リアホナ2009年7月号 アルマ・O・テーラーのモルモン書翻訳日記6

アルマ・O・テーラーのモルモン書翻訳日記6

アルマ,翻訳と格闘す

アルマ・O・テーラー長老が行っていたモルモン書の翻訳方法は,現在,一般的に行われている方法とはだいぶ異なっていた。英語から日本語へ直接翻訳するのではなく,入念に段階を経ながら行われていた。テーラー長老は長時間にわたって翻訳に携わるのではなく,日々,あいている時間を見つけては,根気強く,労力が求められる作業を行っていた。

1904年9月15日(木)東京

「午前中,モルモン書の最終原稿を少しだけ書いた。すなわち,ニーファイ第一書の翻訳文を日本語の文字で記録したのだ。わたしの作業手順はこうだ。まず翻訳文をローマ字で書き,注意深く読み直し,間違いがあれば修正する。そして,少しでもはっきりしないところはすべて,その部分の前後の日本語と一緒に日本人のところへ持って行って,相談する。それから,そのローマ字を,わたしが知っている限りできるだけ多くの漢字を使いながら,日本語の文字に書き換える。」

モルモン書の翻訳作業は,霊感を受けたエンサイン伝道部会長の指示によって進められていた。その大役を一任されていたテーラー長老とエンサイン会長へ大管長会からの手紙が届いた。それは,公式にモルモン書の翻訳が大管長会から承認されたことを意味する内容だった。

1904年10月20日(木)東京

「昨日アメリカからの郵便が届いた。その中に,教会の大管長会からエンサイン会長あての手紙があった。手紙の中で大管長会はモルモン書の翻訳について触れ,この偉大な業に携わっているわたしたちを励ましてくださった。管理役員がこの業について述べるのを聞いたのはこれが初めてである。そして,エンサイン会長あてのこの手紙の中で述べられていることに,わたしは喜んだ。」

数日後には,大管長会第二顧問のアンソン・H・ランド管長からの手紙がテーラー長老のもとへ届いた。その手紙は,テーラー長老を喜ばせただけではなく,翻訳方法に関するいくつかの疑問についても示唆を与えるものだった。そこには,ジョセフ・スミスがモルモン書を翻訳した方法が語られ,また他言語でのモルモン書がどのように翻訳されたかが記されていた。

1904年10月24日(月)東京

「少し前にエンサイン会長から受けた手紙を通して,わたしはあなたがモルモン書を日本語に翻訳していることを知りました。その業が行われていることを知って,わたしたちは喜んでいます。あなたが,非常に難解な言葉を学ぶことに成功し,その言葉を話す人々がモルモン書を理解できるようにする大切な役割を担っていることを,わたしはうれしく思います。わたしたちは,あなたが成功するように熱烈に祈っています。」

以前,テーラー長老は父親へ手紙を送り,預言者ジョセフ・スミスがモルモン書を翻訳したときの方法について尋ねていた。その中でテーラー長老は,教会の中央幹部であり英語版のモルモン書の改訂者でもあったB. H. ロバーツ長老が語った内容について触れていた。ジョセフ・スミスがモルモン書の翻訳を行ったときに,文章や単語が自動的に目の前に浮かんできて,それをただ機械的に読み上げることで翻訳作業が行われたとの説を唱える人に対し,ロバーツ長老は,翻訳の過程はそのように単純なものではなく,高い霊性が求められ,霊的な導きなくしては行えないという見解を述べていた。テーラー長老の父親からその手紙を見せられたランド管長は,ロバーツ長老の説に賛同したうえで,質問に答える手紙をテーラー長老へ送ったのだった。

「教義と聖約の第9章を読めば,オリバー・カウドリが叱責されたことが分かります。それは彼が翻訳することを願いながらもそのことについて思い計らず,何の努力もせずに与えられると考えていたからです。もしも,オリバー・カウドリが学び,行われた業が正しいということについて御霊の証を受けなければならなかったとすれば,主がオリバー・カウドリに命じられたその同じ方法で預言者が翻訳を行ったことに,疑いの余地はありません。

……どのような方法で行われたのであれ,それが神の力によって行われたことをわたしたちは知っています。わたしはロバーツ兄弟のこの見解に対抗する意見を聞いたことがありません。それは第9章の教えにも,翻訳に関するわたし自身の経験にも矛盾しません。……

あなたの最後の質問について──『モルモン書の中のある言葉が,聖書の言葉と一致している場合,日本語に訳されている聖書に頼り,その霊感を受けない文章を使うのは,どの程度安全であるか。』わたしはこのように答えましょう。モルモン書のデンマーク語版の改訂に際して,わたしはデンマーク語版の聖書と比べ,もしもデンマーク語版の聖書の意味が英語の聖書の意味と同じであれば,デンマーク語版の聖書の言葉を使うでしょう。なぜなら,その言葉遣いが最善であるからです。もしもその文章がモルモン書とは違う意味を持っているのであれば,わたしはその違う部分を翻訳しますが,その文章が似ているのであれば,上に述べたように,聖書の言葉を使うことを選んできました。なぜなら,一般的に言って,それは最もすばらしい言葉だからです。ですから,モルモン書の文章が英語の聖書と似ているときには,日本語版の聖書に頼り,もしそれが良い翻訳であるなら,その日本語を使うことを提案しましょう。なぜなら,彼らの聖書を翻訳した人たちは紛れもなく,彼らの中の最高の研究者であり,言語学者であり,それゆえ,意味のニュアンスを厳密に表現することにだれよりも長けているからです。

モルモン書をドイツ語に翻訳した以前の業においては,我々の翻訳者たちは,わたしがした提案の方向へあまりにも傾きすぎてしまい,モルモン書の聖句の意味と一致しているかどうかにかかわらず,ドイツ語の聖書に合わせてしまいました。そのために,多くの個所でほんとうに間違っていました。この問題は,前の版で修正されています。」

デンマーク語訳のように,すでに翻訳されている聖書から適切な部分だけを採用するのか,または,ドイツ語訳のように,聖書の引用部分は既訳をそのまますべて採用するのか。ランド長老の手紙を参考にしたテーラー長老が取った方法は,そのどちらでもなかった。つまり,1889年に日本初の完訳聖書として出版され,当時一般に使用されていた『(引照)舊新約聖書』(明治元訳聖書)から引用はせず,英文のモルモン書をもとに自らすべてを新たに翻訳する方法を取ったのだった。こうした経緯に,テーラー長老が様々な助言や導き,指針を求め,試行錯誤しながら人跡未踏の翻訳事業と格闘していた様子が伺える。

ちなみに1873年(明治6年),プロテスタントの宣教師らにより横浜で組織された聖書翻訳委員会(翻訳委員社中)は,新約聖書の共同翻訳事業に着手した。この委員会の日本人協力者の一人に高橋五郎の名前がある。この高橋五郎は,ヒーバー・J・グラントら最初の4人の宣教師が1901年に横浜へ上陸し誹謗中傷の渦中にあったとき,敢然と擁護の論陣を張り,モルモン教徒を紹介する書物を著した人物であった。彼自身は改宗しなかったが,グラント伝道部会長ら宣教師とも友好的な関係にあったと伝えられる。高橋の著作において使われた教会用語の訳語は,後の教会書籍の翻訳,またモルモン書の翻訳においても影響を与えたという。

1905年7月14日。伝道部会長の召しを解任されたエンサイン長老が帰国した直後,テーラー長老は大管長会からの手紙を受け取った。

「午前中に出かける直前に,アメリカからの郵便を受け取った。教会の大管長会からの手紙のうちの1通はエンサイン会長とその妻を解任するもの,もう1通はわたしを日本伝道部の会長の職に任命するものだった。わたしが受けた任命の手紙には,エンサイン長老がわたしを伝道部会長の職に任命するために按手する必要はないと明記されていた。」

宣教師として働き,またモルモン書の翻訳者として働くテーラー長老に,さらに大きな仕事が託されたのだった。その重責に戸惑いながらも,テーラー長老は主に頼ることを決意する。

「この正式な任命を受けた今,わたしは自分に与えられた責任の真の重さを感じ始めた。弱い者であるわたしは,わたしのこれまでの人生で最も大切なこの職につける務めを完全に果たせるようにしていただくために,強さと知恵を主に頼ろう。」

日本へ到着してから4年目が終わろうとしている夏。伝道部会長として召されたテーラー長老は,23歳だった。◆