リアホナ2010年4月号 ジャニス・カップ・ペリー姉妹が日本初公演を行う

ジャニス・カップ・ペリー姉妹が日本初公演を行う

──札幌から沖縄まで全国8か所で日本縦断ツアー

末日聖徒の作詞作曲家として親しまれているジャニス・カップ・ペリー姉妹が,この3月に来日し,初のコンサートツアーを行った。公演は,3月5日の札幌ステークセンターを皮切りに,6日に大阪,9日に沖縄,10日に福岡,11日に四国(香川県宇多津),12日に仙台,13日に東京(町田),14日に東京(吉祥寺)で開催された。

ペリー姉妹は,賛美歌195番「シオンの娘」の作曲者であり,また『子供の歌集』に収められている「子供のいのり」,「イエス様のように」,「イエス・キリストの教会」,「ニーファイのように」,「神殿に行きたいな」,「愛の言葉」,若い女性の歌である「信仰により歩む」などの作詞作曲者として知られる。最近では,ゴードン・B・ヒンクレー大管長作の詩「What is This Thing That Men Call Death」(人が死と呼ぶもの,これは何か)にペリー姉妹が曲を付けた。この賛美歌はヒンクレー大管長の葬儀にて,モルモンタバナクル合唱団によって歌われた。

各地のコンサートではペリー姉妹を歓迎し,地元の初等協会の子供たちや青少年によるペリー姉妹の歌が披露された。ペリー姉妹はじっと耳を傾け,「作曲者にとって自分の曲を上手に歌ってもらうこと,これほどうれしいことはありません」と喜んだ。

また入江 伸光兄弟をはじめ,余目 澄美代姉妹,宇田川家族,bless4ほか,音楽に才能のある日本人教会員が各地のコンサートに駆けつけてゲスト出演した。ペリー姉妹自身が歌った曲には日本語で歌ったものもあった。よく知られた曲では,聴衆も一緒になって歌うよう会場へ呼びかけた。

ペリー姉妹はコンサートの中で自身の音楽歴について語った。幼いころから母親に音楽を学び,後にブリガム・ヤング大学で音楽教育を学んでいるとき,ご主人のダグラス・ペリー兄弟と出会って結婚する。子供たちに恵まれ,子育てに専念する日々を過ごして40歳近くなった1970年代後半に,作詞作曲活動を始めることになる。「どのような曲を書くべきか祈りました。『神の子です』(賛美歌189番)を見て,歌詞も曲もシンプル(易しい,簡潔)だけれど,とても深いと感じました。それでわたしもシンプルな曲を書きたいと思ったのです。」

多くの優れた楽曲を提供してきたペリー姉妹だが,自分の歌を初めてソロで歌ったのは55歳のときだった。この年,夫の勧めもあり,勇気を奮ってタバナクル合唱団のオーディションに挑み,合格する。合唱団の定年である60歳まで5年,それが最後のチャンスだった。「わたしが言いたいのは,恐怖心を克服する必要があるということです。歌うことへの恐怖心から,5年間タバナクルで歌うというすばらしい機会をもう少しで逃すところだったのです。」

「ある日曜日,タバナクル合唱団の番組を聴いていると,アナウンサーが言いました。いちばん美しい声で歌うことが大切なのではなく,歌うべきSomething(何か大事なもの)を持っていることが大切なのだ,と。末日聖徒は皆,歌うべき何かを持っていますよね。音楽には大きな力があります。だからコマーシャルはいつも音楽を使っています。音楽と何かが結びつくとき,わたしたちの心の中に長く残ります。人生で力を必要とするとき,それが心の中から呼び覚まされることがあります。」あるとき,ペリーご夫妻は交通事故に遭った。首を痛めたペリー姉妹は,骨が折れていないかを調べるため,30分ほど横になって苦しい検査を受けた。その間,ペリー姉妹は心の中で「子供のいのり」の歌の4つの節,「祈りなさい/話しなさい/お父さまは/聞いています」を何度も繰り返していたという。「その4つの言葉がわたしの苦しい時を支えてくれたのです。それが音楽の力です。」

「ボイド・K・パッカー長老は,音楽を通して霊的なことを学べば速く学べる,と語りました。だから福音と音楽を結びつけるのは大切なのです。福音のシンプルな教義と音楽が一つになるとき,それは力強い教師となります。

……福音を教える最良の方法が音楽にあると知っています。わたしは音楽を通じて,わたしの主への愛を伝えたいと思います。」◆