リアホナ2010年6月号 希望を見いだす2

希望を見いだす2

一つの扉が閉じるとき,別の扉が

──羽岡照代姉妹  武蔵野ステーク国立ワード

「あっ,わたしはこの教会の会員になるんだ……。」

羽岡照代姉妹は,初めて教会の玄関に立ったときにそのような気持ちを感じたという。今から31年前。故郷の宮崎でのことだ。「妹がとても楽しそうに教会の英会話で学んでいたので,気分転換になるかと思ってわたしも足を運んでみました。」

英会話クラスの後で,宣教師からジョセフ・スミスの最初の示現についての映画を見せてもらった羽岡(旧姓:福良)姉妹。「涙が止まりませんでした。神様に会った人がいたんだとはっきり分かりました。わたしがあまりにも泣くので,宣教師が心配したほどでした。……わたしはキリスト教という捉え方ではなく,ジョセフ・スミスが神様とイエス・キリストに会ったということへの確信を持っていたので,何も疑うことなく改宗しました。」

羽岡姉妹が教会に安らぎを求めたのには理由がある。「父は酒もタバコも飲まない人でしたが,多忙な人で,わたしが18歳のときに肝腫瘍で亡くなりました。大好きだった父が突然亡くなり,どこにいるんだろう,何でわたしたち家族にこのようなことが起こるのだろう,と考えていました。父親を中心とした家族で,家族の関係も良く,父と母のけんかも一度も見たことがありませんでした。父が突然いなくなり,精神的に不安定になりました。どうやって生きていくか指針を示してくれる人がいなくなった感じでした。母も父の死によって弱くなっていました。」

享年51。若すぎる死だった。「母はわたしと妹を気遣って,父の病名をわたしたちに知らせていませんでした。母が看病に疲れ,わたしが病院へ泊まり込み,そこから学校へ通うことになりました。亡くなる1か月前になって,初めて病名が知らされました。それまでは自分は幸せだと思って生活してきたので,父の突然の死はわたしたち家族を困惑させました。亡くなった父のそばへ行きたくて,何かの原因で自分も命を落とせばいいと思うほどでした。いつも苦しいことがあると,父を探し求めるような気持ちで生活していました。」

気持ちの癒される場所を求めていた羽岡姉妹。ちょうどそんなときに教会と出会った。改宗した羽岡姉妹は仙台伝道部で宣教師として奉仕した。そして帰還後に,将来の夫となる利昭兄弟と出会う。青森出身の利明兄弟は,横浜で宣教師に導かれて改宗し,27歳のときに札幌伝道部で伝道していた。

主の御み心こころを信頼するまで

結婚したばかりの羽岡夫妻の新婚生活は,決して順風満帆と言えるものではなかった。「結婚して2か月目,わたしは病気になり,癌かもしれないと言われました。卵巣膿腫でした。子供は授からないだろうと医者から言われ,悩むこともありました。けれど,2年後に長男を出産することができましたし,その5年後には次男を授かりました。」

そして,家族4人の幸せな家庭を築き始めたころ,新たな試練が羽岡ご夫妻のうえに訪れる。「1998年5月のことでした。夫の肩の位置が通常より上がっている感じがしました。また,胃のあたりがふくれているように見えました。父が肝臓を悪くして同じような症状だったので,病院へ行くことを勧めました。しかし,病院で検査しても何も分かりませんでした。血液内科で精密検査をしたところ,脾臓が腫れているようだが,手術をして内部を見てみないと分からないと言われました。手術してから2か月半が経過しても原因は不明でした。」

最終的に判明した病名は,悪性繊維性組織球腫。罹患率が年間50万人に1人くらいと推測される難病で,悪性腫瘍のなかでは非常にまれなものだった。

「友人も手を尽くしてくれましたが,治療法は見つかりませんでした。医師からは余命半年と告知を受けました。夫は最初から宣告を聞きたいということでしたので,すべて知っていました。」

幼い子供を抱える羽岡ご夫妻に突きつけられた問題は,簡単には解決の糸口を見つけられるものではなかった。「なぜこんな難しい病気になったのだろうと二人でよく話し合いました。わたしたちに何が足りないのか考えました。夫はまずはわたしたちが清められる必要があるのではないかと言いました。そして,自分たちの悔い改めをし,自分たちにどんな罪があるのだろうかと深く考え始めました。結婚してから夫婦の祈りと聖典学習を毎朝家族で行ってきたので,思い当たる節がないようにも感じました。そのときに,目に留まったのが,リチャード・G・スコット長老のお話でした。」

羽岡姉妹が見つけた記事は,「主を信頼する」というものだった。「わたしの介護生活のすべてがここに書かれていました。このお話からどれだけ力を受けたか分かりません。何度も何度も読み返しました。その結果,書き込みばかりが多くなってしまいました。」

「主から導きを受けるためには,もっと清くなることが必要だったのです。そうしなければ,病気と戦うこともできないと思いました。もっともっと清く生活しようと夫は提案しました。夫には,『ぼくは患者としてプロになるから,あなたは母親としてまた,介護する人としてプロになってほしい』と言われました。たとえ医師に見放されても,二人で奇跡を起こすという気持ちで,神様の御心を知るまではあきらめないで頑張る決意をしました。」

羽岡兄弟の病気はとても手強かった。手術して3か月後には再発し,悪性度はかなり高いものだった。「最初の手術で,腎臓片方,脾臓,胃と膵臓の一部の相当な量を摘出しました。手術後に,外科用皿に載せられた,肉腫が入り込んでいるような塊を見せられたときは,気が遠くなるようでした。それでも,二人で奇跡を起こそうと決意していました。」

しかし,その3か月後には同じ大きさの肉腫が再発しているような状況だった。癌の進行するスピードは速く,医師からは,これ以上手術をすることはできないと宣告された。

新しい治療方法を求めて奔走する羽岡ご夫妻。複数の病院の医師にも助けられ,新しい治療方法を試すこともできた。しかし羽岡兄弟の病状は好転することはなかった。

「闘病生活の中で,夫は食事が取れなくなり,高カロリー液をチューブで体内に入れるようになりました。8か月間食事ができませんでした。それでも夫はまったく不平を言いません。痛みを抑えるために夫の足をマッサージをしているとき,わたしが涙をこぼすと,『主は生きていらっしゃるから心配しないで』とわたしに語りかけてくれました。意外に思われるかもしれませんが,夫の闘病生活にかかわることで,『結婚させていただきありがとうございました』という気持ちになり,幸せなことだと思いました。」

「病気は大変でしたが,この病気を通してわたしたちはほんとうの夫婦になれました。本来ならば,何十年もかけて夫婦の関係が形成されていきますが,わたしたちは12年という短い期間で,互いに理想的な夫婦の形を作り上げることができました。心から夫と結婚できたことに感謝しました。彼が病と戦っている姿を見て,頭が下がる思いでした。点滴をする場所がなくなり,別の場所へ代えるのですが,注射針が何度も刺された場所は肉が裂け,穴があいてしまっていました。さらに吐血と下血を繰り返します。そのような状態でも夫は穏やかで,いつも賛美歌と聖典を離さない生活をしていました。部屋ではいつも賛美歌を流していました。『あなたが安息日の御霊を運んで来るので,子供と一緒に教会へ行きなさい』と逆に励まされていました。」

「わたしも夫も奇跡が起きることを願っていたので,祈りの中では『主の御心のままに』とは言っていましたが,心の奥底では,命を取られることだけは避けたいと願っていました。」

スコット長老はこう教える。「心の奥底にある個人の望みを二の次にして主の御心に従うのは,大変難しいことです。しかし,心からの確信を抱いて,『あなたの御心をお教えください』,『あなたの御心がなりますように』と祈れば,皆さんは愛に満ちた天の御父から最大限の助けを受けられる強い立場に身を置くことになります。

この人生は心からの信頼を基とした経験の場です。つまり,イエス・キリストへの信頼,イエス・キリストの教えに対する信頼,聖なる御霊に導かれるわたしたちの能力への信頼です。」(「主を信頼する」リチャード・G・スコット,『聖徒の道』1996年1月号,

「苦しいことはたくさんありましたが,ここに書かれていることを実践し,すべての祈りが聞き届けられてきました。しかし,夫が生き長らえるということは,主の御心ではないとはっきり気がついたんです。夫の痛ましい姿を見ながらも,頑固なわたしがいつもいました。つまり,自分の希望だけを願って,主の御心を受け入れていなかったのです。夫は主によってこの地上へ送られ,主によって再び天へ戻るのだと気づき,この世のすべてのものは主から与えられ,主が取られるのであれば,わたしたちは何も言ってはいけないと気づいたとき,御心が分かりました。

そして,その10日後に夫は主のもとへ帰って行きました。わたしがそのような気持ちになれず,頑固だったので,夫の命がしばらく延ばされたのだと思います。宣告された時期よりも半年も長く生きられたのは,治療による効果もあるかもしれませんが,わたしが準備するのに時間が必要だったからではないかと感じています。」

発病してから1年10か月後の2000年3月19日,家族と別れ,彼はこの世を旅立って行く。長男が9歳,次男は5歳。羽岡兄弟は41歳だった。

たくさんの替わりの扉

羽岡ご夫妻の長男の信兄弟には多少,父親の記憶が残っているが,次男の達希兄弟はほとんど覚えていない。それでも,羽岡兄弟姉妹が残した伝統は今でも家庭の中に息づいている。

「夫はいつもポジティブな考えを持っていて,マイナスの信仰心はやめなさいと言っていました。夫は亡くなりましたが,子供たちとの朝の祈りや聖典勉強は今に至るまで20年以上続けています。わたしは父親を亡くしているので,夫が持っていた賜物については子供たちにいつも話し続けてきました。聖典の中から自分の経験と重なるものがあれば,子供に証をしました。夫は絶対に人の悪口を言わない人でしたので,子供たちが人の弱点に気づいたときには,ほかの良い面を見るように伝えたり,どんな助けができるか考えさせるようにしました。さらに,人の弱点が見えるようになったということは,自分がその部分を助けられる人間になったということだと教えてきました。人の弱さを責めるのではなく,その人を支えられるような人格を築くことを心がけるように教えてきました。」

羽岡兄弟が亡くなっても,長男の信兄弟が父親の役割をしていると感じることもあったという。信兄弟がメルキゼデク神権を受けたとき,「我が家に神権者が10年ぶりに戻って来た」と感謝した羽岡姉妹。「息子から何度も神権の祝福を受けてきました」と微笑む。そして信兄弟は福岡伝道部に召され,2010年3月にMTCへ旅立った。「長男が伝道へ出たので,一つ何かを達成したような気がしました。」

伝道へ旅立つ前のことだった。信兄弟が次男の達希兄弟に語り始めた。「わたしはあなたに勧めをできるような立派な人間ではないけれど,あなたにちゃんと話ができるようにと主に祈ってきました。いたらない兄だけど,勇気が欲しいと主に祈ってきました。今,話すようにと御霊の促しを受けるのであなたに話します。」

羽岡姉妹はこう述懐する。「午後10時ごろから午前2時ごろまで3人で話しました。そのときに,次男がポロポロと涙を流しながら『お兄ちゃんが御霊によって語っているのが分かりました』と言っていました。長男が伝道へ出るまでにそのようなことが何回かありました。宣教師の召しが来る少し前から,霊的に成長して,夫と見間違えるようなこともありました。」

「夫はわたしたち家族にとってかけがえのない人です。しかし,夫が亡くなって霊が旅立ったとき,大丈夫だという気持ちに包まれました。主は,今までの人生よりも幸せになるために夫を連れて行かれたのです。子供たちにも,お父さんがいないことは寂しいことだけれど,わたしたちは決して不幸にはならないので心配しなくていい,絶対に幸せになろうと話しました。」

羽岡兄弟が亡くなったことで,家族3人が成長したと羽岡姉妹は振り返る。2人の息子は人の痛みが分かる子供に育ったという。「ある日,次男が友達の家に遊びに行って,すぐに帰ってきました。不思議に思って尋ねると『友達のお父さんが急に仕事が休みになって,友達がお父さんとキャッチボールをしていた。だから,お父さんとの時間をぼくが取ってはいけないから,お父さんとキャッチボールしていていいよと伝えて帰って来た』と言いました。わんぱくな次男でしたが。小学校3年生のときのことです。」

「また,長男が父親の病室へ行ったときに,チョコレートをもらいました。しかし,長男は食べようとせず,病室を出たときに『お父さんは何か月も何も食べていないのに,ぼくがお父さんの前でチョコレートなんて食べられないよ』と泣き始めました。その言葉を聞いたときに,人の痛みが分かる心は,宝だと思いました。」

「神様はわたしたちが成長するために,たくさんの扉を与えてくださっているので,一つの扉に固執することはないと経験から学びました。」

「人生の中で辛いことはたくさんあります,突然,扉が閉じられ,すべてが終わったように感じることもあります。しかし,顔を上げて見回すと,他にもたくさんの希望にあふれた扉が開いていることに気がつきます。実は,夫が亡くなっても,少し遠くへ出張に行っているような感覚しかありません。神様のお役に立てるように子供たちをきちんと育てること。それがわたしの希望です。わたしはそのために生きていると思っています。それを行うことで,初めて夫のところへ報告するために帰れると思っています。今のわたしには,主への感謝と希望しかありません。」◆