い。一方,関野家のあるあづま総合体育館付近は,服部家の室内の線量レベル(0. 2μSv/h)くらいだという。 服部姉妹は言う。「学校から帰宅しても外遊びはできない。地域全体で公園はがらがら,草ぼうぼう。近隣には放射線量の高いホットスポットがあって,近くの山でおそらく風が巻いたんだろうって話なんですけど。最初のうちは土もいじるな,草引きもしちゃだめだと。

空気中の放射能値ももう,固定してきて,(窓を)開けても大して変わりないだろうって言われてますけど,やっぱり風のある日に開けると,ぽんぽんぽんぽん……と放射能数値が上がっちゃうので。(線量計が)あればあったでまた,ものすごいストレス……何もできない,怖くて。」

子供たちは特に不自由な生活を強いられている。教室では窓を開けられない。湿度80パーセント,温度34℃といった中で授業を受けている。先生も児童もあせもに悩まされる。エアコンの設置を度々陳情するが,学校全体にエアコンを導入するとヒューズが飛ぶ。大規模な電源工事が必要ですぐには実現できない。屋外体育もできなかったが,服部姉妹をはじめ多くの父母が教育委員会に働きかけ,ようやく校庭の表土入れ換えが実施された。

「(表土入れ換えを)やってくださったので, (校庭の線量が)3.8とか3.6μSv/hだったのが,今,0.〜1.数μSv/hくらいに下がりました。(屋外体育を)1時間だけ,そろそろ始めます,ってお知らせが最近来ました。でも今年はプールもないし,運動会ももう中止になってしまったし,市を挙げての鼓笛パレードの練習もずっとしてきたんですけど,それもなくなって。あと宿泊学習もなくなって。6年生の娘はほんとうに気の毒です。陸上大会もないし,水泳大会もないでしょう。全部……ですよね。」─服部姉妹はぽつりと,その思いをつぶやく。「本来なら今ごろ,ほんとうに輝いていた時期なんですけどねえ……。卒業対策委員会をやっていて,アルバムの写真がない,もうどうしよう……みたいな。ほんとうに子供たちはかわいそうですね。」

それぞれが御霊によって判断する

進行する原発災害の中,地域七十人の仲介によって福島県のユニットに,医師で筑波大学講師の根本清貴兄弟が招かれ,放射線の基礎知識についての特別ファイヤサイドが開かれた(4月3日,いわき支部。6月19日,福島ワード)。根本兄弟の専門は精神医学だが,かつて国立精神・神経センターの放射線診療部でも働いていた。

服部姉妹は言う。「根本兄弟は最初に,『わたしが伝える情報は,これはわたしが正しいと思って話す内容です。でもこれが正しいかどうかは,皆さんが御霊の確認をもらってください。』そうおっしゃった。それは当然のことなんですけれど,そういう福音の原則が改めて確認されると安心します。自分もそういえばあのとき,いつも祈ったら,大丈夫,大丈夫,って答えをもらってたわけですよね。だからほんとうに御霊の裏付けをもらって,もう一回冷静に情報を整理する必要があるなあ,と。

御霊を欠くような感情的な行動に走ってはいけないな,ただ冷静に, (校庭の土の入れ換えや,教室のクーラー導入など)言うべき意見は言っていかなきゃいけない,とすごく思いました。(何が安全かは)確かに意見の分かれる部分ではあるので,また,年齢によっても個人によっても(放射線に対する)感受性が違うので,(県外に)行かれる人は行かれるし,その方が平安があるならそうされたらいいと思うし。

うちも,何回も断食して,服部家脱出について祈ったんですけど,やっぱり御霊の促しは,わたしも主人も,いやあちょっと違うんじゃないか……って感じだったんです。」ただしその判断も,「うちの場合は,ですよ」と服部姉妹は再度強調する。「ほんとうにもう……(涙)祈りがなかったら絶対に逃げている,と思います。でも不安になるたびに断食して祈ると,『大丈夫』っていう気持ちがいつもあって。御霊の導きの中では, (福島に)とどまっていても大丈夫,ただ自分の五感,自分の知恵を使いなさい,っていつも言われましたね。」

知恵の言葉への信仰

多くの人が見えない放射能にただおびえる中にあって,いわき支部の猪狩兄弟は,個人レベルでもできることはある,と語る。「今回,教会員であるがゆえに,知恵の言葉というものが非常に有益だと思っています。放射性物質の中で体内に入ると非常に怖いものにセシウム137というのがあって,半減期が30年なんです。ただ,人間の体もものすごくうまくできてまして,新陳代謝という機能があります。その機能を高めるためには,健全な肉体を保たなければいけないと思うんですね。具体的には,運動して心肺機能を高める。あるいは普段の歩くスピードを少し早めてみるとか。」職場の同僚は,なぜこの状況下でそこまで前向きになれるのか,と驚くという。そんなとき, 「実は教会で,知恵の言葉というのがあって……といった話が少しでもできるといいかなあ,と思ってるんですけど。」

福島の服部姉妹はこう話す。「セシウムが(福島の子供の尿から)検出されたって聞けば皆もう,ええっ!って体が凍り付いて,ストレスでもう唾液が出なくなる,そんな状態がずっと続いています。でも,わたしたちは知恵の言葉を知ってるし,わたしたち家族もとにかく,頼みの綱は戒めを守ることだ,とにかく家族の中では戒めだけはしっかり守ろう,教会にもしっかり行こう,それ以外に守られる道はない,って家族で話しました。給食で出た牛乳にセシウムが仮に入っていたとしても,早くに排泄されるように体は働くはずだし,またそういう信仰を持とう,と。」

奉仕の力

村田支部会長はいわき市中心部から30キロほど南にある大手化学メーカーの工場で働いている。震災後,工場はすぐに稼働できなかったが,社員は出勤するよう求められた。しかし村田会長は瞬時に,貴重なガソリンは通勤よりも人を助けるために使おう,と判断する。普段から教会員であると公言していた村田会長は,「ボランティアで救援物資搬送と安否確認をするから,こっちを選びますから」と率直に会社へ伝えて3月の半分を無給休暇とした。高速は不通となったので一般道で,郡山支部へ何度も支援物資を取りに行き,会員に届け,安否確認する。「仕事でそういうことはないけど,教会のことをやっていると,やっぱりすごく安心感があってね。」

一方,あづま総合体育館で被災者のお世話をしたときのことを関野姉妹はこう振り返る。「(原発)報道を見たときには,はあ……どうなるんだろう,っていう不安はありました。」しかしその後,ボランティアの現場に入ってしまうと,目の前の被災者のための心遣いへ思いが向いて不安は消えた。夕食は6時,温かいうちに食べてもらいたい……。「やっぱり(ボランティアを)やって祝福だったと思います。(放射能の不安に)煩わされない,という形で,わたしの方が多分,助けられたと思います。」

服部姉妹も言う。沿岸部からの避難者で児童数は膨れ上がり,「教育現場はむちゃくちゃです。でも,先生たちも親もみんな一所懸命やってます。」被災児童の学用品が足りない。ランドセル,絵の具道具,体操服……。「すぐメールを回したら, いっぺんにたくさん集まって。『もっとない? 何かすることない?』と皆さんおっしゃって。皆,何かしたいと思ってるけど,放射能はあるし,何を頼ったらいいのか分からないしで暗い顔してたのに,何かの役に立ってると思うとコミュニケーションも生まれて,皆元気になって。やっぱり,奉仕するのは神様の方法だな,って思いました。」

「泣いていいんですよ」

服部姉妹は続ける。「いつもラジオつけてて,被災の話とか聞きながら泣きそうになるんですよ。だけど,泣くほど大変じゃないじゃないですか,福島市って。家はあるし子供は元気だし,何も困ってないのになぜわたし泣こうとしてるんだろう,と。でもね,ほんとうに時々大声で泣きたくなりません?(笑)」─そう問いかけられて関野姉妹も思い当たったように,避難所での被災者支援に忙しく働いていた時期を振り返る。「何か心にもやもやしたものがあって。疲れなのかな,自分の時間が持てないストレスだったのかな……。」服部姉妹も共感する。「震災からこっち,( 心のどこかが)ずっと張りつめてますよね。」

原発災害は目に見えないだけに,表面的には普通の生活をしているようでも,そのつらさやストレスを内に抱え込むことになる。自分でも気づかないうちに心は疲れているかもしれない。服部姉妹は続ける。「この間ステーク大会で,女性の集会のときに青柳城子姉妹(青柳弘一長老夫人)が,『泣いていいんですよ』って言われて初めて,自分も,ああそうか泣いていなかったなあ,って思って。『泣くに時があり』(伝道3:4)って聖句がありますね。それで,その次の日に思いっきり泣いたんです。……(涙)そうすると,ちょっとストレス解消というか,前向きになれたっていうか。出口のないつらさ,みたいなので大変だと思うんですけど,根本兄弟も,チェルノブイリでは自殺が多かった,っておっしゃってて。その一言で何か目が覚めました。これ以上自分を鬱々と追い込んじゃだめだな,と。」関野姉妹も同意する。「ストレス(を溜め込む)方が,かえって癌になっちゃう。」人間の体細胞は免疫力で常に癌化を抑え込んでいる。その免疫力が落ちたとき癌や感染症が発症するという。そして過度のストレスは免疫力を低下させる。服部姉妹はこう結ぶ。「だからいかに楽観的に,いかに明るく楽しくこの放射能を乗り切るかっていうのが,課題ですよね。」◆