リアホナ2009年10月号 信仰の風景 教会から距離を置いておられる兄弟姉妹たちへ

信仰の風景 教会から距離を置いておられる兄弟姉妹たちへ

わたしが19歳の学生であった1969年,大阪駅前の陸橋を歩いていると人だかりがありました。見ると,路上に置いた大きな紙に外人が日本語で何やら器用に書いています。当時はこの方法で十分人を集められたのです。宣教師にチラシを頂いて5か月後,決心し高槻の川でバプテスマを受けました。その後,順調に教会の教えを学び,同じ信仰を持つ赤羽数江姉妹と26歳で結婚しました。

姉妹は1956年,11歳のときに宣教師と出会いました。お父さんが宣教師からレッスンを受けていたからです。しかしレッスン途中でお父さんは癌のため亡くなり,宣教師との関係はいったん途絶えます。彼女はこの教会を求め,成長して17歳になったとき再び巡り合ったのでした。

結婚後,3人の子供を授かりました。やがて土地と家を求め,三重県名張市に引っ越しました。子育てに信仰生活にと忙しく,山や谷もありましたが祝福された生活であったと思います。

しかしながら,40年間の教会員生活がすべて順調であったわけではありません。その中の10年間,わたしは教会から足が遠のいていました。単に疎遠になったのではなく,人生についての考え方に違いが生じたのです。最初は表に出さないようにしていましたが,いつまでも装い続けることはできず,ある日姉妹に,進む道を変えると伝えました。そのときからわたしは教会へ行かなくなり,姉妹は,9歳,7歳と4歳の子供を車に乗せ,1時間かけて飛鳥支部まで通う生活となりました。薄々感じていたとはいえ,姉妹のショックはいかに大きかったことか,まことに申し訳ないことではありました。とは言え,わたしは教会に対して悪い思いを持っていたわけではありません。姉妹や子供たちがお世話になっていることは感謝していました。それで,当時活動していたカブスカウトやボーイスカウトをお手伝いするなど,細いつながりはあったのです。

突然の大病

そんな生活になって8年が過ぎたある日,姉妹が体調不良を訴えました。病院で診てもらうと,「これは肝臓に問題があり重症です。名張の病院では手に負えないので,三重大学付属病院に連絡を取るからすぐ入院するように」とのことでした。

大学病院にすぐ入院できたのはありがたいことでした。乳癌なのに順番待ちの方もいた状況でしたから。逆に言うとそれだけ重症だったのかもしれません。約2か月にわたる緊急処置,検査そして検討の結果,手術で肝臓の3分の2を切除することになりました。

手術に際しては先生から,献血による保存血液ではなく,直接採取した新鮮な血液を手術前日に準備してほしいと言われていました。家から遠く離れた津市で,親戚も頼る人も何もない状態でしたが,津支部の人たち,同じ病室の関係者の方,そして名張支部の人々が採血に来てくださいました。特に津支部(名張とは別の地方部)の支部会長さんは,この日まで顔を合わせたこともないわたしたちなのに,「わたしは皆さん兄弟姉妹を一つの家族と思っていますので,何でも言ってください」とまで言ってくださったのです。わたしはこのとき,教会の教えとそれを実践している人々の行動に,久しく心が熱くなりました。またこのことを通して,人はまず,他人を思いやる優しさ,包み込む寛容な心と行いがなければいけないと学びました。

1994年11月1日。親戚,家族,教会員に励まされて朝9時に手術室に入り,出て来たのは夕方6時,9時間に及ぶ大手術でした。主治医の疲れた顔と,土気色の顔で眠っていた姉妹の顔が思い出されます。

「主よ,……あわれんでください」

さて,手術は成功し,日一日と快復に向かっていきました。手術後の3日間が次の山になると聞いていましたので,順調な快復を喜びました。しかし1週間が過ぎたころから状況が変わってきます。胸水,腹水が溜まりだし,熱も38度5分と上がるようになりました。

そんな容態で一進一退を繰り返し,1か月半ほど過ぎたある日,先生から呼ばれました。状況説明か今後の方針説明だろうと思っていました。ところが先生は今までの経緯を話され,「胸水が止まりません。考えられることはすべて行ったけれど,見つからない部分が悪さをしているのかもしれません。今の検査技術,精度ではこれが限界です。抗生物質で炎症を起こしてふさぐ処置をすることに決定しました。しかし1週間同じ状況が続くようでしたら,親戚の方に連絡しなければならない状況だと考えてください」と言われたのです。わたしは愕然としました。あんなに元気になるんだと頑張っているのに。しかし,冷静に考えると,姉妹が切羽詰まった状況にあることは認めざるを得ませんでした。身体に何本ものチューブを通し,次第に痩せ細っていくその姿を見ていたからです。先生は次の処置を説明されたけれど,それは以前に一度行った方法でした。

病室に戻り,姉妹の顔を見ながら考えました。わたしは主の道を離れた者だから,その責めがあるならそれは受けないといけない。しかし,姉妹は主の戒めを純真に守ってきたではないか。今,わたしが姉妹にしてあげられることは何だろうか。──そのとき,東京神殿会長の菊地良彦長老が明日の日曜日に阿部野の教会へ来られることを思い出しました。もし菊地長老が祝福してくださったら,どんなに姉妹が元気づけられ励まされることか!

次の日,長女と病院に行き,わたしは大阪の教会へ行くとだけ伝えて阿倍野の教会へ向かいました。それは手術後ちょうど40日目のことでした。神殿ファイヤサイドは午後6時に終わりましたが,セミナリーの集会が8時まであり,その後指導者たちはステークオフィスで食事をしました。わたしは9時過ぎにステークオフィスの一室で伝道部会長会顧問の中野正之兄弟から面接を受けました。淀川から東の教会員はあまり知らなかったので,中野兄弟と話すのはこのときが初めてでした。中野兄弟は食事中の菊地長老にわたしの事情を話している様子で,やがて,菊地長老が来られました。

「……ひとりの人がイエスに近寄ってきて,ひざまずいて,言った,『主よ,わたしの子をあわれんでください。……』」(マタイ17:14-15)聖書に出てくるこの人の気持ちが今はよく分かります。ほんとうは土下座をしてお願いしたい気持ちでした。しかし,それは現代では失礼かもしれないと思いました。長綱姉妹と言っても分からないだろうからと,昔の写真を示し,明日でも明後日でもいい,東京に帰られるとき,三重県の病院に寄って祝福していただきたい旨をお話ししました。すると菊地長老は,「明日は,時間の約束があってどうしても東京に戻らなければなりません」と言われます。わたしは思いました。──(このあと,「どうしても行けないのですが,わたしは姉妹のために祈ります,また,神殿の祈りに名前を入れます」と言わないでほしいな。でもそこまで無理も言えない……)すがる思いで見つめていたと思います。

すると菊地長老は次のようにおっしゃったのです。「今からどうでしょうか? 病院は大丈夫ですか?」── 予想もしなかった言葉に,わたしはかなりびっくりしました。その時点で夜の10時くらいでした。今から奈良県を横切り三重県の津まで高速で走っても2時間はかかります。それを菊地長老は行ってくださると言うのです。

「はい,ありがとうございます。病院には連絡を入れますから。」(── 深夜12時を過ぎて,病院長でもないのにわたしにそんな権限があるの? とっくに面会時間は終わっているのに……でもそんなことを思っている場合じゃない……)申し訳ない気持ちとともに様々な思いが交錯し,急にあわただしくなりました。病院に電話を入れ,(姉妹に状況を話すとびっくりしています)菊地長老と中野兄弟は菊地姉妹をホテルに送り,わたしとは松原インターで合流して,夜中の高速を津まで走りました。病院に着いたのは12時半くらいでした。祝福をしていただき,津インターまでお送りしました。小雪がちらつく寒い夜道を感謝の気持ちでお見送りいたしました。日付けは変わり12月12日になっていました。

その後姉妹はまさに祝福されて,少しずつ健康を取り戻していきました。とは言っても簡単ではありません。山あり谷あり,退院また入院を何度か繰り返し,翌年(1995年)の5月に,この病からほぼ抜け出せる状態にまで快復しました。最初の入院から9か月が経過していました。まだ身体を完全に動かせる状態ではありませんでしたが,家にお母さんが戻って来たことがどんなにありがたいことか。家庭はまた明るくなり,今までの生活が戻ってきたのです!

思わぬ方法で呼び戻され

さて,それから1年半が経過しました。わたしは以前同様,教会には行っていませんでした。言葉にできないほど感謝の気持ちはありましたが,それとこれとはまったく別のことでしたし,今の生活に大きな不満はなかったのです。そんなとき,名張支部の伊藤支部会長から電話があり,「吹田地方部会長が日曜日に伺いたいので,家に行ってもいいですか」と尋ねられました。(まあ,何かいな。会うことはいいけど申し訳ないな,わざわざ来ていただいて)という気持ちでした。日曜日になるとまた電話があり,中野兄弟も来るとのこと,これは何か様子が違う,名張支部で会った方がいいかな,とも感じました。それは,話の内容によっては,自分の現状の信仰に対する考えを言うことになるかもしれないことを考慮したからです。大体は知っていても,改めて口に出して語っているわたしを見たときの姉妹の心の寂しさを想像できたからです。

玄関のチャイムが鳴りました。大阪の中野正之兄弟と吹田地方部会長でした。「まあ,こんなに遠くまでお疲れさまです。」家の中に入ってもらって少し世間話をし,中野兄弟からの面接となりました。ところが──「飛鳥支部が大変なのです。支部会長をお願いしたいのです……」そう切り出され,まったく面くらいました。10年間教会に行ってないわたし,しかも責任もほとんどやる気のないわたしに……。そのとき何を話したかはあまり覚えていません。わたしはただただ中野兄弟の目を見ていました。そしてその目を見ながら,(わたしはこの方の希望を断ることはできないな)と感じました。それは,わたしが菊地長老に面会して祝福をお願いしたとき,すがるような気持ちで話していた自分を見たからです。今,それとまったく同じことが繰り返されていると感じました。人間として断れない,もしここで断ったら,自分は人間としてだめになると思いました。

皆が帰った後に,そして次の日にも考えました。考えれば考えるほど自分はふさわしくないと思えてきました。今度はわたしが伺うと言って,もう一度中野兄弟に面接をお願いしました。そして,自分は戒めを守っていなかった,こんな罪もある,あんなことも,こんな考えも持っている……と話しました。しかし中野兄弟は,「分かりました。かまいません。大丈夫です」と言うばかりです。内心,この人は何という人だろう,むちゃくちゃやな,とも思いました。しかし,神権の鍵を託された方が良しとされるのなら,そしてわたしも断りの口実を探していた訳ではなかったのですから,それ以上言うこともなくなりました。そして,飛鳥支部の兄弟姉妹が支持してくださるのなら御心のままに従おう,もし,反対の人がいたならそれは仕方のないことだと考えました。

1996年11月10日の安息日。10年ぶりの飛鳥支部です。聖餐会において懐かしい兄弟姉妹たちは喜びの顔でもって支持してくださいました。今考えてもほんとうにありがたく,もったいないことでした。この10年の間にわたしの住む名張市にも教会ができていましたが,出張支部会長として,再び家族で教会に集う,その後3年間の喜びと感謝の日々が新たに始りました。

今振り返ってみると,この出来事はわたしたち家族にとってのターニングポイントであったと思います。もし姉妹の病気が悪化し,この世にとどまっていなかったなら。もしわたしがあのままの生活を続けていたなら……。今の家族のありようも違ったものになっていたことでしょう。わたしはありがたいことにこのような方法で呼び戻されました。人生には分からないことがたくさんありますが,福音の教えに従って生活していくときに必ず幸せが与えられます。神様がこの道を進むように示してくださったのだから,わたしは今,それに従おうと歩んでいます。

しかしわたしには,気にかかる,教会に来られていない大切な兄弟姉妹の顔がたくさん浮かんできます。これらの,教会から少し距離を置いておられる親しい兄弟姉妹に,「ほんとうに今あなたは幸せですか」と伺いたいのです。さらに,「このまま続けて将来も幸せだと思いますか」とも。もし答えが「はい」なら,それは自信をもって人生を歩んでおられるのだからすばらしいことだと思います。この,多くの問題に絶えず直面する世の中にあってそのように素直に言える人は少ないのではないかとも思います。しかし,最後にほんとうに考えてほしいのです。すなわち,「あなたは死んだ後も幸せだと,あなた自身に,あなたの子供たちに,そしてあなたのかけがえのない伴侶に自信をもって言えますか」と。

わたしたちはともに学びました。来世があること,そこでまたともに集うはずのこと,そして神権者はそこに家長として家族みんなを導く必要があること。それを証し,そして助けるために聖霊がおられることを学びました。最後の質問をどうか真剣に考え,真剣に祈っていただきたいのです。縁あってバプテスマを受けた兄弟姉妹,わたしも悔い改めが必要ですので努力します,あなたとともに命の木の実を食べたいのです。◆