リアホナ2009年2月号 アルマ・O・テーラーのモルモン書翻訳日記2

アルマ・O・テーラーのモルモン書翻訳日記2

日本のただ中へ飛び込む

横浜のグランドホテルから東京築地のメトロポールホテルへ住居を移した宣教師たちは日本語の勉強を毎日続けた。ある日,日本語教師の青木氏から千葉の自宅への招待を受け,その翌日に,テーラー長老は独りで千葉,四街道へと向かった。千葉を訪れたテーラー長老は,その風景や人々の交流に心を打たれた。そして,もっと日本語を上達させ,愛する人たちに福音を宣の べ伝えたいという思いが強まってきた。そこでは,ホテルの部屋で教師を相手に日本語を勉強しているものとはまったく異なった交流を感じたのだった。

1901年11月8日(金)千葉

「わたしの心は,その日の経験とその夜成功する見込みについて考えて,神への感謝の念で満たされた。そして,程なくこの民に彼ら自身の言語で福音を宣べ伝えることができるよう,また,彼らの家で絶えず彼らと交わることができるよう,その力を求めて天の御父に祈った。その夜,1,2度目を覚ましたが,獣脂ろうそくのほのかな光のおかげで,今自分がどこにいるのか,すぐに認識することができた。そして,安心して寝返りを打つと,すぐに眠りに落ち,このミカドの国で過ごす自分の将来の生活のことをまた夢に見た。」

そして,ほんとうに日本語を使って伝道をするならば,ホテルに住み続けるのではなく,日本人と同じ環境に身を置き,日本の文化を肌で感じながら生活することが最も適しているという結論に至った。

1901年11月10日(日)東京

「日曜日の聖餐会が開かれたが,その中で我々は再度,日本人の中に入って行って,日本人の家で日本人と一緒に生活することはどうかと話し合った。この国の人々の中で身を落ち着けることもせず,ただ,廣井(辰太郎)氏のもとで指導を受けながら東京に滞在しているだけで,ほんとうに語学の面で進歩が見られるものなのかどうか,いささか決めかねていたからである。その廣井氏からこの金曜日に手紙が来て,今週会いたいとあった。」

通訳兼日本語教師として雇われていた廣井氏の助けによって日本人の中に溶け込む生活を選択した宣教師たちだったが,ほとんど日本語での会話能力がないまま日本人の中にほうり投げられた状態だった。日記にはテーラー長老とエンサイン長老が苦労しながらも最初の一歩を踏み出した様子がつづられている。

1901年12月5日(木)東京

「食事が終わって,食器類が片付けられると,廣井氏は,家の周囲の状況を完璧に理解し,鍵のかけ方や,家の中で知っておく必要のある場所を承知しておくために,必要だと思ったことをすべて家主に尋ねた。廣井氏は,我々のもとを去るに当たって,まるで二人の赤子を残していくようなものだと言ったが,まったくそのとおりで,我々はほんとうに赤子同然だったのである。廣井氏が去って程なくして,召し使いがやって来て,日本語で何か一つ(あるいは一つ以上)の質問をしたが,我々にはまったく理解できなかった。それから召し使いたちは入れ替わり立ち代りやって来ては,我々に話しかけたが,わけの分からないことを恐ろしい速度でまくし立てられて,どう答えたらよいのかも分からず,ただただほほえんで,口をつぐんでいるしかできなかったのである。」

しかし,日本人と一緒に過ごすからこそ,福音を伝える機会にも恵まれるようになった。それはテーラー長老には喜びで満たされる瞬間だった。

「大井氏と2時間半ほど『モルモン教徒』について話しただろうか,とにかく日本に到着以来,福音についての話し合いで,これほどすばらしい機会はなかったほどである。氏は,末日聖徒の業績や『モルモニズム』の真の意味を初めて知り,ひどく驚いていた。そして,自分の教えている学校へ来て,生徒たちに末日聖徒の民について講義をしてはくれまいかと提案した。そうすれば,新聞報道でまき散らされている我々に関する間違った印象を,生徒たちの頭から払拭できるからというのである。これは我々にとってまたとない機会であった。そのため,我々は氏の望むときならいつでも喜んで出かけるつもりだと約束した。訪問者が皆いなくなり,我々だけになったとき,我々を取り巻く状況について振り返り,今日頂いた祝福についての感謝を全霊を傾けて主にささげるべきだと感じた。また,この住居を主に奉献すべきだと感じた。我々はひざまづくと,わたしが代表して,主に我々の願いを訴えたが,わたしの心は平安と静寂とに満たされていた。その晩の睡眠は床にフトンを4枚重ねて(訳注──敷布団を2枚と掛け布団を2枚の意味)温かく眠れたため,実に快適であった。」(12月5日)

日本人との交流を深めることによって多くの情報にも触れることとなった。それが,聖書の研究者としても有名であった高橋五郎氏との出会いだった。

1901年12月11日(水)東京

「なお晴天続く。朝食後,メトロポール(・ホテル)へ行き,廣井氏からレッスンを受ける。そこで,廣井氏は,日本の代表的な雑誌である『太陽』から一つの論文を翻訳してくれた。この論文はモルモンへの疑問に答えたもので,我々に関しての極めて公平な内容の論文であった。我々の信仰の一部分について,驚くほど正確に記載されていた。この論文を書いたのは,高橋五郎という名前の日本人であって,数年前にはキリスト教を擁護するために果敢に論陣を張った人物であって,この国の中でも最強の知性派の一人と見なされている。この『モルモニズム』に関する論文の中で,氏は我々に対する誹謗中傷にことごとく反論してみせ,廣井氏の言によれば,その筆致は妙なる音楽を聴くようだとのことである。この高橋氏なる人物は,我々がまだ横浜にいる間に,手紙を書き送ってきて,日本語へ翻訳する必要のある文書があれば,いつでも手伝う用意があると申し出てくれた。氏は,聖書を日本語に翻訳した翻訳委員の一人であり,キリスト教のために相応の貢献をしている人物である。」

テーラー長老から福音を聞き,親交を深めた高橋五郎氏は一つの提案をした。それは日本人のために福音を紹介した書籍を著してはどうかというものだった。新聞による影響力を痛感していた宣教師たちにとって,それは自然に受け入れられる提案だったに違いない。また,日本語でのモルモン書の出版を実現させることへつながる最初の一歩でもあった。

1901年12月20日(金)東京

「天気晴朗なれど極めて寒し。セントラル・ホテルで一日中兄弟たちと過ごす。午前中はいつものとおり,日本語のレッスンを受ける。また,高橋氏からもらった手紙の内容について考慮する。氏は,我々の教えを人々に広めるためにはどうしたらいいかについて,我々のために考えうる最善の計画を立ててくれているのである。さらに,彼なら我々について正確に表すことができると我々の方で判断するなら,我々のために本を書くつもりがあるとも提案してきているのだ。」

来日してからの4か月間は宣教師たちには激動の日々だった。人々に揶揄やゆされ,その誤解を解くために尽力し奔走する日々だった。そして12月。日本での初めてのクリスマスを迎えたテーラー長老は25日の日記に次のように記している。

1901年12月25日(水)東京

「その日の後半は,ケーキやキャンディーをひたすら食べて過ごした。そのため,この日の夕食は,日本における最初のクリスマスのごちそうとして永遠に記憶に残さねばならないのに,その夕食を入れる余地も怪しくなってしまった。この国でこれから何回クリスマスを祝うことになるのだろうか。もし多くのクリスマスを祝うとしたら,将来新しい経験をする度にそれらを過去の情景と比べたらおもしろいだろう。次のクリスマスまでには,これまで長く渇望している賜物たまものを天の御父から頂けるよう,切に願っている。すなわち,この国の言語を習得し,この数日間その降誕を祝っている御方の福音を宣べ伝えられるようになりたいのだ。

集ったのは我々4人だけだったが,それでも,生涯でこれほど充実したクリスマスはなかった。我々はシオンの歌を一緒に歌い,一緒に笑い,一緒に祈り,心ゆくまでごちそうに舌鼓を打った。この日の出来事は決して忘れられるものではなく,1901年のクリスマスの光景を将来思い起こすときには,紛れもなく幸福と平安に満ちた喜びの日として思い出すであろう。ケルチ兄弟とエンサイン兄弟とわたしの3人でグラント兄弟に金の装飾の付いた万年筆をプレゼントした。我々の伝道部会長に対する我々からの愛のしるしだ。」

着実に日本語が上達する中,日本人へ福音を伝えたいという情熱は燃え上がるばかりだった。いつまで日本へ滞在するかも分からず,また,いつの日か自らがモルモン書を日本語へ翻訳することになるとも知らず,故郷と家族を思い出しながら穏やかなクリスマスの夜を過ごしたのだった。◆