リアホナ2010年12月号 福祉のABC 7

シリーズ7 福祉のABC

 (地域福祉部)

惜しみなく与える

与えることは永遠の原則です。天地創造のとき,主は大空に光を備えて,言われました。「天のおおぞらにあって地を照らす光となれ。」(創世1:15)弟子たちを教えておられる間,主は彼らのことを地の「塩」と呼ばれ,こう言われました。「もし塩のききめがなくなったら……もはや,なんの役にも立たず……。」(マタイ5:13)

この世のものを与える

この世のものを与えることは,福祉の基本原則です。惜しみなく与えることは,しばしば多額の断食献金を納めることだと考えられます。そうすることができる人にとっては,多額の献金をすることは確かに称賛するべきことであり,惜しみなく与える方法の一つです。そのような惜しみない献金を通じて,ビショップと支部会長は貧しい人々に必要な支援を提供することができます。教会は世界中の困窮者に支援を提供しています。イエスは,やもめがその生活費のすべてであるレプタ二つをさいせん箱に入れたときに,たとえ少額であっても信仰によって納めたとき,すべての献金は神聖であり,聖別されているとお教えになりました(ルカ21:1-4参照)。

惜しみなく与えることは,断食献金を納めることだけにとどまりません。弟におもちゃを貸してあげること,バスや電車でお年寄りに席を譲ること,集会に車で送迎すること,聖餐会でよく準備されたお話をすることなども,惜しみなく与えることです。引っ越しで忙しい家族に焼きたてのパンを届けること,入院患者のいる家族のために子守をすること,定員会の会員の就職活動を手伝うこと,コンピューターの使い方を知らない人に教えてあげることも,惜しみなく与えることです。惜しみなく与えることは,神の子供たちが幸せになるように,時間と才能と愛を与えることです。

霊的なものを与える

何を与えるかと同じように,どのように与えるかも大切です。主は,打ち砕かれた心と悔いる霊をもって与えてほしいと願っておられます。わたしたちは同胞に対する愛を感じながら与えるべきです。また,自分には与える力があること,与える機会が与えられたことに対して主に感謝しながら与えるべきです。道から転げ落ちた人に喜んで手を差し伸べること,しいたげられた人に元気なほほえみを与えること,あなたの信仰に反対する人に大胆に証を述べること,意図的であるなしにかかわらずあなたを不当に扱った人を謙遜な気持ちで赦してあげること,試合であなたを打ち負かした相手を誠実な心で称賛すること。日々行うことができるこのような小さな行為は,無数にあります。イエス・キリストの弟子として与えることを可能にさせてくれる,前向きな気持ちには終わりがありません。主はこう教えておられます。「それは,わたし自身の方法で行われなければならない。見よ,富んでいる者を低くすることによって貧しい者を高くすること,これこそ,主なるわたしが聖徒たちに必要なものを与えるために定めた方法である。」(教義と聖約104:16)

救い主は与えられた

救い主イエス・キリストは,わたしたちの究極の模範です。前世での天上の会議において,主はわたしたちに選択の自由を与えるという計画を出されました。主はその計画の中心であられたにもかかわらず,主は天の御父に進んで栄光を帰されました。天から地上に降りて来られたイエスは,無学な人々にたとえを,病気の人や悩んでいる人に健康を,苦しんでいる人や信仰の弱い人々に喜びと希望を与えられました。そしてついに,わたしたちの救い主,贖い主は,わたしたちを死と地獄から解放するために,御自分の命をお与えになりました。この行為について主は言われました。「だれかが,わたしからそれを取り去るのではない。わたしが,自分からそれを捨てるのである。」(ヨハネ10:18)イエスがこれらすべてをお与えになったのは,イエスの心の中に愛と,神の子供たちに天の家に戻る道を与えたいという純粋な望みがあったからです。

光は光を与え,塩は味を与え,救い主はわたしたちが永遠の命が得られるように与え続けておられます。自分中心の考え方が普通になってきている世の中にあって,神は「受けるよりは与える方が,さいわいである」(使徒20:35)と考えておられることを覚えておくことは良いことでしょう。

どうすればよいでしょうか。こう自問してみてください。

人に手を差し伸べ,自分自身を惜しみなく与えるとき,わたしはどう感じるだろうか。わたしは今日だれに手を差し伸べることができるだろうか。

幸せな気持ちで与えるために,わたしには何ができるだろうか。◆