末日聖徒イエスキリスト教会(モルモン)リアホナ2010年8月号 この町に末日聖徒18 日本各地の末日聖徒のくらしの表情をお伝えするシリーズ

この町に末日聖徒18  日本各地の末日聖徒のくらしの表情をお伝えするシリーズです。

子供たちの笑顔をレスキューする

── ブラジル人学校の校長先生~ 静岡ステーク浜松ワード 成瀬敏夫兄弟~

駐日ブラジル大使館のホームページには,ブラジル教育省から認可されている47の日本国内の学校のリストが掲載されている。その一つが静岡県浜松市にあるエスコーラ・ブラジル。小学校から高校の年齢に当たる子供たちへの教育を行っている。

「Bom dia(! ボンジーア!)」

元気よくあいさつする子供たちを笑顔で迎えるのが,エスコーラ・ブラジルを経営し,自ら校長先生を務める成瀬敏夫兄弟だ。ブラジルで生まれ育った成瀬兄弟は,来日する前は,まったく日本語が話せなかったという。「日本に来て日本語は覚えました。もう20年間日本で暮らしています。」

成瀬兄弟がバプテスマを受けたのは2001年。しかし,教会のことは30年以上前から知っていたと話す。「ブラジルにいるときは電気関係の仕事をしていました。あるとき,大きな建物のメンテナンスを頼まれました。しかし,その建物のメンテナンスを行うためには,いろいろと規則がありました。敷地内で建物の外側の仕事は行えましたが,内側へは入ることができませんでした。」

それが,ブラジルのサンパウロ神殿だった。神殿会長会に日系ブラジル人がいて,成瀬兄弟に神殿について親切に教えてくれた。また,宣教師も紹介され,教会の教えについても少しずつ学んでいった。しかし,正直な印象は「戒めをきちんと守っている人たちだな」という程度。

「そのときは,教会員になる機会はありませんでした。わたしはタバコは吸っていませんでしたし,お酒も飲んでいませんでしたが,教会の話を最初に聞いたときには,改宗するのは難しいかもしれないと感じていました。アメリカから来ていた宣教師もたくさんのことを教えてくれましたが,(わたしは)深く学んでいませんでしたから,強い興味もありませんでした。福音に対してほんとうに興味を持ったのは,日本へ来てからです。それから,真剣に学び,興味が強くなってきました。」

来日してから福音にひかれていった大きな理由が二つある。一つは,将来の妻となった成瀬姉妹の影響。「妻とは日本へ来てから同じ職場で出会いました。妻はブラジルにいるときから教会員でした。妻の友人には教会員が多く,ビショップをしている人もいました。彼らとつきあうようになってから教会のことをもっと知るようになり,学びたい気持ちが強まってきました」と話す。

成瀬兄弟が来日したのが1990年。宣教師から福音を学び始めて5年後の2001年にバプテスマを受けた。2004年には東京神殿で結婚し結び固められた。

「教会のことを学び始めてから,バプテスマを受けるまでの5年間は,とても一所懸命に福音を学びました」と懐かしそうに振り返る。

過酷な「故郷」で出会った希望

そして,福音にひかれたもう一つの大きな理由が環境の違いだ。母国ブラジルとは異なり,日系ブラジル人への風当たりは強かった。日本人の顔をしながら,日本語を話せない日系人。差別を受けることもあれば,いわれなき中傷にさらされることもあった。しかし,宣教師が語る福音は人を平等に扱い,過酷な環境の中にあっても,幸せになる方法を教えてくれるものだった。

「ブラジル人」の成瀬兄弟は,見た目はまったくの日本人。しかし,気持ちのおおらかさは,ブラジル人だ。小さなことは気にしないし,少しばかり時間がかかっても,うまくいくことだけを希望して前に進む。福音を学び始めてからバプテスマを受けるまで少しばかり時間がかかったが,そんなことはまったく問題ではなかった。

そんな成瀬兄弟がポルトガル語で話すとき,日本語で「差別」と「笑顔」という単語が会話の中に頻繁に登場する。日系人の歴史と今の環境について語るときに欠かせない言葉が「差別」。そして,日系人の子供たちの教育について語るときに欠かせない言葉が「笑顔」なのだろう。

日系ブラジル人2世,3世は,その勤勉さと教育程度の高さからブラジルでは社会的にも影響力のある地位に就いている。政財界だけではなく,広範な分野に進出し,ブラジルの発展に大きく貢献してきた。日系ブラジル人の教育に対する意識も高く,ブラジルの最高学府と評されるサンパウロ大学では,全学生の約15パーセントが日系ブラジル人で占められているほどだ。ブラジルの人口の1パーセントにも満たない日系人の人口比率から見れば,その高さは驚異的だ。しかし,「どうして日本では……。」文化や習慣の違いが誤解を生み,差別と感じて落胆するブラジル人も多い。

成瀬兄弟も日系ブラジル人として来日して苦労したことはあったはずだ。それでも,自分が苦労したり,悩んだりしたことは語らない。昔の苦労よりも,今の希望に焦点が当たっている。「自分の経験を子供たちの将来に役立てようと決意している」と思いを語るとき,福音を学んでいるからこそ,「差別」よりも「笑顔」というキーワードに焦点が当たっている。

日本でブラジルの文化を教える

「浜松には日系ブラジル人が多くいます。ここで生活するために,子供たちには日本語が必要です。それと同時に,将来はブラジルへ帰るのでブラジルの文化や教育も必要です。日本語を話せないために日本の社会の中で差別されることもあります。しかし,いずれ帰国するブラジルについて何も知らず,ブラジルの義務教育も受けていなければ,ブラジルへ帰ってから差別されますし,もっと大きな問題が起こります」と成瀬兄弟。

かつては,エスコーラ・ブラジルでも,日本語教育とブラジルの教育をバランスよく行うように務めていたらしいが,今はブラジルの教育へ重点を置いている。学校はブラジル教育省からも正式にブラジルの教育機関として認められているので,卒業した子供たちはブラジルで義務教育を終了した子供たちと同じ資格を得ることができる。

「生徒の年齢は広く,小学生から高校生までが学んでいます。ここで学んでいる生徒は日本の学校へは行っていません。ここだけで学んでいます。卒業した生徒たちは,日本で働き始め,数年働いて貯金をしてブラジルへ帰るのがほとんどです。ブラジルへ戻ってさらに進学したければ,日本でブラジルの義務教育を終えているので問題ありません。もっと日本語や日本のすばらしさを教えることができたらいいといつも思っています。二つの国のことを十分に教えるには,時間が少なすぎるんですが,独自のカリキュラムで,子供たちには良い結果が出ていると感じています。」

子供に影を落とす経済不況

日本政府によって,1989年に出入国管理法が改正され,日系ブラジル人3世までとその家族の入国が制限なく受け入れられるようになり,多くの日系ブラジル人が仕事を求めて来日した。そして,今は景気の悪化によってブラジルへ帰国する人が急激に増えた。「その影響をいちばん最初に受けるのは子供たち」なのだという。エスコーラ・ブラジルは決して大きな学校ではない。かつては150人の生徒が在籍していたが,ここ数年で激減し,現在では22人の生徒だけが学んでいる。

「日系ブラジル人の子供たちの教育の機会は,日本の景気に大きく影響されています。日本の景気が悪くなり,会社を解雇になり,帰国したブラジル人が増えました。まだまだ多くのブラジル人が浜松にいますが,学校へ通っていない子供たちもたくさんいます。会社も家庭も景気によって,子供たちを学校へ行かせることをためらうのが現状です。子供たちの両親は仕事をしています。最初は,両親が働く間,子供たちを見てくれる場所が必要ということで学校が生まれました。教育というよりも,預かってくれる所というイメージだったのだと思います。そのため,景気が悪くなって財政的に苦しくなると,子供たちを学校へ通うことをやめさせてしまいます。そうなると悪循環で,子供たちから教育の機会が失われ,日本語も話せず,家庭に親がいないと非行や犯罪に走ることもあります。それは深刻な問題です。」

経営は決して簡単ではないと話す成瀬兄弟だが,「子供たちの将来を考えることと,子供たちへの愛情が原動力になっている」と目を輝かす。

「学校へ行っていない子供たちが,浜松だけでも200人もいるんです。その200人の子供たちが,今どこで何をしているのか分かりません。わたしはその子供たちが学校へ来られるように,一所懸命探し続けています。その200人の中から,やっと6人を見つけることができました。親に会って教育の大切さを話し,説得し,子供たちに義務教育を受けさせます。時間と労力のかかることです。しかし,学校で学ぶ子供たちの顔を見てください。こんなにすばらしい笑顔で学校の友達と遊び,学んでいます。子供が……。わたしは……。」

言葉を選ぶように話していた成瀬兄弟が下を向く。そして,しばらく沈黙した後,「子供が笑顔になれるならば,わたしは何でもやるつもりです」と一言。押さえた目頭から涙がこぼれ落ちた。主が子供たちを愛した姿が成瀬兄弟の心の中には深く刻み込まれている。福音を学んだからこそ,学校教育を単なるビジネスとして割り切ることはできないのだという。

「犠牲になるのはいつも子供たちです。子供たちがかわいそうです。特に5歳とか6歳の幼い子供が一日中家にいることを想像してみてください。両親が仕事から帰るまで家の中にいます。外に出ることもできず,ずっと家の中で過ごす生活が続くわけです。とてもかわいそうです。子供たちがどんな気持ちで過ごしているか考えると胸が痛くなります。」

主に頼り,子供たちを救う

成瀬兄弟は,浜松では少年犯罪が多いように感じると話す。また,日系ブラジル人の少年による犯罪が多いという印象が持たれているため,日本人とブラジル人の間に壁があることも感じている。それによって差別も生まれやすくなっているという。

「学校へ行っていないというのは恐いことです。15歳で働く子供たちもいますが,15歳はまだまだ子供です。派遣労働者として15歳で働いていますが,必要な教育を受けていませんので,トラブルに巻き込まれることも多々あります。会社にもお願いして,働いている子供たちにも学校で学ばせるようにと提言しています。」

経済的な理由からブラジル人学校に通えなくなった子供を支援するため,文部科学省は,子供を一時的に受け入れ,日本語などを学べる場を提供する「虹の架け橋教室」と呼ばれるプロジェクトを推進している。しかし成瀬兄弟は,「すばらしいことですが,熱意を持った人がいなければ,子供たちを救うのは難しい」と話す。そして,子供たちを救うために欠かせないのが「クリスチャンとしての気持ち」と付け加える。多くの問題は教育によって解決されるかもしれない。しかし,「根本の問題は福音に頼らなければ解決できない」のではないかと痛感している。

「ブラジル政府の方針で今は学校で宗教教育を行うことはできません。昔はブラジルの学校でも宗教の時間がありましたが,今は法律によって規制されています。わたしたちの学校にも様々な宗教の家族がいますので,末日聖徒の教えだけを授業で行うことはできません。しかし,子供たちに接するときや,学校を始めるときには,末日聖徒イエス・キリスト教会の会員としての気持ちを忘れずに,いつもお祈りをしています。お金のためにしているのでしたら,もうとっくに学校はやめています。どんなに苦しくても,主の力を借りていますので,ここまでやってこられたと思います。子供たちの幸せな顔を見ることが,続ける力になっています。」

インターネットで検索すると,浜松在住のブラジル人を非難中傷する心ないサイトや悪意に満ちたブログが数多く存在する。形の見えない情報に翻弄された人々が,まさに成瀬兄弟が語るように,日本人とブラジル人の間に壁を作っているような印象を受ける。しかし,ブラジル人の子供たちはそのようなサイトを読むことがないので,学校では変わらず笑顔で学び続けている。そして,そのような情報に構っている時間は成瀬兄弟にはない。

「わたしは200人の子供たちを見つけ出さなければならないと思っています。必ずいるのですが,どこにいるのかわたしにはまったく分かりません。いろんな人にも尋ねています。そのような子供を知らないか,生徒たちにも尋ねています。」そして,主にも尋ね求める成瀬兄弟。そのような子供たちに巡り会えたときの喜び,そして,学校へ通わせることができたときの喜びは,言葉にはできないほど大きいものだという。

人から何を言われようが,何を書かれようが,成瀬兄弟は気にしない。おおらかに,エネルギッシュに目標へ向かって進む。情熱をもってブラジル人の子供たちの教育に奔走する成瀬兄弟の支えになっているのは,主が子供たちを愛した模範と福音そのものだ。

100年前にブラジルへ移民した日本人の多くは,劣悪な環境の中で労働者として開拓に携わり,困難と差別に直面しながら家族を支えてきた。すでに日系ブラジル人6世も誕生しているブラジルから,日本経済を支える工場地帯を中心に,移民となった人たちの子孫が来日している。彼らにとっては遠い祖国だが,その日本で先祖が経験したと同じような困難と差別に直面している人も少なくない。「どうして日本では……。」多くのブラジル人がつぶやく中,成瀬兄弟はおおらかに話し続ける。「わたしは子供たちの幸福な顔,笑顔たしは子供たちの幸福な顔,笑顔を見るために頑張っていますから。」◆