リアホナ2009年4月号 アルマ・O・テーラーのモルモン書翻訳日記4

アルマ・O・テーラーのモルモン書翻訳日記4

モルモン書翻訳が始められた地,千葉伝道の拠点を千葉に移したアルマ・O・テーラー長老は,伝道活動のかたわら,モルモン書の翻訳を始めた。千葉での伝道の成功を願っていたテーラー長老の日記には,度々「林の中で祈りをささげた」という記述が残っている。東京の本部から戻ったとき,他の宣教師の訪問を受けたとき,翻訳を始めるとき,ことあるごとに,旅館の近くの林へ出かけて祈りをささげた。宣教師として働くために,御霊の導きがなければ何もできないとテーラー長老は感じていた。

1904年1月18日(月)東京/千葉

「夕方,モルモン書の翻訳に取り掛かった。始めはタイトルページからだ。主の祝福と主の御霊の確認を受けながら,速やかに,正確にこの業を進めていけるよう願っている。」

この日にモルモン書の翻訳は千葉で開始されたが,翻訳に集中し,穏やかな気持ちを感じ続けることの難しさも味わうこととなった。翻訳と伝道の二つを同時に行うことは想像以上に困難なことだった。千葉の自然と人々に魅了されたテーラー長老だったが,いざ伝道を開始すると,福音を伝えることはそれほど簡単ではなかった。千葉で行われた最初の集会は旅館で開催された。しかし,悪天候も影響し,参加者はほとんど集まらなかった。

1904年1月22日(金)千葉

「帰ると夕食を済ませ,訪問が予想される人たちを迎えるために,部屋の用意をした。7時になったがだれも来ない。きっと強風のため外出しようという気になれないのだろう。千葉で集会を開くための最初の試みは成功せず,わたしたちは大いに失望した。せめて通りがかりの人たちが来ないかと思い,できるかぎり大きな声で歌を歌って注意を引こうとした。しかし,声をかける人を見つけるこの方法も役立たなかった。8時ごろには旅館の宿泊客はすべて入り,しばらくすると梅松旅館の客が数人,夜を過ごすためにやって来た。全員合わせても12人以上はいなかった。8時10分,賛美歌の『感謝を神に捧げん』を歌う。わたしが祈りをささげた。『今朝起きいずるその前に,祈ることをば覚えしか』を歌う。ストーカー長老が10分ほど話をしたあと,彼がハーモニカで吹く『ホーム・スイート・ホーム』のメロディーに合わせてわたしが『煩い多き世の中にも』を歌った。」

その後,何人かが質問をし,話し合いが行われたが,福音を伝えるような話とはかけ離れたものだった。日々の生活で感じる失意や落胆は,御霊の導きを受けて翻訳へ集中することの難しさをテーラー長老に教えてくれた。当時,千葉で伝道していた宣教師たちは,福音を伝える会場として,地元の有力者の民家を借りることがあった。しかし,地元の宗教関係者から反対されることもあり,話し合いの結果,キリスト教の教えを中心とするのではなく,「歌を中心としながら合間に話をする」形で折り合いを付けることになった。そのため,本来の厳かな雰囲気は期待できなかったが,その反面,多くの人や子供たちが出席する機会に恵まれた。

1904年2月6日(土)千葉

「都村へ行き,集会場所へはちょうど午後5時に着いた。指定の時間に来たのは3人だけだったが,1時間後には大人が80人と40人かそれ以上の子供たちが集まった。この聴衆たちと集会を始めた。あんなに落ち着きのない会衆の前に立ったことはなかった。約50分間,わたしは彼らをできる限り静かにさせることができた。ジャービス兄弟が30分話をした。タバコを吸わないようにというわたしたちの要求に対しては,まったく驚いていた。……わたしが話をしているときには,少々酒を飲みすぎた男性に中断された。静かにしてもらおうとすると,彼は部屋を出て行った。外が騒がしくなり,ジャービス兄弟が外に出て,騒ぎを静めなければならないほどだった。ジャービス兄弟が話していると,人々の間をかき分けながら出てきた家主が彼にお湯を1杯差し出し,わたしにも1杯くれた。また,お茶とお菓子を載せた盆を持って来て人々に回した。彼らはタバコを吸うために常に出たり入ったりした。1時間半でも,タバコを我慢できないのだ。全体としてわたしたちの努力は祝福されたと感じた。神をほめたたえよう。」

宣教師の伝道活動は千葉の中心部から,近隣の村や館山へも広がっていった。館山では蒸気船によって東京湾を横切って訪れる他のキリスト教関係者も活発に伝道を始めていた。それに伴い,若い宣教師たちの積極的な伝道活動を快く思わない人も増えていった。復活祭を間近に控えたころ,白浜で働くケイン長老のもとに1通の無記名の手紙が届いた。

1904年4月2日(土)千葉/東京

「曇り。暖かい。6時45分起床。矢作に行き,その村で午後2時まで伝道した。旅館に戻り,3時5分の列車で東京へ帰る支度をする。本部ではすべて順調なことを知るが,ケイン長老が独りで働いている白浜の状態には驚かされた。明らかにその土地の仏教徒たちが,活発に活動する一人のキリスト教説教師の存在に戦々恐々としているのだ。それに,ケイン兄弟がやって来るまで外国人など見たことがなかったであろう,無知でだまされやすい人々をあおることなど簡単だということを彼らは分かっている。外国での戦争が続いている今,白浜のような片田舎の人々は,僧侶がでっちあげれば,どんなうそも信じてしまうことだろう。3月29日には,ケイン長老の宿の女家主のもとに署名のない手紙(脅迫状)が届いていた。

『貴下において近ごろ耶蘇教を引き込み,大切にしておる由聞き及び,いかにも心得違いに候。日本国の規則に背く宗旨なり。よって早速追い払うべし。もし長く置くときはお前様の家を焼き払いまた耶蘇教を打ち殺してしまうゆえ覚悟をしておるべし候。二三日のうちに追い払わないときは来きたる旧の二十日までのうち折を見て火をつけ,耶蘇教もきっと殺すから承知しろ。』

『ずいぶん過激だな』とケイン長老は言うが,彼はこの地から引き揚げるつもりはないだろう。この件はすぐに警察に任せたが,ケイン兄弟も何か騒動が起きた場合,家主の家に迷惑がかかることは望まないので,大家に,なぜ移るのか十分理由を説明したうえで旅館に移った。これはわたしたちに向けられた初めての激しい憎悪の表れで,長老たちに対する唯一の脅しだ。変化はけっこうなことだと思われるが,わたしたちの兄弟である彼の安全を熱心に祈っている。恐らくこれは,将来この地域で成功するという良いしるしだろう。心の正直な人々が注意を向け,真理に改宗することを願っている。明日は復活祭の日曜日なので,夕方からは日曜学校の子供たちのために95個の卵に色を塗った。」

いくつかの嫌がらせを受けることもあったが,若い宣教師たちは決してひるむことはなかった。そのような出来事は,むしろ彼らの気持ちを奮い立たせることにつながった。さらに,テーラー長老たちの気持ちを和ませてくれたのは,多くの子供たちが集会に出席するようになったことだった。子供たちは宣教師を信頼し,子供たちの家族も宣教師の理解者となっていった。

モルモン書の翻訳は,最初,テーラー長老が独りで行っていたわけではない。エンサイン伝道部会長の提案によって,複数の宣教師が同時に翻訳を進めていた。

「午後,ケイン長老とわたしは,ニーファイ第一書第1章の翻訳の脚注を比較した。

ケイン長老は4つの章を訳した。」(1904年3月5日)そのため,翻訳の調整には時間

を要したが,若い宣教師たちは,将来,モルモン書を日本語で読む日本人のことを夢見ながら,喜んで奉仕した。その翻訳に期待していたのは,宣教師だけではなかった。日記には,日本人として最初の改宗者とも言われている勝沼富造が,モルモン書の翻訳のために寄付をしたことが記されている。

1904年4月9日(土)千葉/東京

「ハワイの勝沼兄弟が4日の月曜日にエンサイン会長を訪ねて来ていたことを本部に帰って知った。勝沼兄弟は日本人として教会員となった世界で最初の人である。彼は何年も前にユタで改宗した。アメリカの市民権を得て,現在はハワイで公務員をしている。1か月の休暇をもらい,日本で友人や親戚を訪問中だ。彼はまず,『モルモン』を探し出し,彼らがこれまでに成し遂げたことや現在の様子を喜んでいるようだ。何曲かの末日聖徒の賛美歌が母国語に翻訳されていることを知って喜び,今後の翻訳に役立ててほしいと本部秘書に10円を渡していった。」

福音のすべてを日本語で享受できるようにという願いは,着実に実現へと向かい,儀式の言葉も少しずつ日本語へ置き換えられていった。そして,1904年5月に東京の本部で行われた聖餐会は,参加者にとって特別なものだった。

1904年5月29日(日)東京

「聖餐会では,ケイン長老が日本語の翻訳を使ってパンの祝福を行った。エンサイン会長も日本語の翻訳で水を祝福した。これは,主の晩餐を日本語で執り行った最初であった。」

日本語の賛美歌が歌われ,日本語で祈りがささげられ,日本語でバプテスマの儀式と聖餐式が行われるようになった。日本人がイエス・キリストの贖いとバプテスマの聖約に思いを向けることができるようになり,宣教師たちの,モルモン書の翻訳への情熱はさらに膨らんでいった。◆