リアホナ2008年6月号 次世代へ手渡すことば

次世代へ手渡すことば

 日本の教会の黎明期を担った開拓者から後に続く世代へ贈られる言葉

●第②回  今井一男兄弟

●1952年,日本人で6人目の専任宣教師となる。

1956年には東京第一支部の支部会長,

1960年には日本人として最初の地方部会長に召される。

「子供のころから漠然と神様の存在を信じていました。神棚と仏壇に毎朝手を合わせる生活をしていました。」宗教的な環境の中で育てられてきたという今井一男兄弟が最初に宣教師に出会ったのは1948年12月。年の瀬も押し迫ったころだった。「山手線の五反田駅から乗ったときに一人のアメリカ人が一緒に電車に乗ってきました。周りを見渡してからわたしの隣に座り,たどたどしい日本語で自分が宣教師であることを伝えてきました。最初は恐い外国人が話しかけてきたと思いました。」声をかけてきたのは,後に伝道部会長としても来日したポール・C・アンドラス長老。「わたしはかつては一パイロットとして戦争に参加致しましたが,今は宣教師として伝道のために日本に参っている者であります。高輪泉岳寺の中学の講堂を借りて日曜学校をしていますのでいらしてください」と今井兄弟を招待した。1945年に戦争が終わり,戦後の混沌とした中で伝道部が再開されたばかりの時期だった。五反田から渋谷までの10分ほどの間の会話は,今井兄弟に「わたしの行く末に関する重大なことが起こりました」と回想させるものになった。

初めて出席した集会ではクリスマスのプログラムが行われていた。「当時は日曜学校しかやっていませんでした。英会話に興味を持っている人もいましたが,わたしはむしろ教会歴史に興味を持って学び始めました。しかし,宣教師から個別にレッスンを受けることはありませんでした。」

1949年9月,宣教師から「今井さんはバプテスマを受けたいですか」と尋ねられ,9月17日にバプテスマを受けた。「当時は,わたしのように教会へ来はじめてから10か月ぐらいで受けるのは早い方だったと思います。普通は2~4年ぐらいかけてバプテスマを受けていましたし,教え方もゆっくりしていました。バプテスマについて母に相談しましたら,あなたの自由にしなさいと言われました。わたしは母からの影響で,神様がいると信じていました。実は,戦前に母はメイドをしていまして,そこのお嬢さんと一緒に数回,末日聖徒の教会へ行ったことがあると話していました。ですから,教会に入ることには反対されませんでした。」

バプテスマ後しばらくして,今井兄弟は神権を受けた。「聖餐会は月に1度だけ伝道本部で行われていました。祝福された聖餐の小さなパンを見たときに,アメリカ人も戦争のために貧乏になったのだなと思っていました。まだまだ深い意味も分からずに教会へ通っている時代でした。」

ダイヤモンドの経験

教会員となった今井兄弟には願っていることがあった。「伝道には特別な宗教的なことを学ぶ学校へ行っていなくても出られると聞きましたので,いつか宣教師になりたいと思っていました。」日曜学校の会長会や支部会長会へ召されることによって,だんだんと理解と証も強まってきたころだった。そして,時を同じくして,苦しい問題にも直面することとなった。「父が病気になってしまい,しばらく家で療養しなければなりませんでした。家族にとっては,経済的にも精神的にも苦しい状況でした。そのときにわたしは断食をして祈ることにしました。会社へ行っても断食をして祈っていました。すると,しばらくして父の病気が快方へと向かい始めたのです。」

一つの問題を断食と祈り,信仰によって乗り越えたとき,今度は大きな祝福が今井兄弟にもたらされた。「当時,支部会長をしていた高木冨五郎兄弟から,宣教師にならないかと尋ねられました。」今井兄弟は「わたしはお金はありません」と即答した。すると高木兄弟は「アメリカ人の会員が少しずつお金を出してくれて,その資金がたまったので伝道へ行くことができます」と話した。「もしできることならば,伝道のお手伝いをさせてくださいと1年前から祈っていましたので,すぐにお願いしました。」1952年11月3日にマース伝道部会長から任命され,今井兄弟は日本人として6番目に召された宣教師となった。

「家族からの反対はありませんでした。わたしは着の身着のままで出ましたら,それではかわいそうだということで,マース伝道部会長が三揃えのスーツを買ってくれました。それを着て任地へと旅立ちました。そのときは日本伝道部と呼ばれており,日本には一つの伝道部しかありませんでした。マース伝道部会長,ロバートソン伝道部会長の二人の指導の下で宣教師として働きました。マース会長は,まさにクリスチャンらしい温厚な方でした。ロバートソン会長は香港の伝道部会長でしたが,香港の伝道部が一時閉鎖することになり,日本の伝道部会長として来日された方でした。当時のアメリカ人宣教師は日本語を学ぶのに時間がかかるということで,3年間滞在しました。日本人は2年間でした。」

今井長老の最初の任地は広島。9か月間滞在した。次の任地は高崎。15か月間を高崎で過ごし,そこで2年間の宣教師生活を終えることとなった。

「わたしが宣教師のころは,街頭伝道でアメリカ人宣教師がみかん箱の上に立って話しかけることをよくやっていました。『街頭の皆さん! わたしたちは宣教師です!』と大きな声を出すんです。ただでさえ背の高いアメリカ人がみかん箱の上に立っていますから,さらに高くなります。アメリカ人を珍しがって,たくさんの人が集まってきました。集まった人たちには,わたしが日本語で話し始めるのです。よくこの方法を使っていました」と楽しげに笑う。

宣教師になった今井長老の最初の同僚はジェームス・C・ホーガン長老。「アイダホ出身の宣教師でした。彼はすでに亡くなりました。アメリカ人宣教師からは伝道方法だけではなく,福音についても学びました。日本語になっている書籍はほとんどありませんでしたから。日本語になっているものといえば,モルモン経と少しのパンフレットだけでした。ですから,わたしたちは読んで学ぶのではなく,聞いて学んでいました。」

今井兄弟が高崎での伝道を振り返るとき,思い出す一人の求道者がいる。「宣教師の言葉で『金の求道者』というのがありますが,わたしは『ダイヤモンドの求道者』に出会ったことがあります。週に2回ほど富岡という場所で伝道していました。そこで,戸別訪問をしたときに,歯医者さんを訪問したんです。女医さんでした。治療が終わったら話を聞きますので待ってくださいと言われました。その日は,だれにも相手にされていなかったので期待しました。」

しばらく待った後,宣教師であることを伝え,教会のことを話そうとした今井長老。しかし,その求道者は先に質問を投げかけた。「あなたの教会には預言者がいますか?」──「わたしはびっくりしました。『はい! います! 十二使徒もいます! 』と答えましたら,『あなたの教会はほんとうの教会のようですね』と言われました。信じない人が多い中で,こちらが言おうとすることを先に言われました。それから毎週伺うことになり,レッスンをしていますと,たくさんの質問が返ってきました。聖書についてはとても詳しかったので,答えながらわたしたちの勉強にもなりました。しばらくして彼女はモルモン経を買い,証を強めてきました。しかし,彼女のご主人は教会に反対し,何度もモルモン経を破いて燃やしました。そのたびに彼女はモルモン経を購入しました。そして,ついにわたしが伝道を終えた翌年にバプテスマの許可をご主人から頂くことができました。わたしはバプテスマ会へ招待され,彼女と娘さんにバプテスマを施すことができました。すばらしい経験でした。彼女は62歳ぐらいだったと思います。92歳で亡くなるまで,この教会が真実であるという証を持ち続けていました。」

宣教師となる祝福

宣教師としての2年間は,今井兄弟に大きな祝福をもたらしてくれた。「証が強まったのは伝道へ出てからです。ジョセフ・スミスが神様とお会いしたこと,神権が回復されたことなど,伝道へ出て,初めてその価値が分かりました。伝道へ行って数か月たってからハワイ出身のカナヘレ長老という宣教師がレッスンプランを作ってくれましたが,それまでは,それぞれの宣教師が自分たちで何を教えるか準備していました。しかし,何も材料はありませんでしたから,求道者の質問に答え,答えられなければ次回までに調べるということが繰り返されました。今と比べれば,遅々とした伝道だったかもしれませんが,それによって,わたしたちは多くのことを学び証を強めていきました。」

今は教会員としても恵まれた時代だと今井兄弟は語る。「わたしが伝道中に,伝道部会長からの面接というものはありませんでした。任地へ送られたらそのままでした。2年間一度も面接を受けた記憶はありません。ゾーン大会は3か月に1回ぐらいはありましたが,ゾーン大会では報告と証と経験の分かち合いという感じでした。互いに気持ちを高めあっていました。今はもっと準備されたものになっていると思いますし,視覚教材もたくさんあるので祝福されていると思います。日本人もアメリカ人もMTCなどありませんでしたから,直接,伝道地へ送られました。おはようという日本語も知らないで日本へ来るアメリカ人もいました。わたしは英語もよく分かりませんでしたから,日本語をまったく話せないアメリカ人とはコミュニケーションをとることもままならない感じでしたね。お互いに苦労して伝道していました。」

日本の教会歴史の中では開拓者の一人として,様々な責任を受けてきた今井兄弟。その信仰の基礎が確立されたのは,宣教師の時代の経験によるものだと話す。伝道について語るとき,いろいろな変化を経てきたが,一つだけ変わらないものがあるという。それは「伝道が簡単な場所などない」ということ。電車の中でアンドラス長老が語りかけたほんの一言が,今井兄弟の人生に大きな影響を与え,今井兄弟から多くの人々も同じように祝福を受ける結果となった。伝道が簡単な場所などない。しかし,神様の業はいつも簡単なことから始まるということも,今井兄弟の信仰の歴史から伺い知ることができる。◆