リアホナ2011年4月号 福祉のABC 11

福祉のABC 11

 (教会福祉部)

親切

トーマス・S・モンソン大管長は2010年10月に行われた総大会の最後に,預言者たちが長年語ってきた一つの努力目標を繰り返しました。「今,大会は終わりました。……

互いに対して,いっそうの思いやりを示すことができますように。主の業にさらによく携わることができますように。」(「また逢う日まで」『リアホナ』2010年11月号,112)パウロはエペソ人に次のような言葉で努力を促しています。「互いに情け深く,あわれみ深い者となり,神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように,あなたがたも互にゆるし合いなさい。」(エペソ4:32)

ゴードン・B・ヒンクレー大管長はこれを次のように言っています。「わたし自身は,これまでよりももっと善い人になろうという決意をさらに強めることができました。悩める人に会ったとき,もう少し親切になりたいと願っています。助けを必要とする人々に対して,もう少し力になりたいと思います。……わたしは,末日聖徒は全般的に見て善良な民であると,心から信じています。もしわたしたちが福音の原則に従っているのなら,わたしたちは善良な民に違いないのです。わたしたちは高潔で,親切で,思いやりに満ち,寛大な人となり,困っている人の力となり,手を差し伸べる人となるはずだからです。」(「より善い人になりましょう」『リアホナ』2002年11 月号,99 )

「神の愛に満たされた人は,自分の家族に祝福を与えるだけでは満足せず,全人類に祝福を与えたいと望み,全世界を巡ります。」(ジョセフ・スミス,History of the Church ,第4巻,227)とジョセフ・スミスは語りました。

親切という徳と共鳴する徳は多くあります。愛,思いやり,気遣い,助力,赦し,寛大,思いやり,包容力などです。キリストが備えておられるほかの多くの属性と同様,親切も,神に近づくことによって得ることができます。親切とは,おとなしくしていることではなく,行動的で活力に満ちたものです。親切は与える側と受ける側の双方に祝福をもたらします。

大管長会が初めて教会福祉計画を導入した1936年に,J・ルーベン・クラーク管長は次のように述べています。「福祉計画の真の長期目標は,与える側と受ける側双方の教会員の人格を築き,人の心の奥深くに眠っている最も優れたものをすべて解き放ち,内に秘められた豊かな精神を開花結実させることである。……」

ほんとうの宝物

モンソン大管長は,子供時代の経験を例にして,親切な行為が,与える側と受ける側にどのような影響を及ぼすかを明らかにしています。それは,子供たちが誤って庭に打ち込んでしまったボールを返そうとしない隣人の話でした。ボールを全部没収してしまうので,子供たちはシャイナス夫人をとても嫌がっていました。そんなある日の夕方,家の手伝いをしていたトミー・モンソンは,シャイナス夫人の家の芝生が枯れかかっているのに気づきました。その日から夏の間中,トミーは自分の家のホースで彼女の芝生に水をやりました。数か月が経ちました。その間,シャイナス夫人を見かけることは一度もありませんでしたが,彼女がトミーの親切な行為に気づいていたことを知ることになります。ある日の夕方,彼女はドアを開けて,彼を家に招き入れました。シャイナス夫人はトミーに牛乳とクッキーを出して,没収していたボールを全部返してくれたのです。この経験についてモンソン大管長はこう言っています。「彼女は〔ボールがいっぱい入った〕箱をわたしに渡してくれました。しかし,ほんとうの宝物はその箱の中ではなく,彼女の言葉の中にありました。そのとき,わたしは初めてシャイナス夫人のほほえんだ顔を見ました。彼女はこう言ってくれたのです。『トミー,このボールを返したかったの。それから,親切にしてくれてありがとうって言いたかったのよ。』」(「永遠の航海」『リアホナ』2000年7月号,58)こうした親切な行いをする人にも受ける人にも,神の愛は注がれるのです。

モンソン大管長は,注意するべきことについても述べています。「親切にした相手から一言もないため,もう一度同様の親切を繰り返す気にさせるあの高貴な思いや優しい心を味わえずに終わることもしばしばです。」(同上)

できるときに,できる所で親切に助けの手を差し伸べ,ほかの人を心から気遣いましょう。親切な行いは人の生活に大きな喜びをもたらすことができます。親切を受ける側になったときには,相手の親切を謙遜に,感謝の心をもって受けましょう。「ありがとう」という簡単な言葉こそ,親切な行為に対するお礼として双方を神の愛で包み込む最も親切な方法かもしれません。◆