リアホナ2009年12月号 アルマ・O・テーラーのモルモン書翻訳日記10

アルマ・O・テーラーのモルモン書翻訳日記10

最後の大役を果たして日本語版のモルモン書を完成させたアルマ・O・テーラー長老には,まだ,大きな仕事が残されていた。それは,当時の日本のオピニオンリーダー(社会の中で影響力を持った人々)にモルモン書を贈呈することだった。日本に滞在した8年間で培った人脈を活用しながら,80人のオピニオンリーダーにモルモン書を贈ることを決定したテーラー長老。それはたった独りで挑む日本での最後の仕事だった。

1909年11月22日(月)東京

「午前中にアメリカ大使館に赴き,オブライアン大使と面会した。この訪問の目的は,皇室や政府各省の長にモルモン書を渡すうえでどのように進めていったらよいかを知るためであった。外務大臣に会うよう勧められた。外務大臣との面会を求めるには,オブライアン氏からの書状も名刺も必要ないとのことだった。銀座まで歩き,人力車で帰った。」

オピニオンリーダへ贈られるモルモン書は特別な革装丁で作られた。さらには,皇室献上用の4冊の特別装丁版も準備された。

1909年11月26日(金)東京

「今朝,最後に印刷したモルモン書が仕上がってきた。皇族用の特別装丁版も届いた。実に美しく仕上がっている。献上用として梱包する前に入念に内容を確認した。」

テーラー長老は,天皇皇后両陛下へお会いしてモルモン書を直接献上することを希望していたが,それは簡単なことではなかった。この時期,テーラー長老は,モルモン書の献上のために多くの時間を費やしている。モルモン書も出版され,日本での自分の務めが終わりに近づいていることも感じ始めているころだった。

1909年11月29日(月)東京

「午前中と午後のほとんどの時間を使って,外務大臣小村壽太郎伯爵と面会させていただこうとした。面会はできなかったが,書記官の吉田氏とお会いすることができた。面会を願い出たのは,小村伯爵にモルモン書を贈呈し,もし可能であれば,天皇皇后両陛下にお会いし,同じ聖典を献上できるようにするためであった。」

1909年11月30日(火)東京

「午前中,枢密院に赴いたが面会を望んでいた人物は外出していた。午後にもう一度赴いたが,まだ不在であったため,書記官の一人に話しかけた。彼はわたしの望みに耳を傾け,翌日の午後1:30にもう一度来て,書記官長の河村氏と面会するようにと言った。河村氏なら枢密院の全議員にモルモン書を進呈する方法を教えてくれると言う。」

1909年12月1日(水)東京

「政府高官にモルモン書を進呈することに一日のほとんどを費やす。午後は,枢密院の書記官長の河村金五郎氏に面会する。河村氏は枢密院の中でも名の通った30人の議員にモルモン書を渡す役目を引き受けてくれた。」

1909年12月2日(木)東京

「午後は枢密院の事務所にモルモン書を持って行き,河村氏に渡した。河村氏にもモルモン書を進呈した。また『モルモン書の紹介』も枢密院の議員に渡せるように,できるだけ多くの部数を置いてきた。また,内閣書記官長の柴田氏と宮内省書記官の栗原氏に面会する約束を取り付けた。柴田氏の自宅に電話をしたが,体調が悪いようで,面会できなかった。宮内省に赴くと,外の門でしばらく待った後で,少年が入省許可証を持ってやって来た。宮内省の待合室に通され,天皇皇后両陛下,皇太子妃殿下,宮内省宮内大臣の岩倉(具定)公爵にモルモン書を献上することについて栗原氏と話した。皇族に献上することに差し障りはないが,慣習上,書籍はアメリカ大使および外務省から献上する必要があるとのこと。そのとき,岩倉公爵ならモルモン書を喜んで受け取ってくださるだろうと思った。そして岩倉公爵にお会いするのが難しいようであれば,ご自宅にお持ちし,栗原氏から岩倉公爵のご家族に電話で連絡を入れていただき,また栗原氏から公爵に献上の旨を話していただけるのではないかと思った。宮内省から立ち去るときは,入省許可証を返却しなければならなかった。皇室に最も近づくことができたのはここまでであり,これ以上は近づけないだろうとも思った。天皇皇后両陛下にお会いし,モルモン書を献上する機会を得ることには,刻々と希望を持てなくなっていった。」

結局,テーラー長老は天皇皇后両陛下に直接お会いすることはかなわなかった。後に,外務大臣であった小村壽太郎から感謝の手紙が届き,天皇皇后両陛下,皇太子皇太子妃両殿下に献上されたことが報告された。

1909年12月3日(金)東京

「午前中,岩倉公爵の自宅に赴き,モルモン書と『モルモン書の紹介』を渡した。昨日,宮内省でお会いした栗原氏は,わたしが訪れることを電話で岩倉公爵のご家族に伝えてくださっていたため,岩倉公爵のご家族は喜んでモルモン書を受け取ってくださった。本部に戻り,午後のほとんどの時間をアメリカのニュースを読んで過ごした。夕食後,皇族に献上するモルモン書とともにお送りするために書き上げた書状を清書していただくために,河合氏を尋ねた。」

1909年12月6日(月)東京

「朝食後,皇族に献上するモルモン書を包装し,出かけた。内閣8名の議員に進呈するモルモン書を一緒に持って行った。最初に,内閣書記官長の柴田氏の自宅を訪れたが,病気で入院しているため,書記官のサカタ氏を訪れるように言われた。柴田氏の自宅からアメリカ大使館へ向かい,オブライアン大使と面会した。大使はモルモン書を受け取り,その日のうちに必ず外務省に届け,外務省から宮内省に渡してもらうようにすると約束してくださった。オブライアン大使には英語のモルモン書を贈り,大使は喜んで受け取ってくださった。大使館の次は内閣府に赴いた。内閣府は皇居の敷地内に設営されている。正門から入るための許可を得るために,門のところで待っていると,待合室に通されサカタ氏と面会した。サカタ氏から内閣府の議員にモルモン書を進呈してもよいとの許可を頂き,サカタ氏に8冊のモルモン書を預けることができた。わたしが進呈するために明記した人にすべて渡してくれると言う。サカタ氏は,明記してある人にはすぐに渡すと約束してくださった。」

テーラー長老は,オピニオンリーダーとの関係を築き,教会への理解を深めてもらうことが,後世に影響を与えることになると感じていた。また,テーラー長老が日本を去った後に,そのような人々から擁護されることは,教会の発展に欠かせないものだと理解していた。そして,モルモン書を贈呈するという大役が終わりを告げるころ,大管長会から1通の手紙が届いた。

1909年12月18日(土)東京

「午前中,大管長会からわたしの解任と帰還について記された手紙を受け取った。手紙にはフレッド・A・ケイン長老の解任も記されていた。ケイン長老とわたしが帰還する際に韓国と中国を見て回ることができるように,2,000円の為替手形も同封されていた。わたしはケイン長老に手紙を書き,彼の解任を伝え,宣教師としての彼の働きに満足していることを伝えた。

わたしの解任が決まったことは父の手紙を通してすでに聞いており,同僚のだれかを伝道部会長として召す責任が託されていたため,そのことについて考えていた。そしてエルバート・D・トーマス長老を指名するのが伝道部にとって最も良いと判断した。そのため,今日受け取った大管長会からの手紙に記された指示に従い,伝道部内のすべての長老たちにトーマス長老の名前を提示し,賛意の表明を求めた。大管長会からの指示では,わたしが指名する長老は,わたしの後継者が選ばれ,赴任するまで会長としての責任を務めることになる。」

1909年12月31日の日記でテーラー長老は,過ぎ去る年と,日本での生活を振り返って,次のように記している。

「これまでの年月の間,わたしは多くの経験をした。人生で最も喜ばしい経験もあったが,人類が味わうよう求められているものの中で,最もつらいと思われるものもあった。モルモン書が完成し,出版されたことは,これまでの年月の中で起きたすばらしい出来事の中でも,最も重要で実り多いものであった。わたしの解任と帰還が,この偉大な業を終えるまで先延ばしにされたことは,その喜びを幾重にもしている。」

日本を去る日を前に,テーラー長老は淡々と記している。その一文にテーラー長老の謙遜な心を感じ取ることができる。

「主の与えてくださった多くの祝福には,感謝を表さずにはいられない。」

ヒーバー・J・グラント長老に同行し,最初の宣教師として1901年に来日してからすでに8年半の歳月が過ぎていた。だれよりも日本語を流暢に話し,だれよりも忍耐強くモルモン書の翻訳という大事業に取り組んだテーラー長老は,まだ二十代半ばを越えたばかりの青年であった。挫折と失望を何度も繰り返し,その度に信仰の光を受け,主によって強められていった。

テーラー長老がわたしたち日本人に残してくれた遺産は,出版されたモルモン書という形あるものだけではない。その翻訳の苦難の記録と,そこから学べるテーラー長老の情熱,希望,信仰,そして将来を見据えたビジョンもまた大きな受け継ぎであろう。今から100年前,故郷を遠く離れた一人のアメリカ人青年が,日本人のために青春時代をささげ,主の業の基を据えるため果敢に挑み続けたことを,わたしたちは決して忘れることはないだろう。◆