リアホナ2009年10月号 アルマ・O・テーラーのモルモン書翻訳日記9

アルマ・O・テーラーのモルモン書翻訳日記9

とてつもない仕事,最終幕

「モルモン書」を口語訳から文語訳へ書き換える作業の中でアルマ・O・テーラーが時間をかけて慎重に行ったことは,文才のある人物を探すだけではなく,その人物の品格も見極めることであった。聖書に並ぶ「聖典」の翻訳に携わる人物としての高潔さが求められていた。それまでにテーラー長老は,多くの日本人と出会ったが,最後までテーラー長老の期待にこたえられる人物とめぐり合うことはなかった。しかし,後に文壇に大きな影響を与えた若き日の生田長江こそが,テーラー長老の期待を裏切らなかった人物であった。テーラー長老は,翻訳作業の前任者として手伝った平井廣五郎と26歳の生田長江とを比較して,次のように日記に記している。

1908年8月27日(木)東京

「朝食を済ませてから生田氏の自宅へ行き,モルモン書の翻訳についてしばらく話をした。翻訳に関して,生田氏と平井氏とは,まったく異なった考えを持っていた。平井氏は,感情の起伏が激しく,しばしば憤慨した。汚らしい言葉を使い,わたしたちの会話を快くないものとすることが頻繁にあった。生田氏は紳士である。頭の回転が速く,素直に自分の間違いを認める。わたしが質問した事柄にも敬意を払ってくれるので,短い間に,すぐに親しくなった。わたしは今日,生田氏の最初の月の働きに対して100円を支払った。彼は原稿の4つの書の確認作業を終えていた。わたしはそれらの書を読み返し,3つの書について話し合った。」

1909年5月11日(火)東京

「午後の早い時間から夜にかけてモルモン書の翻訳に取り組んだ。午後遅くになると校閲原稿に目を通すのを手伝った。今日,生田氏がやって来て,翻訳に対する最後の批評を終えた。今,わたしが目を通しているのがそれである。1908年7月29日付の日記を見ると,生田氏と契約を交わした経緯を読むことができる。契約をしたその日から翻訳に関する仕事を始めているで,彼は10か月近くこの仕事に携わっていることになる。生田氏は,わたしのすべての質問に忍耐強く答え,心地よく振舞ってくれる。平井廣五郎氏とは実に対照的である。平井氏は非常に短気で,話し合いの中でよく気性を荒げた。」

同い年のテーラー長老と生田長江は互いに尊敬の気持ちを持って仕事に取り組んでいたようである。テーラー長老の日記には生田長江と翻訳に関する話し合いが行われたことが頻繁に記されている。同じように,生田長江の弟子の生田春月の日記にも,テーラー長老と生田長江が度々話し合っていたとの記述が残されている。

1909年はテーラー長老にとって感慨深い一年だった。なぜなら,「モルモン書」が出版された後には,伝道の可能性を確かめるために韓国へと旅立つことを予定していたからだった。この年の日記には,来日した当時を振り返り,感傷的な思いや主への感謝の記述が目立つ。

1909年8月12日(木)東京

「ちょうど8年前の朝,日本への初めての宣教師が横浜に到着した。この8年間,主は健康にも霊にも,わたしを祝福してくださった。主は,わたしがすべての誘惑に打ち勝てるように助けてくださり,艱難の中にあっても支えてくださった。主は,わたしが隣人の救いにわずかでも携われるようにしてくださり,特にモルモン書の翻訳の業と,わたしの肩にかけられた伝道部会長としての務めを果たすうえで助けてくださった。そのため,もしわたしの業のゆえに偉大なことが成し遂げられたとしたら,その誉れと栄光はとこしえに主に帰するのである。わたしと同僚たち,この地の聖徒たち,家で待つ愛する者たち,そして,この伝道部のすべての益に対する主の祝福に感謝している。」

1909年9月1日(水)東京

「横浜に行くために身支度をした。ジェンセン長老とケイン長老とともに8時20分の汽車で出発した。横浜に到着するとすぐに,8年前に日本に初めて来た宣教師たちが祈りをささげた森へ向かった。使徒グラントが,福音を宣べ伝える地として日本を奉献した場所である。この日を日本で祝うことができるのは,間違いなく今回が最後となるであろうと感じていたので,わたしは8年前に,これまでで最も偉大な聖霊の顕れの一つとなった場所で,天の御父に心を注ぎ出したいと思っていた。賛美歌『Earth with her ten thousand flowers(地には花満ち)』を歌い,ケイン長老が祈りをささげた。わたしがこの場所について説明し,この場所が伝道部の歴史の中で持つ意味について少し話した後で,もう一度歌った。ケイン長老は,この場所で御霊の顕れを感じ,この場所について思い抱いていた気持ちを話した。彼もわたしと同じように,日本に来てから主が与えてくださっている祝福に感謝でいっぱいであった。ジェンセン長老が少し話をした。再び歌った後で,ケイン長老とジェンセン長老が祈りをささげた。さらにもう一度歌った後で,わたしが祈りをささげた。祈りの中で,わたしは神がモルモン書の翻訳に関して行われた業を心に留めてくださり,日本の様々な場所にモルモン書を携え行くときに,御霊が常にともにあるよう強く願った。また,この地において,モルモン書がその使命をよく果たすことができるように,モルモン書を宣伝し,販売するうえで神の祝福があるよう願った。わたしたちは再び歌い,ジェンセン長老が閉会の祈りをささげた。わたしたちはそのまま東京に戻り,わたしは雑用を済ませるために,銀座にある幾つかの店に電話をした。伝道本部に着いてから,日本奉献8周年および日本伝道部の開始を祝う祝賀会のために部屋を整えた。19人の招待客は皆出席し,午後7時ごろに夕食を取った。夕食の後で集会を持った。開会の歌は「家庭の中に」を歌った。開会の祈りは千葉安兵衛兄弟,ピアノ演奏はジェンセン兄弟。わたしが日本伝道部について,特に8年前の出来事についてしばらく話をした。それからジェンセン長老が別のピアノ曲を演奏した。8年前に横浜近くの奉献の地で撮影した写真を出席者に見せた後で,コウジ・チヨ姉妹が,わたしと長老たちあてに祝辞を述べた。奈知江常姉妹の代わりに書いたものである。それから全員で『See the mighty angel flying(力ある天使が飛ぶのを見た)』を歌い,わたしが閉会の祈りをささげた。」

そして,その月の末日。一つの大事業をやり遂げた思いで,テーラー長老は筆を擱く。

1909年9月30日(木)東京

「朝食の後で,モルモン書の最後の数ページの校閲原稿に取りかかった。11時15分ごろ,最後の用紙に完了の署名を記し,この偉大な愛の働きにおける最後の一筆を下ろした。印刷業者と装丁業者の仕事が終われば,完成したモルモン書が届く。わたしは,完成したモルモン書が届くのをひたすら待った。わたしの働きに関して言えば,これは最終幕(グランドフィナーレ)であった。このとてつもない仕事を成功のうちに終えるに当たって,この日を迎えることを許されたわたしが感じている喜びと感謝,満足感は,言い表すことができない。わたしが望み,祈り,熱心に歩み求めてきた日である。この仕事は確かに困難で,部屋に閉じこもって何時間も作業しなければならなかった。身体的,霊的な力を,非常に長い間,集中させる必要があった。この5年と9か月を振り返るとき,わたしが身体的,霊的な力を持続させることができたのは,ほとんど奇跡であった。どのようなときも,最後まで堪え忍べるよう熱烈に神に請い求めるとき,その祈りは聞き届けられた。この弱い者の手によってなされた働きの実を,もし主が御自身の祝福を与えるにふさわしいと見なしてくださり,日本語のモルモン書が日本の様々な地を巡るときに聖なる御霊を伴って行くことを許してくださるのであれば,この業に対するわたしの心からの究極の願いは叶えられ,これまでの労苦と苦悩は絶えることのない喜びの記憶となる。わたしは自分の勢力と思いと力を尽くして主をほめたたえよう。主が最も貴重な助け手として,忠実かつ不屈の精神の持ち主であるフレッド・A・ケイン長老を与えてくださったことに永遠に感謝する。ケイン長老はわたしが願ったとおりの末日聖徒で,彼は批評家として,筆記者として,また助言者として働いてくれた。翻訳の業において,彼とわたしとの関係は,最も親しいきずなで結ばれた。主はまた必要なときに十分な日本語の助けを与えてくださった。この助けを通して,すべてとまではいかなくとも,原稿上のほとんどの文法的,修辞的な間違いをなくすことができた。」

印刷された「モルモン書」が完成する前に,テーラー長老は積極的に宣伝に尽力した。雑誌「太陽」や「中央公論」をはじめ,地方紙にも宣伝の広告を掲載した。その広告原稿を作成したのも生田長江だった。日記によれば,書店には30%の割引があることを伝えている。50冊以上注文する場合は,いずれかの新聞広告に書店名と所在地を2回掲載できる特典まで付けていた。100冊以上の注文の場合は,上記の割引と書店名および住所の掲載のほかに,ケイン長老が執筆したパンフレット「What is The Book of Mormon(「モルモン書とは」)」を「モルモン書」と同じ冊数分,無料で進呈することも伝えていた。200冊以上の注文の場合は,上記のすべてに加えてさらに10%の割引を行うというものだった。東京近郊の書店あての手紙が132通,地方の書店あての手紙が373通発送された。

テーラー長老の宣伝が功を奏し,「モルモン書」の注文も舞い込んできた。1909年10月27日には「本日,1書店からは最大となるモルモン書の注文が届いた。神田の東京堂が70冊を購入した」と喜びが記されている。皇室や各界の著名人に贈る特別な装丁の「モルモン書」の準備も整いつつあった。贈呈先には,かねてより教会と交流があり,最初の宣教師来日の際には紹介状まで携えてきた伊藤博文も含まれていたと思われる。しかし,「モルモン書」の大きな注文を受けたその日,テーラー長老の喜びとは対象的な記事が報じられていた。

「今朝の新聞で,近代日本の最も偉大な政治家であった伊藤公爵が暗殺されたことが報道された。伊藤公爵は,もう少しで日本を近代化へと導くことができた。王座の後ろに少しでも力が働いていたとしたら,それは伊藤公爵(最近までは侯爵)であった。伊藤公爵の死は,全国民を悲しみに包んだ。公爵は満州のハルビンにおいて,10月26日の9時から10時の間に,韓国人青年によって暗殺された。」

生田長江との交流,「モルモン書」の出版,伊藤博文の暗殺。1909年は26歳のテーラー長老にとって,激動の一年であった。◆