リアホナ2009年8月号 アルマ・O・テーラーのモルモン書翻訳日記8

アルマ・O・テーラーのモルモン書翻訳日記8

最高の文筆家を求めて

「モルモン書」の翻訳を完成させたアルマ・O・テーラー長老は常に最善のものを追い求めていた。時間と労力を積み上げるように翻訳を行ってきたが,自らが作り上げた口語訳よりも,あらゆる面で文語訳の方が好ましいという結論に達するやいなや,振り返ることなく,文語訳の作業を開始した。

1907年9月9日(月)東京

「午前中,そして午後の一部を平井廣五郎宅で過ごし,平井氏が今日から始めるモルモン書の翻訳改訂に関する準備作業を行った。待ちに待った御父の業が始まったことについて,天の御父にこの上なく感謝している。神の祝福が豊かにこの業のうえにあり,批評をしてくれる平井氏の心と思いの両方が強められるよう心から願っている。この作業には偉大な知恵が必要であると感じる。わたしに力と知性が与えられ,自分の担当する部分について良い仕事を迅速に行えるよう祈っている。」

テーラー長老は,神の言葉が記されている『モルモン書』の日本語版は,能力の限りを尽くして最善のものを求めなければならないと心に決めていた。そして,文語訳への批評や校正を依頼する人物として,早稲田大学で教鞭を執っていた平井廣五郎に強い信頼を置いていた。

このころ,テーラー長老は広報活動にも力を注いでいた。かつては教会に対して誤った報道がなされても十分に説明ができなかったが,テーラー長老らの日本語の上達により,それを正せるようになった。また,来るべき『モルモン書』の発刊に備え,教会に関する書籍を影響力のある人々へ贈った。テーラー長老は社会の中で影響力ある人々と良好な関係を築き,教会の正しい姿を理解してもらうことが,福音を伝える土壌を耕すことになると知っていた。1907年9月12日には,毎日新聞社社長で衆議院議員でもあった島田三郎氏の自宅を訪ねている。「伝道部が初めて開かれたとき,島田氏は我々について幾つもの事柄を述べたが,どれも正しくなかった。そのため,今晩彼と実際に顔を合わせ……ることができ,非常にうれしかった。」(同日付けテーラー日記)そして,数日前の9月3日に出版されたばかりの『末日聖徒イエス・キリスト教會略史』を贈り,正しい情報を与えたのであった。

1908年5月14日付けの朝日新聞には,日本人がソルトレーク・シティーを訪れた紀行記事が掲載された。「記事はユタ州とそこに住む人たちについてのすばらしい宣伝になるものだった。そしてもちろん,わたしたちにとっても良い効果をもたらすものになるだろう。」(同日付けテーラー日記)

来日当初は一方的に叩かれていたが,数年たって理解者が増え,このような記事が掲載されるようになっていた。

文語体への翻訳作業に従事する平井廣五郎の仕事ぶりはテーラー長老を満足させるものだったが,日本人が読んだときにどのように感じるかがまた,とても重要なことだった。そのため,テーラー長老は有識者から一般の人々まで,様々な人々の感想を求めていた。初期の教会員である奈知江常姉妹にも感想を求めている。

1907年9月17日(火)東京

「一日のほとんどを,モルモン書のタイトルページと最初の章,三人の証人の証,八人の証人の証についての平井氏の批評を検討して過ごす。初めて目にする,自分の翻訳に対する批評であったが,今日の作業についてはとても喜んでいる。わたしの翻訳に見られる個性を取り去ることのない同氏の批評に,わたしは満足している。翻訳を文語体に変更することが9日に決まり,そのときから作業をしている平井氏は,わたしが翻訳した言文一致体(口語体)にあるほぼすべての動詞の形を変えなければならない。わたしは,平井氏の批評を奈知江姉妹に手渡し,読んでもらった。彼女は,すべてとても分かりやすく,どの言葉もきわめて平易であると話した。」

1907年12月6日(金)東京

「批評が終了したと判断され,印刷用原稿の準備が完了する前に,わたしは少なくとも次の3人の人,すなわち,学者,一般の人,そして教育を受けていない人に読んでもらうつもりだ。モルモン書が分かりやすく,簡潔で,説得力に富み,可能なかぎり文法的に正しいものとなるよう,彼らの提案を聞き,検討するためである。……行うべき仕事はまだ山ほどある。日本語のモルモン書が文学と聖文の世界で日の目を見るまで,長い時間をかけ,何度も熱心に研究,熟考,討論を重ねなければならない。主からの祝福が今も不可欠である。偉大な業を終えるためには,勤勉,苦労,忍耐,注意力,知恵,謙虚さといった特質が欠かせないのである。」

テーラー長老らの入念な取り組みは,まさに上記の特質を駆使する過程であった。テーラー長老はまず翻訳された和文の質を高めるために読み,それからもう一度注意深く英語と見比べながら,訳抜けがないか,訳文の意味が間違っていたり,弱まっていたり,どのような形であれ誇張されていたりしないかを確認した。フレッド・A・ケイン長老も同じ過程を繰り返し,訳抜けや誤訳がないか二重の確認を行う。

当時はもちろんコピー機などなかったので,翻訳のための写しを作るのも大変な作業だった。その多くはテーラー長老を支える日本人教会員によって行われた。間違いがないように何度も読み返し,筆写する作業の過程で『モルモン書』の内容を理解し,証を持ち,改宗に至ることもあった。また,アメリカ人宣教師の日本語能力を高めることにもつながっていた。

1908年1月27日(月)東京

「夕方,桜庭氏が来訪し,翻訳されたモルモン書の写しを完了した。これは大変な仕事であった。写された翻訳は1冊で144ページある本で26冊半に及ぶ。そのうちの何冊かは最後の数ページが空白であることを考慮したうえで,どんなに少なく見積もっても,全原稿は3,800ページに及ぶだろう。平井氏が読み,批評している原稿はまさにこれである。現在同氏は17冊目の原稿に取り組んでいる。原稿が用意できたことは喜ばしい。この原稿は平井氏が読む前に,ケイン長老の見直しを受けている。この見直し作業も,あと数週間ほどで終わるだろう。原稿の作業に携わったのは,森八郎氏,千葉安兵衛氏,桜庭武四郎氏の3人だが,全体の4分の3以上を書いたのは森氏である。」

ケイン長老の見直し作業は1908年1月31日に完了する。「ケイン長老の作業期間は約1年半になった。注意深く,誠実な仕事をしてくれた彼の提案は非常に価値のあるものとなっている。」

全員が一丸となって問題なく新たな翻訳作業が続いているかのように思われていた。しかし,さらなるチャレンジがテーラー長老を待ち受ける。能力もあり,期待どおりの仕事をこなしていた平井廣五郎であったが,私生活上の不道徳がメディアで報じられ,テーラー長老と交わした契約にも不誠実であったことが発覚したのだった。事実関係を確かめるためにテーラー長老は奔走し,最終的に主の言葉が記された聖なる書物の翻訳作業に携わるにはふさわしくないという決断を下した。そのため,著名な文学者のもとを訪ね,文語訳の作業に携われる人物を探すことから再び始めなければならなかった。その中には,夏目漱石,坪内逍遥,幸田露伴といった明治の文豪の名前も候補に挙がっていた。

1908年6月10日(水)東京

「夕食後,河井(酔茗)氏を訪れ,坪内博士と幸田教授について尋ねた。翻訳されたモルモン書の批評作業をこの二人に依頼できないか考えていたのである。かつて坪内博士の下で学んでいたという河井氏によれば,坪内博士も幸田教授も高い評判を得ているとのこと。また河井氏は,有能な日本語の作家,批評家として朝日新聞で執筆している夏目氏について話してくれた。」

1908年6月18日(木)東京

「午前中,翻訳されたモルモン書の見直しをしてくれる人物を探す。著名な作家である夏目金之助氏(訳注──夏目漱石の本名)を訪ねた。夏目氏はこの仕事を引き受けられないと言い,生田弘治という人を推薦してくれた。夏目氏によれば,生田氏はこの仕事を行ううえで能力的にうってつけの人物であり,そのための十分な時間も確実に取れるとのこと。夕食後,生田邸を訪れるが氏は不在であった。」

1908年6月19日(金)東京

「今朝,生田弘治氏から連絡をもらう。翻訳されたモルモン書の批評について彼と話した。生田氏は,わたしが彼を適任だと判断するなら,この仕事を引き受けると言ってくれた。夏目氏の推薦の言葉以外,生田氏の能力を証明するものはなかったので,とりあえず,平井氏が批評した原稿の第1巻を仕事の見本として渡し,見直しを依頼した。」

1908年6月26日(金)東京

「午前,生田氏が鉛筆で自分の提案を書き込んだ原稿の第1巻を携えてやって来た。直した箇所は多かったが,音便についての意見を除けば,それほど重大な訂正とは思えなかった。生田氏の行った訂正をもう一度読み,それから3人か4人の日本人に,平井氏が作業をした原稿,生田氏の訂正の入った原稿の順で読んでもらい,生田氏の意見によって翻訳の質が向上するかを見るつもりである。このように調査した後,生田氏を採用するか決めるつもりだ。」

夏目漱石から紹介された生田弘治という人物の能力について,テーラー長老は慎重に見極めようとしていた。この出会いが『モルモン書』の日本語版を完成へと続く転回点となる。当時弱冠26歳のこの青年が,後に大正時代の最高の論客の一人と言われ,翻訳家,小説家としても文壇に影響を与えた生田長江であるとは,テーラー長老は知る由もなかった。◆