リアホナ2010年9月号 福祉のABCシリーズ6

福祉のABCシリーズ6

(地域福祉部)

断食

あの恐ろしい毎月の第1日曜日。10代の若者にとっては,1か月の中で最悪の日,期末試験以上に嫌な日でさえあるかもしれません。期末試験の週には,少なくとも自由に飲食ができるからです。大人にとっては,「対処」の日です。おなかがすいたと文句を言う子供たちに対処します。そして自分たちも土曜日から何も食べていないので,いつもより少ないエネルギーで日常の活動に対処します。この日に悩まされることがないのは,幼い子供たちだけのようです。子供たちは断食日曜日には元気が倍増するらしく,10代の若者や大人たちの張り詰めた気持ちを刺激するばかりです。

これが断食の律法を授けたときに主が思い描いておられたことだとは考えにくいです。しかしいつの時代にも,人の生まれながらの性向と,この戒めに対する理解の欠如から,断食は軽んじられ,抵抗に遭ってきました。実際に,主は断食を軽く考えていた昔の民を叱責しておられます(イザヤ58:3-5参照)。それから,主は御自分が断食に期待しておられることと,熱心に断食する者に備えられている祝福について述べられました。「わたしが選ぶところの断食は,悪のなわをほどき,くびきのひもを解き,しえたげられる者を放ち去らせ,すべてのくびきを折るなどの事ではないか。また飢えた者に,あなたのパンを分け与え,さすらえる貧しい者を,あなたの家に入れ,裸の者を見て,これに着せ,自分の骨肉に身を隠さないなどの事ではないか。」(イザヤ58:6-7)

断食日曜日は解放の日です。断食をする人は,悪の縄目から,また重荷から解放されます。神に心を向け,支援を必要としている神の子供たちに心を向けることによって,物質的およびこの世的な欲望から解き放たれます。そして断食をして断食献金を納める人々の犠牲と善意によって,飢えている人,貧しい人,着る物のない人,乏しい人,体の弱い人,病気の人,その他の理由で苦しんでいる人が解放されます。愛にあふれた指導者と会員が差し出すこれらの献金と奉仕によって,ほかの方法では耐えようがないこの世の事柄から一時的に解き放たれるのです。

断食がもたらす霊的な強さ

理想の断食について述べた後,主は次のように約束されました。「そうすれば,……主の栄光はあなたのしんがりとなる。また,あなたが呼ぶとき,主は答えられ,あなたが叫ぶとき,『わたしはここにおる』と言われる。」(イザヤ58:8-9)2度の食事とわずかな献金への見返りに,何とすばらしい約束が与えられていることでしょうか。

ロムニー管長は,断食によってさらに豊かに霊的な祝福を受ける方法を会員に紹介しています。「もし教会員が断食献金を2倍にすれば,教会の霊性は2倍に高まります。わたしたちはそのことを心に留めて,惜しみなく献金する必要があります。」(Welfare Agricultural Meeting,1971年4月3日,1)

断食がもたらす身体的および物質的な祝福

もたらされる祝福には物質的なものもあります。わたしたちは次のような約束を受けています。「そうすれば,あなたの光が暁のようにあらわれ出て,あなたは,すみやかにいやされ〔る〕。……主は常にあなたを導き,良き物をもってあなたの願いを満ち足らせ,あなたの骨を強くされる。あなたは潤った園のように,水の絶えない泉のようになる。」(イザヤ58:8,11)熱心に断食することによりこれらの祝福を受けているところを想像してみてください。

『エンサイン』(Ensign)のある記事は,断食献金を納めることによって直ちに物質的な祝福がもたらされた経験を紹介しています。旅行中のある若い男性が,断食献金と必要経費を払い,トランクと切符を買う必要がありました。しかしそのうちの二つを行うお金しかありません。結局,その男性は霊感に従って断食献金を納め,必要経費を払いました。すると帰宅途中でトランクを持った男性に出会い,その人が快くトランクを譲ってくれたのです。(ラリー・E・モリス,“Fast Offerings: A Place for the Second Mile,”Ensign,1979年2月号参照)わたしたちが信仰を示し,必要な犠牲を払って断食し,断食献金を惜しみなく納めるとき,主はわたしたちに祝福を授けることがおできになり,また授けたいと望まれ,実際に授けてくださるのです。

どうすればよいでしょうか。こう自問してみてください。

断食し,断食献金を納めることによってどのような祝福を受けてきただろうか。断食をより有意義なものとするために何ができるだろうか。

助けの必要な人々のために,もう少し惜しみなく断食献金を納めることができるだろうか。◆