リアホナ2009年1月号 アルマ・O・テーラーのモルモン書翻訳日記1

アルマ・O・テーラーのモルモン書翻訳日記1

宣教師,日本語と遭遇

1901年7月24日の開拓者記念日に4人の宣教師が日本へ向けてソルトレーク・シティーを出発した。経験豊かなヒーバー・J・グラント,ホレス・S・エンサイン,ルイス・A・ケルチに加え,ヒーバー・J・グラントの友人の息子であった一人の青年も同行することになった。両親から堅固な信仰を受け継いでいた18歳の青年の名前はアルマ・O・テーラー。やがて,柔軟な感性で日本の文化を吸収し,日本語を流暢に使いこなし,モルモン書の日本語訳を完成させることとなる人物だった。1909年(明治42年)10月10日に最初の日本語訳のモルモン書が発行されてから100周年を迎える2009年は,その大事業に携わったアルマ・O・テーラーと宣教師たちの労苦を思い起こす記念の年となる。今ではだれもが簡単に入手できるモルモン書だが,最初の一冊が完成するまでには多くの困難を乗り越えなければならなかった。アルマ・O・テーラーの日記と当時の記録は,モルモン書が与えられていることへの感謝の気持ちを感じさせてくれることだろう。

1901年7月24日(水曜日)ユタ州ソルトレーク・シティー

「わたしの日本への伝道が今日始まることとなった。それは胸躍ると同時に大きな仕事だ。わたしの目の前に横たわる旅の準備をすることは簡単な作業ではない。思いを巡らし,手を動かして旅に必要なものを忘れることなく詰め込む。わたしが伝道の業に携わる長い期間のことを考えると家族や友人を残して旅立つことはとても寂しいことだが,わたしの前に横たわる偉大な仕事に思いを向けるとき,喜びに満ちる思いで別れのあいさつを告げることができる。

今日はわたしたちが旅立つにはまさにふさわしい日だった。奇遇にもソルトレーク渓谷へ開拓者が到着してから54回目の記念日を祝う日だった。わたしが知る限りでは,福音はいまだかつて日本へ伝えられたことはなく,わたしたちは日本へ福音の宣言を響かせる最初の宣教師になる。その意味ではわたしたちは開拓者記念日に旅立つまさに開拓者である。人々がハンカチーフを振り,最後の別れをする女性の涙声が響く中,東洋へと旅立つわたしたち4人の宣教師を乗せた列車はゆっくりと動き始めた。」

1901年8月12日(月曜日)日本の沿岸/横浜

「わたしたちが起きたとき,日本の海岸に沿って船は航海していた。途中,船の航路に何百もの漁をする舟があった。その舟には3人から9人の日本人の漁師が乗っており,力強く投網を行っていた。午前10時に横浜の岸壁から約2マイルほどの所に船は碇を下ろして停泊した。法律によってすべての乗船者はそこから先へ行くには,検疫官からの検査を受けなければならなかった。少しの時間そこで待つと二人の医者を乗せた舟がやって来た。医者は二人とも日本人だった。乗客の健康状態は良好であることが分かったので,わたしたちは元気に港へ向かった。

夕食後,わたしは港の税関まで戻り,わたしたちの荷物や書籍の通関状況を見に行った。ホテルへ戻るとき,もう一度人力車を利用した。料金は20銭だった,これはアメリカの10セントにあたる金額だった。そこからの距離は約1マイルだと思う。わたしはホテルのベランダに腰掛け,港を見渡した。海岸や舟の上では,上半身がほとんど裸の男たちが働いていた。人の限界を超えるような太くたくましい腕や足を見たとき,尊敬の気持ちさえ感じた。彼らの着ているものや,礼儀作法を見ていると,実際にわたしは『奇妙な国へ来た奇妙な訪問者』だと感じた。」

岩倉使節団の一員としてソルトレーク・シティーに滞在した伊藤博文への親書を携えていた4人の宣教師だったが,来日前に内閣は総辞職をし,陸軍大臣であった桂太郎が内閣総理大臣へ任命されていた。若き日のアルマ・O・テーラーが横浜に最初の一歩を踏み出したころ,時を同じくして桂内閣の外務大臣に小村壽太郎が任命された。ホテルの部屋から横浜の海を眺めるアルマ・O・テーラーは,モルモン書を日本語へ翻訳する大事業にその身を投じることになろうとはいまだ考えもしなかったことだろう。ましてや,将来出版されるモルモン書が自分と外務大臣小村壽太郎を結び付けるものになるなど想像もしていなかったに違いない。

日本語を話せない宣教師にとって,既に横浜に滞在していた他の外国人から情報をもらうことは自然なことであったが,他宗派の牧師たちからの協力を受けることはできなかった。

1901年8月14日(水曜日)横浜

「ケルチ兄弟は日本語や日本の習慣について学ぶのに適したテキストを手に入れようと思い,牧師に連絡してアドバイスを受けようとした。しかし,牧師は『わたしはどんなことであれ,あなたたちの助けになるようなことはしません』と返答した。この牧師との会話によれば,モルモンの宣教師が来日することを聞いた他宗派の牧師たちは,わたしたちを追い出すために秘密裏に一致結束しているとのことだった。しかし,ケルチ兄弟はその牧師に,わたしたちは日本に滞在するためにやって来たのであって,彼らの助けがなくても進み続けるだろう,そして,わたしたちを滅ぼそうとするいかなる努力も意味のないものになるだろうと伝えた。」

宣教師のもとへ日本人から福音について尋ねる手紙がたくさん届いたが,彼らは一通も自分たちで読むことができなかった。周囲には通訳のできる日本人もいなかったため,最初のうちは,英語を話せる日本人の助けを受けながら手紙の内容を理解していた。宣教師たちは苦労しながら日本語を学んだが,アルマ・O・テーラーは悲観的な気持ちは持っていなかった。日本語を話せなくても,日本人と積極的にコミュニケーションを図っていた。1901年8月23日,アルマ・O・テーラーはケルチ長老と文房具店を訪れている。日本人が巻紙に手紙を書いていることから,それを購入しようと出かけたのだった。しかし,文房具店ではまったく言葉が通じなかった。

1901年8月23日(金曜日)横浜

「ここには英語をまったく話せない日本人がいる。わたしたちが何を買いたいのか理解してもらうために,30分も時間がかかってしまった。わたしたちが欲しいものを伝えると,店員はあたかもわたしたちの言葉を理解したかのように,首を縦に振ってうなずくが,店内にあるほとんどの商品を次々と持ち出して来て,わたしたちが欲しいものとは違うものを見せてきた。店内をわたしが見渡すと,巻紙が棚の上に置かれているのに気づいた。そこでやっと混乱した状況は終わった。店員がその巻紙を取り出したとき,今度はわたしたちが首を縦に振ってうなずいた。その光景をみると店員は笑い出してしまった。」

そして来日してから3週間後,アルマ・O・テーラーは次のように日記に記している。

1901年9月5日(木曜日)横浜

「午後のほとんどの時間を日本語を話す勉強に充てて過ごした。今日学習したことはとても興味深いものだった。そして,主の祝福によって感じたことがある。数か月後には,この国の人が話す言葉を使って,わたしは自分の気持ちを思うままに表現できるようになるに違いない。」

その日記の一節は,まさに主からの霊感を受けた言葉だった。1世紀の時を透かして見るとそれは,日本での伝道に燃える若きアルマが,主の御手みてによって導かれたモルモン書の翻訳事業へと最初の一歩を踏み出した瞬間とも思えてくる。◆