リアホナ2008年9月号 100年の時を経て子孫を助ける先祖の日記

100年の時を経て子孫を助ける先祖の日記

家族歴史の力を感じて伝道する宣教師

──デビン・バルク・テーラー長老(日本東京伝道部専任宣教師)

──デビン・バルク・テーラー長老(日本東京伝道部専任宣教師)

1901年(明治38年)8月12日。ヒーバー・J・グラントをはじめとする最初の4人の宣教師が日本の伝道を開くべく横浜へと到着した。その中で最も若かったアルマ・O・テーラー(船上で19歳の誕生日を迎えた)は,エンプレス・オブ・インディア号から横浜を見渡し,日本との最初の出会いの印象を日記に綴つづった。「朝,目を覚ましたとき,わたしたちの船は日本の海岸線に沿って航海していた。多くの舟が浮かび,一つの舟には3人から9人の漁師が乗っていた。彼らは力強く投網をしていた。」横浜に接岸したのは午前10時。宣教師訓練センターなど何もなかった時代のこと,日本語を話せなかったアルマ・O・テーラーは,その後9年間も日本に滞在し,自分がモルモン書を翻訳する重責を受けることなど想像することもなく,日本への第一歩を踏み出したのだった。

アルマ・O・テーラーが来日してからちょうど107年の時を経た2008年8月12日午前10時,日本で奉仕する一人の宣教師が,アルマ・O・テーラーが到着した横浜の大桟橋に立っていた。デビン・バルク・テーラー長老。ユタ州オグデンから来日し,東京伝道部で専任宣教師としての召しを果たしている。「1901年に来日したアルマ・O・テーラーは,わたしの曾祖父の兄に当たります」そう語るテーラー長老は20歳。日本での生活も1年が過ぎた。

「日本への召しを受けたときに叔母からアルマ・O・テーラーが書いた日記をもらいました。叔母からたくさんの写真ももらいましたし,彼がモルモン書の翻訳をしていたときの経験についても聞かされました。彼はモルモン書の翻訳をしながら,霊感を受けて記録を記した昔の預言者と同じような気持ちを感じていたそうです。」

宣教師として日本へ召されたことはとても大きな喜びだと語る。「わたしは8人きょうだいで,男は7人です。4人の兄たちはすべて伝道へ行きました。高校生と中学生の弟も伝道の準備をしています。父はフィリピンで伝道しました。しかし,日本へ召されたのは家族の中でわたしだけです。日本へ召されることを願っていましたが,ほんとうに来られるとは思いませんでした。しかも,アルマ・O・テーラーが伝道した場所がある伝道部へ召されたのはすごくうれしいことです。」

現在ゾーンリーダーとして働くテーラー長老は,特別にヒル伝道部会長の許可を受けて,アルマ・O・テーラーが到着した場所をこの日初めて訪れた。「アルマ・O・テーラーがいた場所へ来ることは想像していませんでした。伝道へ召されてから1年がたちましたので,できればいつか横浜で宣教師として働きたいと思っています。実現するか分かりませんが,いつか……。」

埼玉県さいたま市浦和で働くテーラー長老は道行く人に福音のメッセージを紹介するとき,いつも1枚の写真を見せる。その写真は,1901年9月1日に日本の国を奉献した場所(鷺山)に最初の4人の宣教師が立っているものだ。その写真を見せながら日本とのつながりについて説明する。「古い写真を見せると,日本人は先祖とのつながりを感じてくれます。この写真に写っている人はだれですかと尋ねられるので,わたしとの関係を説明します。わたしは日本へ来る前,ステーク会長から宣教師への任命を受けました。その任命の儀式の中で『あなたの先祖やすでにこの地上を去った人たちが,あなたの伝道に強い関心を持っています』と語られました。わたしはこの写真を見るたびに,それを強く感じます。だから,いつもこの写真を持ちながら伝道しています。」

日記には力がある

日本語を学ぶことはそれほど簡単なことではない。テーラー長老もほかの宣教師同様,毎日勉強し,幾つかの単語を書き取ったノートを持ち歩きながらその努力を怠らない。「わたしの同僚は日本語が上手なので,彼と同じくらい日本語が上手になりたい」とほほえむ。「アルマ・O・テーラーが宣教師に召されたときには,宣教師訓練センターはありませんでしたが,彼は日本語を学ぶ特別な賜物を受けていたと思います。賜物を受けていても簡単なことではなかったはずです。日記の中には彼が日本語を学ぶ途中で,何度も迷っていたことが書かれています。ほんとうに自分の日本語が成長しているのか悩んでいました。そのようなとき,彼は学び始めた最初のころの自分を振り返って,神様の祝福を受けて上達してきていると確信していました。そのようにしてチャレンジを乗り越えていきました。」

日記には特別な力があるとテーラー長老は話す。特に自分の先祖の記録は大きな影響力を持つという。「わたしは日々の生活の中で,自分と同じ日に,アルマ・O・テーラーが宣教師として何をしていたのかを読むことがあります。彼がバプテスマを施した日の記録を読み,その場所が自分の伝道する場所の近くにあったことを知って,とても興味がわいたこともありました。彼がいつも和食を食べていたことや,和食が苦手だったヒーバー・J・グラントへ冗談まじりに勧めていたこと,一緒に働いていたエンサイン長老とよく歌を歌ったこと,この時代で最も長い年月を宣教師として過ごした人であったこと,帰国する前に韓国と中国へ行って伝道ができるか調べたことなど。日常生活の記録から彼のことを感じることができました。わたしも1年間伝道してきた中で,何度も自分の状態を振り返って,自分が成長しているのを確かめながら歩んできました。彼らが神様の助けを受けてきたことを日記で読みますと,わたしたちも同じように神様の助けを得られると思います。日記にはそのような力があります。」

アルマ・O・テーラーの日記には日本での経験が詳細に記されている。それは,テーラー長老の伝道生活を鼓舞するだけではなく,日本の教会員にとっても貴重な記録であり財産となっている。その一例として,1903年12月20日,日本人の女性としては最初の改宗者だった波木井波がバプテスマを受けたことが記されている。聖霊の賜物を授けるための按手礼をアルマ・O・テーラーは日本語で行ったと書き,それがこの末日において,初めて日本語で行われた儀式であることが伝えられている。

世代を越えて伝わるもの

テーラー長老の家族にとって日記を付けることには特別な思い入れがある。「わたしの母はいつも子供たちに日記の大切さを教えました。わたしたちは毎日書くように言われていました。時には書きたくないこともありましたが,母は熱心にわたしたちに日記をつけさせました。その影響もあって,わたしは宣教師として毎日の日記をつけています。先祖のことをよく知っていれば,わたしたちも今の自分が存在する理由をもっと理解できます。アルマ・O・テーラーが悩んでいたことを日記から知ることができますし,彼がどうやってチャレンジを乗り越えたかを知ることができます。日記はたくさんのことを教えてくれます。」

「わたしたちはできないと思ったら,その時点で自分の限界を設定しています。自分で限界を作ってしまえば,絶対にできないと思います。また,伝道の成功は宣教師の態度で決まってしまうと思います。わたしたちの成功はわたしたちの態度で決まってしまうのです。」

最近,テーラー長老は日本語のモルモン書を読み終え,今は日本語の新約聖書を読み始めている。同僚と口をそろえるようにして「かなり難しい」と言うが,それでも地道に続けている。「必ずできますから」と宣教師としての顔を輝かせる。テーラー長老は伝道でも人生でも,どんなに難しいことに出会っても「必ずできる」と信じている。

日本へ到着した8月12日の日記でアルマ・O・テーラーは,夕食後にホテルのベランダに腰かけ独りで港を眺めたことを記している。港周辺で休むことなく力強く働き続ける日本人の姿に驚き,故郷アメリカの文化との違いを感じつつ,尊敬のまなざしをもって見つめていた。その日の日記の最後に自分のことを「奇妙な国の奇妙な訪問者」と記す。その後,何千人もの宣教師がこの「奇妙な国」日本を訪れ,時に「奇妙な訪問者」として,アルマ・O・テーラーと同じように人生の大切な時期を神にささげることになる。そのとき彼は,その一群の宣教師の中に自分とつながる子孫がいて,100年以上の時を隔てて自分に思いを馳 せることになろうとは,まだ,想像もしていなかったであろう。◆