リアホナ2009年3月号 アルマ・O・テーラーのモルモン書翻訳日記3

アルマ・O・テーラーのモルモン書翻訳日記3

エンサイン会長,モルモン書翻訳開始を宣言す

日本語を学び始めてから約1年後,アルマ・O・テーラーは簡単な日本語の翻訳ならばできるまでに成長していた。

1902年11月7日(金)

「わたしは中澤兄弟と『感謝を神に捧げん』を翻訳し,わたしたちは今晩エンサイン兄弟によって曲に合わせられたとおりに,第1番を練習した。」

日本人での最初の改宗者だった中澤元と親しくなったテーラー長老は,日本語の賛美歌を一緒に翻訳し,音楽に造詣の深いホレス・S・エンサイン長老の指導を受けながら楽しんだと記している。11月20日の日記にも賛美歌の翻訳に関する記述が見られる。

1902年11月20日(木)

「わたしの取り組みの中で,この日記に記録すべきだと思われる事柄の一つに,古き良き賛美歌『感謝を神に捧げん』の翻訳が終了したことがある。わたしはそれについて,ある意味とても満足し,その翻訳が正確であると確信していた。翌週の日曜日である16日に,わたしたちは初めてその賛美歌全部を歌った。これが日本語で歌われた最初のモルモンの賛美歌であり,霊感を受けた賛美歌の賛美の言葉を日本語で表し,神の僕が神をほめたたえて声を上げた最初のことであった。」

かつてタバナクル聖歌隊の副隊長だったエンサイン長老の歌声は人々を魅了することが多く,様々な場所で賛美歌を披露することを求められた。いつも英語の賛美歌を歌っていたことから,日本人のために日本語で賛美歌を歌うことを宣教師は常日頃から願っていた。賛美歌が歌われた喜びとともに,若きテーラー長老にとっての大きな喜びは,たった1曲の賛美歌であっても,その翻訳を全うしたということだった。完結させた喜びは,あらゆるものを日本語へ翻訳していく願いへとつながっていった。

また,宣教師たちは新聞や印刷物の影響力を理解していた。現在とは異なり,当時の宣教師は多くの人へメッセージを届けるメディアとして,この二つに注目していた。新聞社へ積極的に記事を送り,自分たちでも印刷物を制作するようになっていった。翌年3月に,宣教師たちは新しい試みを始める。

1903年3月20日(木)

「ちらしは完成して翻訳され,今や印刷準備のために高橋氏の手中にある。8日,グラント会長は横浜へ行き,英語で2,000部出版するよう注文した。それは英語が話せる人に配布するためでもあり,印刷工が満足する仕事をするかどうかその能力を試すためでもあった。」

出版物への知識も深まり,日本語も堪能になった宣教師は,大きな目標へ一歩一歩,主によって備えられていった。

そして,英語で行っていた儀式の言葉も日本語へと翻訳されていった。

1903年12月20(日)

「午後2時半,わたしたちは家の近くに流れる小川へ行き,女性で初めての改宗者を会衆の群れに歓迎する栄光に与った。この姉妹は,料理人兼手伝いとして本部で働いていたことがあり,今も働いている。彼女の名前は波木井波と言い,まだ独身だが,ずっと以前に結婚していてもよい年ごろだ。(ちなみに,このとき波木井姉妹は22歳。明治期の女性は10代半ばで結婚することも珍しくなかったのでこうした記述となったのであろう。)わたしたちは『感謝を神に捧げん』を歌い,大山兄弟が祈りをささげた。その後,ストーカー長老がバプテスマの儀式を施した。

この後,わたしたちは食堂に集まり,新しくバプテスマを受けた改宗者を教会の会員に確認した。わたしが確認の儀式を行い,エンサイン会長,フェザーストーン長老,ストーカー長老,ヘッジス長老が手を添えた。これは日本語を使って日本伝道部で行われた最初の確認の儀式であり,神の戒めに従って聖霊を授けるために初めて日本語が使われたものであった。」

この時期,初代伝道部会長のヒーバー・J・グラント長老に代わり,エンサイン長老が伝道部会長の務めを引き継いだ。エンサイン長老の新しいビジョンは,日本人に日本語によって福音を理解してもらうというものだった。宣教師の日本語も上達し,賛美歌も儀式も徐々に翻訳されていったが,それだけでは十分ではなかった。壮大な計画だったが,だれかが着手しなければならない大きな仕事に取りかかる時期が来たと感じていた。その思いはテーラー長老の心の中の願いとも同じだった。日本語によって日本人に福音を伝えなければならないとの思いは,宣教師たちの中で高まっていた。そして1904年1月,ついに宣教師たちを集めて特別な発表が行われたのであった。

1904年1月11日(月)

「エンサイン会長は,わたしたちがモルモン書の翻訳を始める時が来たことを確信したと述べた。そしてすべての兄弟たちに,翻訳したい箇所があれば,余った時間を使って翻訳し,保管するように求めた。それは将来,それらの翻訳が集められ,比べられ,改訂され,やがて最も神聖な本の翻訳の一部となるためである。この本の翻訳を始める時が来たという発表を聞いて,わたしの心は喜びと言葉に表すことのできない感謝の気持ちで満たされた。なぜなら,わたしは日本の国の人々が,その栄光ある教えと感動させる御霊の恩恵にあずかるために,この御業の完了を早めてくださるよう熱心に主に祈っていたからである。千葉市へ出かけた後,わたしはこの事柄を最も熱心な祈りのテーマとした。その事柄について断食し,森の中へ入り,神に御業を早めてくださるよう叫び求めた。わたしは,その事柄についてエンサイン会長に適切な霊感を与えてくださるように神に求め,また可能であれば,その御業が新年の1904年から始められるように,わたしたちを祝福してくださいと求めさえした。

そのため,エンサイン会長が立ち上がって翻訳を始める時が来たことを確信したことを宣言し,わたしたちの最初の取り組みは弱いものだとしても,主はわたしたちを十分に強め,モルモン書を研究し,日本語に訳すことにより,言語の力が明らかにされるであろうと語ったとき,わたしの胸は非常に高鳴った。断食して神の御前に一人で行き,モルモン書のために全霊を込めて主に嘆願したときに,神がわたしの祈りを聞いてくださっていたことが分かったからである。

わたしは午後の部会の開会の祈りをささげた。すると閃光のように『モルモン書の翻訳のために祈りなさい』という思いが来て,わたしはそのようにした。エンサイン会長は,わたしが祈り始めたとき,わたしがモルモン書の翻訳について祈るであろうことを知っていたので,わたしに祈りをささげるよう指名するように感じたと証した。確かに主は,実に豊かな御霊をもってわたしたちとともにおられた。

追伸──以下の任務が午後の集会で取り決められた。ジョン・W・ストーカーとジョセフ・F・フェザーストーン,東京。スタンフォード・W・ヘッジスとフレッド・A・ケイン,房州。エラスタス・L・ジャービス,中野(東京西部)。アルマ・O・テーラー,千葉市。」

まったく日本語を話せなかったエンサイン長老やテーラー長老が日本へ到着したのが1901年8月。その後,日本で過ごした3年間は二人の宣教師に様々な経験を与えた。当時,外国人に一般的だったホテルでの生活から離れ,生の日本語を学ぶために住居を移し,日本人の中へ飛び込んでいった。あらゆるものが初めての経験だったが,二人の宣教師は偏見もなく吸収していった。日本人の友人を作り,何度も千葉を訪れるうちにそこで出会った人々への尊敬と愛情が強まり,ぜひとも日本語で福音を分かち合いたいという望みは強まっていった。

日本へ来て3年目にして,モルモン書を日本語へ翻訳するという祈りが聞き届けられたとテーラー長老は感謝した。しかし,その大きな喜びの一方で,彼らは後に続く長く困難な作業の入り口にさえも,実はまだ到達していなかったのである。◆