リアホナ2010年4月号 希望を見いだす1 病気も障碍も良い経験です

希望を見いだす1 病気も障碍も良い経験です

── 青木浩・博恵ご夫妻 さいたまステーク浦和ワード

青木浩兄弟が宣教師と出会ったのは今から約20年前のことだった。就職した会社から,福島県の郡山への赴任を言い渡され,23歳の青木兄弟は,その地で新しい人生の一歩を踏み出した。「ちょうど,人生について考えていたころだったと思います。」郡山で宣教師と出会ったころをそのように振り返る。「聖書を読んでみようかなと思っていたので,まさにタイムリーでした。」そして,2か月後にはバプテスマを受けて教会員となった。

博恵姉妹は友人からの紹介で改宗した。高校生のときから教会の英会話へ行っていたので,教会については知っていた。しかし,「英会話に通っていたときは,教会にはそれほど興味はありませんでした」と話す。「22歳のときに再び友人から誘われて教会へ行きました。そのときに,教会の独身成人のすばらしい兄弟姉妹がたくさんいて,わたしにとても良くしてくれました。そのときの影響は大きかったと思います。」

現在,青木ご夫妻は,中学2年生と小学2年生の男の子に恵まれている。浩兄弟は,博恵姉妹の父親の家業を継いで,畳店を経営している。

「結婚したときはサラリーマンをしていたのですが,土曜日とか時間があるときは義父の手伝いをしていました。それを続けているうちに楽しくなって,それならば,畳の仕事をやってみようかと気持ちが変わってきました。結婚した翌年のことでした。もう始めて15年になります。」

「昔は親方のところへ奉公のような形で入り,修行を積んだと聞きました。義父は4年前に急逝しました。そのときは,突然,ポンと独りで放り投げられたように感じました。しかし,よく考えれば,そのときが独り立ちするにもちょうどよい時期だったのかもしれません。義父が亡くなるまでには,必要なことは全部教えてもらいました。」

二人の大病

浩兄弟が最初の異変に気づいたのは,畳職人として修行をはじめて数年がたったころだった。「神権会のレッスンが終わった直後,突然,自分の意志とは関係なく左手が動き出しました。何か体がおかしいと思っているうちに,教会で倒れました。その場で気を失ってしまいました。」

その後,教会から自宅へ戻り,浩兄弟の両親を交えて健康状態について話し合っているときに,再びけいれんが起き始めた。「救急車で病院へ運ばれて,検査を受けました。脳に腫瘍があると言われ,即日入院して摘出手術を受けました。」

実はそのとき,すでに博恵姉妹の体にも病が見つかっていた。

「二人目の子供を妊娠したときに,検査でたまたま,白血球の数が多いと言われました。長男は1歳半でした。血液検査をした夕方に病院から電話が来て,いろいろな検査をしました。骨髄の検査も受けました。その時点でだいたい病名も予測できましたが,案の定,慢性骨髄性白血病と診断されました。その当時,骨髄移植しか有効な治療はなく,妊娠している子供はあきらめて治療に専念するようにと言われました。幸い,たった一人のきょうだいである姉と白血球の型が一致し骨髄移植を受けることが可能となりました。」

博恵姉妹は,姉から骨髄の提供を受け,病院に新しい無菌室ができてから移植手術をする予定だった。それを待っている間に,浩兄弟が倒れたのである。「1997年の夏に病気が分かり,無菌室ができるのが春以降と言われていました。1998年2月に夫が倒れました。まだ夫が入院しているとき,わたしの移植は5月にできますと電話を受けました。」

3月の終わりに浩兄弟が退院し,博恵姉妹は4月半ばに入院した。「ほんとうに慌ただしく過ごしました」と当時を振り返る。

「脳の病気をするとたいていは後遺症が残るそうです。しかし,わたしには何も残りませんでした。後遺症が残らなかったのは奇跡でした」と浩兄弟は感謝している。そして,「多少忘れっぽくはなりましたが」と夫婦で笑う。

最初の手術から数年後には,完全に取り切れていなかった腫瘍が大きくなり,再び治療を受けた。「そのときはいろいろと調べて,ガンマナイフという方法でレーザー治療を受けました。まだ,少し残っていますが,これ以上大きくならないよう,現状維持ができるように処置しています。」

「同じ時期に夫婦一緒に病気になったのはとても良い経験だったように思います」と博恵姉妹は意外なことを言う。「わたしが白血病と診断されたときは,自分が骨髄移植をする予定でしたので,患者としての立場,患者としての気持ちだけしか分かりませんでした。しかし,自分が入院する前に,夫の病気が判り入院したことによって,『患者の家族ってこんなに不安な思いで過ごしていたんだ』ということがわたしにも理解できました。お互いに病気でありながら,お互いを思いやる気持ちが生まれました。」

二人は大病を患ったにもかかわらず,「なぜわたしたちが……」という気持ちになったことはないと話す。「むしろ,仕方がないという感じでしたね」と博恵姉妹。浩兄弟も,自分の腫瘍摘出手術や博恵姉妹の病気を振り返り,「そのときは,自分たちには経験が必要なのかと思いました」と淡々と回想する。

「神様を疑うような気持ちは全然ありませんでした。わたしたちにとって祝福だったのは,不平を言ったり,考えたりしている余裕がなかったことです。くよくよしている暇はまったくありませんでした。」

「息子よ,あなたの心に平安があるように。あなたの逆境とあなたの苦難は,つかの間にすぎない。」「……すなわち,これらのことはすべて,あなたに経験を与え,あなたの益となるであろう。」(教義と聖約121:7;122:7)

祝福の言葉

博恵姉妹の病気が判明して,神権の祝福を受けた。「治療のために妻は子供を産めなくなりました。しかし,ステーク会長会から受けた祝福の言葉において,病気が治るということではなく,あなたたちを通して子孫が増し加えられます,と告げられたのです。とても不思議に感じました。子供を産めない体になるにもかかわらず,どうしてだろうと思っていました。」

その後,様々な経緯を経て,神権の祝福の言葉が成就する機会が巡ってきた。「わたしたちは,二男として養子を迎えることになりました。周囲からは心配されることもありましたが,まったく違和感なく子供を迎え入れることができました。とてもアクティブ(活発)な子なので,今でも戸惑いながら子育てをしています」と夫婦でほほえむ。

リアホナのような手

「わたしの手を見ていただければ分かると思うのですが,」と博恵姉妹は突然左手を見せる。「わたしは生まれて6か月のときに掘りごたつに落ちて左手を火傷をしてしまいました。そのため,指先がありません。今となっては,なぜそうなったんだろうとは考えません。なってしまったものはしょうがないと思って人生を歩んできました。」

「もちろん,子供のときには,指がないために嫌なこともたくさんありました。小学生のときは,指がないので笛が吹けませんでした。みんなが笛を吹くときは,一人だけ鍵盤ハーモニカをさせられました。それが嫌で,鍵盤ハーモニカを忘れたと言って音楽の授業に参加しないこともありました。」

「多感な思春期になると自分の手のことで悩んだこともあります。大人になって社会生活がちゃんとできるのだろうかとか,結婚できるのだろうかと。そんなときに,福音と出会いました。不安な時期を少し乗り越えようとしていたころでした。しかし,子供のころは神様なんていないと思っていたんです。ほんとうに自分が苦しいときに,神様は助けてくれなかったと思っていましたし,祈る方法も知りませんでしたから。」

しかし,神様を否定していた気持ちも,宣教師の小さな一言で変わってしまった。「宣教師からレッスンを受けて,神様がいるかどうか考えるように言われました。そして,神様が存在するとしたら自分の祈りを聞いてくれているのだろうかと考えるようになりました。そうしたら,急に気持ちが高まって,前向きになれたのを覚えています。」

教会に通うようになっても,博恵姉妹は自分の手のことを隠す必要はないと思っていた。「それがあるがままの自分ですから。」そのような考えを持って生きてきた。周囲の人も気づいていたが,まったくそのことに気づいていない人もいた。その一人が浩兄弟だった。「教会で会っていましたが,手のことはまったく知りませんでした」と浩兄弟は笑う。「2回目のデートをしたときに,電車の手すりをつかんだ彼女の手を見て驚きました。それまでは,全然気づきませんでした。驚きましたが,彼女を避ける理由にはなりませんでしたね。彼女の手を見ながら,今まできっと,たくさんのつらい経験もあったのだろうと感じました。わたしもこれからつきあっていくので,避ける必要はないと思いました。そして,知ったからには,それについて気づかないふりをしてはいけないと思い,次のデートのときに彼女の手について尋ねました。」そして,「この人,教会で会っても,デートをしていても,まったく,わたしの手に気づきませんでした。天然でしょ?」と博恵姉妹は浩兄弟の顔をのぞき込む。

「デートのときも,手が原因で避けられたら,それはそれで仕方ないと思っていました。でも,実は,わたしの手はバロメーターなんですよ。」

──バロメーター?

「そうなんです。わたしの手に対する反応でその人のことが分かります。だから,この手は人を知るうえでのバロメーターなんです」と自慢する。「仕事場でも,まったく関係なく触ってくる人もいます。プライマリーの教師をしていますと,子供たちの中には『この手,かわいいね』と触ってくる子もいます。」

博恵姉妹は人生を振り返ると,指のない左手に感謝していることもあるのだという。「もし,手が不自由ではなかったら,教会へは来ていなかったかもしれません。白血病になったのも,養子を迎えたのも,結局はこの手と神様が導いてくれたような気がします。」今となってはこの左手は,博恵姉妹にとっての「リアホナ」とも思える。

イエス様が見守っているから大丈夫

「普通は白血病になると精神的に気分が落ち込み,薬を出してもらう人が多いようです。しかし,わたしには薬の必要はありませんでした。不思議に思って主治医がわたしの姉にこっそり尋ねたようです。そのとき姉は『キリストを信じているからじゃないですか』と答えたそうです。改めて考えると,イエス様が見守ってくれているから大丈夫という意識が,長年の信仰生活の中で自然に生まれていたのかもしれません。」

現在も青木兄弟姉妹は定期的に通院している。骨髄移植の影響から,「悲しい気持ちになっても,わたしは涙が出ないんですよ」と博恵姉妹は話す。すると浩兄弟が飄々と尋ねる。「涙が出ないけれど,泣いているような感情はわき上がってくるの?」

──今まで聞いたことはなかったのですか? と尋ねると,「この人,やっぱり,天然でしょ」と博恵姉妹は優しそうな眼差しで見つめる。

二人は小さなことは気にしない。病気も障碍も,あるがままに受け止めている。「神様に向かって文句を言うことは考えたことがないですね」と,さらっと言う。大変な経験をしてきた二人の言葉だけに,そこはかとない重みが伝わってくるような気がした。◆