リアホナ2009年8月号 アルマ・O・テーラーのモルモン書翻訳日記7

アルマ・O・テーラーのモルモン書翻訳日記7

方針変更の大英断──口語体から文語体へ

1906年3月21日の日記に,アルマ・O・テーラー長老は満足感を込めた思いをつづっている。それは,モルモン書の翻訳をついに完成させた記念すべき日だった。

1906年3月21日(水)東京

「モルモン書の作業を数分間行い,修正を最後まで完了させる。終わったときはちょうど午前9時30分だった。ケイン長老の行っていた写しの作業は,長老が『イエス・キリストの生涯とメッセージ(Life and Message of Jesus Christ)』という冊子の制作に取り組んでいるために遅れている。わたしは1904年の1月に翻訳を始め,空いた時間を見つけて作業を行っていたが,ほとんどの時間は伝道とそのほか伝道に関する事柄にとられていた。6か月間,作業はこのような形で行われ,その間,わたしはニーファイ第一書の8つか9つの章の翻訳しかできなかった。進度が遅すぎたため,同じ年の7月16日,わたしはそのほかの事柄を後に回し,翻訳を行う特別な任務を受けた。そのときから今朝まで,わたしは熱心に翻訳を行い,天の御父の助けにより今日きょう作業を終えた。しかし,翻訳を始めたとき,自分には今ほどの語学力がなかったため,翻訳の最初の部分に改善の余地が多々あることが分かる。翻訳を始めて以来,健康状態は良好で,誤訳のみが心配だが,作業は大きな喜びと満足を与えてくれる。すべての翻訳に,細心かつ優れた修正と改訂を行う方法が見つかるよう,心から祈っている。」

テーラー長老がモルモン書の翻訳へ取り組んでいる期間にも,他の宣教師によって様々な小冊子が出版された。また,宣教師の良き理解者であり,著名な聖書学者でもあった高橋五郎による,教会に対しての著作も出版されていた。テーラー長老は,翻訳の過程で知り会った人々に助けを求めながら,少しでも教会の知名度を上げるべく広報活動に力を注いでいた。その一つが,高橋五郎による「麼児門教と麼児門教徒」を貴族院の各議員へ贈呈することだった。

1906年3月22日(木)東京

「朝食後,(隣人の)ヨコヤマ氏を訪ね,貴族院の議員に文献を贈る方法について尋ねた(Y氏は下院議員だったため,こうしたことを知っているとわたしは考えた)。Y氏と同居するクワナ氏が,一緒に貴族院が開催されている場所に行き,この質問に答えてくれる人にわたしを紹介しようと申し出てくれた。長い時間待った後,わたしたちはある議員と会い,その議員から庶務を担当する官庁の最高責任者を紹介してもらった。本を眺めた後,その責任者は喜んで申し出を受けると言い,また362冊必要になると言った。議会は今月

の27日に解散するため,23日か24日に持っていけば,担当官により本が議員に配られるとのこと。わたしは議場への入室許可を得,貴族院議会の行われる様子を約45分間見学した。」

すべてが順調に進んでいるように思われていたが,モルモン書を出版するためには,まだまだ行わなければならないことがあった。翻訳されたモルモン書の原稿に対して,文才のある日本人からの評論を受けることは重要だと考えていた。オリジナルの原稿から写しを作成するために,森八郎という人物が定期的に伝道本部へ通って作業を行ってくれた。後にバプテスマを受けた森氏は,毎日およそ2時間ずつ作業に携わった。その作業はボランティアで行われていたが,森氏は大きな喜びを感じていた。

1906年11月12日(月)東京

「今日,森氏がモルモン書の翻訳の第3部の写しを始めた。第2部は先週の金曜日に終わっている。第2部の作業に対し,報酬を渡そうとしたが,森氏は,これは神のための業だと考えていると言い,頑として受け取ろうとせず,この類に関する作業については請求をしなかった。彼がこのような気持ちでいてくれることに感謝する。」

テーラー長老は,モルモン書の評論を受けるために,当時の著名な英文学者や宗教学者を順番に訪ねた。関心を寄せる者がいたとしても,テーラー長老は慎重にその人物を見極めていた。多くの著書を著し,著名な言語学者だった平井金三に,評論を依頼し,断りの手紙を受け取っても,決して落胆することはなかった。

1906年11月10日(土)東京

「牛込から平井金三氏の家に行く。モルモン書の翻訳に対する評論の作業を,すべての時間とは言わずとも,多くの時間を割いて行ってもらえるよう,平井氏を説得できないかと訪問したのである。同氏と会い,この件について長い時間話しをした。平井氏は,作業については喜んで行ってくれるものの,仕事の幾つかをやめ,すべての時間を評論に当てることについては,よく考えなければならないと話した。」

1906年12月6日(木)東京

「夜,平井金三氏から葉書をもらう。モルモン書の翻訳に対する評論についてのわたしからの提案は受け入れられないとのこと。この件に関し,このような決定がなされたことに,わたしは心から満足した。なぜなら,わたしはこれまで祈り,もし彼がこの大切な評論をするために神が選ばれた人物ではないのなら,神は,平井氏がわたしからお願いしたこの仕事の依頼を引き受けないようになさるだろうと感じていたからである。平井氏が断ったことは,わたしにとって満足のいく祈りの答えとなったのである。」

次々と紹介を受けながら,モルモン書の翻訳に対して評論を受けようとしていたテーラー長老だったが,翻訳の評論以前に,予想もしなかった一つの意見に心を悩ますことになった。それは,口語体で翻訳してきた原稿を,再度,文語体に翻訳し直すべきだとの提案だった。

1907年7月26日(金)仙台

「鈴木氏(河北新報社)は,言文一致体を支持するものの,これにはまだ標準化された形がないため,このような重要な書物の翻訳は文体で書くことがおおいに必要だと感じると話した。翻訳は言文一致体でと常々考えていたわたしは,これを聞いて落胆した。しかし,鈴木氏の人格には以前から非常に感銘を受けており,モルモン書の翻訳/改訂に関してこれまで働きかけてきただれよりも道徳的に清い人物だと思う。」

平井金三から紹介された神戸在住の野口善四郎も,同じように,文語体での翻訳を提案する人物であった。

1907年8月15日(木)東京

「野口氏から手紙を受け取る。わたしの翻訳を古典的な『文章』体に修正した理由が書かれてあった。理由は多くあったが,最も大きなものは(これは平井金三氏からも言われていた点だが),『言文一致』が話し言葉を用いるものの,方言の違いがあるため,日本全国で使われる,標準的な話し言葉を見つけることが非常に難しいという点であった。逆に古典的な文体であれば,全国どこでも同じである。しかし,古典的な文体は話し言葉よりも難しく,わたしとしては避けたかった。それでも,現時点で全国的に通用する話し言葉がない以上,この国の東北部の方言で書かれた翻訳は南西部では役に立たず,その逆も然りである。わたしは,すべての翻訳を言文一致で書いてきたが,これに対する最大の反対意見はこの点であるようだ。東京の方言で話すわたしの言葉が,同じ国でも教育レベルの低い別の場所では完全には理解されないとは考えもしなかった。『文章体』として知られる古典的な文体の動詞には,通常の会話で聞くことのない難しい語尾があり,文字を読まずに聞くだけの人にとっては難解であることは知っていたが,共通に理解され,全国標準であるべき話し言葉がないのであれば,さらに熟考と調査を重ねたうえで,自分の翻訳を『文章体』に改変しなければならないかもしれない。慎重に言葉を選んだ,質の良い『言文一致体』ならどこでも理解してもらえるという人もいる。しかし,すべての方言に精通し,万民が理解できる言葉や動詞の語尾を知ることのできる人が果たしているのだろうか,いたとしても,わたしの翻訳の論評に時間と労力をかけてくれるだろうか。そんな難題も待っているのである。」

テーラー長老は,ほかの宣教師たちと協議を重ねた。それは,今までの作業を無駄にするようにも思えたため,宣教師たちの心を動揺させるものだった。

1907年8月21日(水)東京

「モルモン書をどんな文体で書くべきかという大きくて重要な問題について話し合う。兄弟たちの気持ちは何となく落ち着かず,完全には問題に集中できていないようである。それでも,方向としては,極めて簡潔な文章体でという雰囲気になってきている。」

そして,ついに,テーラー長老たちは,決断をする。

1907年8月25日(日)東京

「夕食の後,どの文体でモルモン書の翻訳を修正するかについて話し合いを持った。兄弟たちの気持ちは,これまでにないほど強く文章体へと傾いた。」

モルモン書の翻訳を終えたことを喜んだ日から約1年半後,翻訳された原稿を文語体へ書き改めることが決められた。格調高い文体でモルモン書を著すという困難な道に踏み出したテーラー長老。来日してから7回目の夏が終わろうとしていた。◆