リアホナ2009年4月号 神殿──すべての人のために100歳と93歳の神殿参入

神殿──すべての人のために100歳と93歳の神殿参入

稲垣高義・数子ご夫妻(武蔵野ステークひばりケ丘ワード)

1909(明治42)年,日本最初の宣教師の一人アルマ・O・テーラー長老らによって日本語の『モルモン経』初版が発刊された年に,徳島県で生を享けた稲垣高義兄弟。戦後の東京で紳士服の仕立て屋を営んでいたとき,当時20代そこそこの宣教師である福田真長老の訪問を受けた。牧師や神父といえば40代,50代以上の人生経験豊かな人がありがたいお話をしてくれるものという先入観があり,最初は若い福田長老から話を聞きたい気持ちがあまりなかった,と稲垣数子姉妹は当時を振り返る。しかし福田長老の話したことはほんとうにすばらしいものだった。1958年6月,まず数子姉妹がバプテスマを受ける。その1か月後に稲垣兄弟も改宗し,ほどなくして東京北支部(現在の中野ワード)の支部会長に召されたのであった。稲垣会長が管理し,ご夫妻で何かと世話をした東京北支部の会員の中には大学生の中野正之兄弟がいた。後に福田長老が日本東京神殿の第10代神殿会長に,中野兄弟が第11代神殿会長に召されるとは当時だれも想像していなかった。

半世紀余りの時を稲垣ご夫妻は主に忠実に歩んできた。1980年に東京神殿が奉献されると,まず儀式執行者に召され,1983年には結び固め執行者に召される。稲垣兄弟は仕立て職人の腕を振るい,奉献当時,東京神殿で貸し出されていた神殿着の白いスラックスのほとんどを縫製したほか,儀式執行者のために一人一人採寸し,白いスーツの上下を仕立てた。縫製は奉仕として布地代しか受け取らず,手がけた一着一着について,「この神殿着を通して皆さんが祝福を受けるように」と祈りをささげてから納品したという。手縫いでしっかり作られているので,今でも神殿で稲垣兄弟のスーツを愛用している人は多い。

年齢が進み,仕事の一線を退いてからも,東京神殿の儀式執行者としてたゆまぬ奉仕を続けた稲垣兄弟であった。20年間にわたり,毎週土曜日に甲高い声で結び固めを執行する稲垣兄弟の姿が印象的でした,と前神殿会長の福田真兄弟は語る。95歳を越えたころ,

ワードの会員の求めにこたえ,神殿用スーツの上下を仕立てた。「確か自宅に生地が1着分だけ残ってるから,じゃあ作ってあげるよ。これが家にある白い生地の最後だから。もうほかの人に作ることできないからね。」稲垣兄弟は変わらぬ手つきで採寸し,1着の白いスーツを仕立て上げた。その後ほどなく自宅で寝たきりの生活となり,神殿に赴くことはできなくなる。

東京神殿まで電車なら片道1時間ほどのところに住む数子姉妹だったが,裕福とは言えない暮らし向きのため,高齢者パスを使えるバスを何度も乗り継ぎ,3時間もかけて通っていた。年齢とともに回数は減ったものの,歩行補助車につかまり独りで神殿へ行く日を重ねていた。稲垣兄弟は,一時は生死の境をさまよったこともあったが,離れて暮らす娘さんの援助によって昨年から介護施設に入所でき,徐々に健康状態は持ち直してきた。目はほとんど見えず,左耳も聞こえなくなっていた稲垣兄弟だったが,もう一度夫婦で神殿に参入するのは数子姉妹のたっての願いだった。

稲垣兄弟に「最後のスーツ」を作ってもらったのは,現在,武蔵野ステーク会長会第一顧問を務める齋藤博昭会長である。2008年の暮れも迫ったころ,数子姉妹の神殿参入に同行したワード扶助協会会長の鈴木美和子姉妹と齋藤会長は,稲垣兄弟の体調が上向いていることを数子姉妹に伺い,100歳の誕生日にご夫婦で神殿に参入できないかを話し合った。それにはクリアしなければらない幾つかのハードルがある。まず,入所している施設の医師と施設長の許可,そして娘さんをはじめとするご家族の許可を得なければならない。冬場のことで,風邪など引かせないよう細心の注意が必要だった。齋藤会長は施設側と話して一つ一つの条件を整えた。ひばりケ丘ワードの永田ビショップはご家族の承諾を取り付ける。大祭司グループの鈴木和夫兄弟は当日,支援してくれる会員たちを募った。鈴木姉妹,齋藤姉妹は,誕生祝いを兼ねた当日のお弁当を準備し,大祭司定員会でお祝いの色紙を書く。ワードを挙げてお二人の神殿参入を後押しすることとなった。あとは稲垣兄弟本人の気持ち次第であったが,数子姉妹は独特の語り口とユーモアでこう振り返る。「『一緒に神殿に入りましょう』と言うと兄弟は,『体中が痛くて頭も真っ白で,何も分からないし,何より皆さんに迷惑がかかるから難しい』と答えたので,『それじゃあ離婚です。わたしなんかどれだけワードの皆さんにご迷惑をかけているか知れません。時にはご好意に甘えることも必要なんですよ』って話したんです。」齋藤会長が右の耳元で「何も心配することはありませんよ」と話しかけ,ようやく心を決めたのだった。

一方,福田真兄弟は,かつて東京北支部で稲垣ご夫妻の養いを受けたゆかりの会員たちと連絡を取った。当日はたくさんの会員が駆け付け,稲垣兄弟の100歳を祝うとともに同窓会のにぎわいを見せた。中野神殿会長は,神殿のストレッチャー付き車いすを稲垣兄弟の移動のために貸し出し,神殿の1階に,ご夫妻の着替えと食事のための部屋を準備するなど細かな配慮をもって受け入れ態勢を整えた。

介護ホームの稲垣兄弟の部屋には1着のおしゃれなスーツがかけてあった。それはかつて兄弟みずから縫製したもので,一緒に神殿に行くときに着てもらおうと数子姉妹が準備していたものだった。

2009年1月24日午後2時,稲垣ご夫妻のための特別セッションが始まる。エンダウメントの部屋には80人ほどの参入者が詰めかけ,お二人とともに儀式に臨んだ。司式者は福田真兄弟である。儀式の間はほとんど身じろぎもしなかった稲垣兄弟であったが,祈りをささげるとき,儀式の進行に従って手を動かしているのが分かって齋藤会長は驚いた。「かすかに聞こえる右の耳で,(儀式の言葉を)聞いて,今まで動かなかった彼が手を動かしているんですよ。その姿を見たとき,ああ,長く神殿で奉仕してきた人が,儀式の仕方を忘れることなくずっと覚えているんだ,と……。福田兄弟が祈りを終わると,参入された方々の中に涙を流した人が何人もいましたし,わたしもその一人でした。わたしが神殿に入って初めての経験でした。ほんとうにすばらしい,霊的な経験をさせていただきましたね。」

稲垣ご夫妻は日の栄えの部屋で皆と旧交を温め,その後,結び固めの部屋でも身代わりとして儀式に臨んだ。数子姉妹が兄弟の手を取り,ストレッチャー付き車いすから伸ばす兄弟の腕を皆で支える。それはまるでモーセがイスラエルの戦いに臨んで挙げている手を,アロンとホルが支えているかのようだった,と齋藤会長は振り返る(出エジプト17:8-16参照)。

「稲垣姉妹はもうほんとうに子供のような笑顔で喜んでいました。稲垣兄弟も,目を,見えているかは分かりませんけどぱっと見開いて,ほんとうにうれしそうな顔をされていました。帰りの車の中で稲垣兄弟は,声を大きくして,『これでおれはいつ召されても大丈夫だ!』って元気よくおっしゃったので,びっくりして皆で笑いました。ほんとうに報われたなあ,という思いがしました。」(齋藤会長)◆