リアホナ2008年1月号信仰の風景 半世紀の時を経て成就する祝福

信仰の風景   半世紀の時を経て成就する祝福

越湖(旧姓高橋)寛子姉妹は,戦時中を千葉に疎開して過ごし,終戦後に東京の杉並区荻窪へ戻って来た。16歳のとき製菓会社へ入社し,そして1年ほどしたある日のこと。工場に入ると機械は動いていたが,点検のためか安全カバーが開いていた。そこに右手が巻き込まれて大けがをする。「そうして,わたしは障がい者になりました。」

そのうえ結核も患い,自宅で療養していた1955年ごろ,二人の宣教師の訪問を受けた。ブロードヘッド長老と同僚のワールベック長老であった。──元来,明るい性格の寛子姉妹も,このころは障がいや病気を抱えて「世の中,神も仏もないと思っていました」という。そんな寛子姉妹に若い宣教師のブロードヘッド長老は熱心に説いた。「人は,幸せになるためにこの世に生まれてきたのです!」と。

人生に新たな希望の光がともったように感じた。──1956年(昭和31年)12月2日,寛子姉妹はバプテスマを受ける。施してくれたのはブロードヘッド長老であった。

越湖一郎兄弟は富山県魚津市の出身である。3歳のとき小児まひにかかり,右足が不自由になった。それでも幼いころは野山を駆け回って遊んでいたという。やがて成長期にかかり,右足と左足のアンバランスが大きくなったため,補装具なしでは歩くことが困難になった。

一郎兄弟は手に職を付けるべく,1955年,18歳で上京し,訓練を受けた後,杉並区高円寺の印判店へ住み込みで働きながら職人としての修行を始める。店では印判を彫るだけではなく,表札を書いたり,賞状や商店の品書きを書いたりする筆耕も請け負っていた。「最初はなかなかうまく書けませんでした。書いた表札が使い物にならないと返されたこともありました」と一郎兄弟は振り返る。

まじめで実直な性格の一郎兄弟は,一日の店の仕事が終わり,食事や風呂を済ませた午後11時ごろから,毎日3枚の書を書くことを日課とした。「おかげで宵っ張りになりました」と笑うが,住み込みで修行した7年半の間これを続けるうち,めきめきと腕は上がり,信頼して仕事を任されるようになった。「ある医院の待合室に張ってある文字が全部わたしの字なんてこともありました。未亡人の女将さんが経営する小さな店でしたが,後に有限会社となり,専務の肩書きを頂きました。」一郎兄弟は東京オリンピックが開催された1964年の4月1日,独立して北区赤羽に店舗を構えた。

身体に障がいを持つ若い人の集まり「あすなろ会」で一郎兄弟と出会っていた寛子姉妹も開店準備を手伝い,翌月の5月2日に二人は結婚式を挙げた。日本で2番目に建築された東京西支部(吉祥寺)の教会堂で初めて結婚したカップルだった。

くつろげる家庭をつくる

一郎兄弟は教会員ではなかったが,交際中に寛子姉妹からよく教会のことは聞いており,結婚後に姉妹が教会に集うことにも理解を示していた。しかし独立開業間もない印判店を立ち行かせるのは並大抵のことではなかった。高度経済成長期の日本にあっては日曜に休む商店などなく,月に2度ほど日曜に店を閉めるのも贅沢と言われた時代だった。開業1年後,一郎兄弟は一念発起し,東京で唯一ノークラッチ車を持っていた教習所に通って練習し,車の免許を取った。路上教習はなく,免許取得後に初めて路上で運転した。「怖かったですねえ,免許を返納しようかとも思いました」と一郎兄弟は笑う。左足だけで運転できるよう改造した車も,陸運局に認めてもらうために設計図をはじめ多くの申請書類が必要だった。それでも「足」を得たことで,印判の営業や納品も車で回れるようになり,商売は順調に伸びていった。日曜日には寛子姉妹を車で教会へ送ってくれ,やがて生まれた3人の子供たちとともに度々家族で教会へ集った。

結婚当初,「多分,2,3年後には夫は改宗してくれるのではないかと期待していました」という寛子姉妹。しかし残念ながら家族で教会へ通うのは長続きしなかった。子供たちは一郎兄弟が面倒を見て,寛子姉妹一人で教会に通う日々が続いた。それでも扶助協会の教師に召された寛子姉妹が,レッスンの要点を黒板に張り出せるように書いてほしいと頼むと,立派な毛筆で分かりやすい大きな字を何枚でも書いて協力してくれた。「(手が不自由なので)字が黒板に書けないわけではないのですが,時間がかかるものですから。おかげでとても助かりました」と寛子姉妹は言う。

「しばらく一緒に暮らしているうちに,夫は,押し付けがましくされることを嫌うことが分かりましたので,教会のことや福音のことはほとんど話をしませんでした。わたしが教会員であることで堅苦しい思いをさせてはいけないと,いつも夫がくつろげる家庭であるように心掛けました。また,いつでも優しくしたいと思っていました。

今までに何回か経済的に困ったときがありました。そのとき,不思議に思わぬ収入があり,助けられました。そんなときわたしは夫にこのように言いました。あなたがいつもまじめに精いっぱい努力していることを神様はよく見ていてくださって助けてくださった。あなたは神様に愛されている幸せな人だ,と感謝を込めて話しました。夫として,父親として申し分ありませんが,いつになったら改宗するのかは見当もつきませんでした。」

一郎兄弟は自営業として,税金の申告なども細かい点まできわめて正直に行っていた。そればかりか,(身体に障がいがあるので),常々かかっていた病院の支払いに行政から援助を受けられるにもかかわらず,一切申請しようとはせず自分で払っていた。驚いた役所の人に尋ねられると,「おかげさまで自分で働いて税金を納められるうちは援助には頼りません」と答えたという。「さすがに今は年金に頼っていますが」と70歳を迎えた一郎兄弟は笑う。

寛子姉妹は一郎兄弟を評して,すべてを計画的に見通し,こうと決めたら揺らがない人,という。「自分にもしものことがあっても家族が困らないように」と寛子姉妹の分も保険や年金の手配をしてくれていた。一郎兄弟がしっかりしているので,寛子姉妹は,「すべてお父さんにお任せして。わたしは聖書の教えのとおり,今日の心配は今日一日で十分という性格ですから」と笑う。傍で見ていてもとても良いご夫婦で,ほのぼのとした気持ちにさせてくれる。

41年の時を隔てて

2005年,一郎兄弟は足腰の具合が悪くなり,とうとう引退することにした。41年間借りていた赤羽の店舗も閉め,すべてを処分し,借りたときと同じ空っぽの状態で貸店舗を返した。「自分の手で開店し,自分の手できっちり始末をつけられてよかった」と,いかにも一郎兄弟らしい幕引きであった。それまで長く東京北部の同業者組合の支部長を務め,業界のために国会議員にまで陳情に行ったりしてきたが,それも引退した。「言い訳めくかもしれませんが」と一郎兄弟は前置きし,自分の商売のみならずそうした公的な役職にあったことも,現役のうちに改宗しなかった理由の一端であったと語る。修業時代から数え,この道一筋50年の職人人生だった。

しかし,すべてのしがらみから解き放たれ,一郎兄弟は寛子姉妹と一緒に教会へ行くようになった。2005年の夏から宣教師が毎週のように訪問し,秋にはバプテスマの決心をしていた。健康のためと勧められ,たばこもすでに10年以上前からやめていた。「よく決心がつきましたね」という寛子姉妹に,「自分も年を取ったら夫婦で同じ信仰を持って暮らしたいと思っていたから」と話したという。

「少しずつ改宗の備えができていたのでしょう」と寛子姉妹は語るが,あまりにも順調にことが運ぶのにはただ驚くばかりだった。2005年12月4日,車いすにも対応した越谷ワードの教会堂で,一郎兄弟はバプテスマを受ける。結婚後2,3年で……と寛子姉妹が願っていた夫の改宗は,41年後にやってきた。「次の世でも一緒にいられるように……」と寛子姉妹がほほえんで話す東京神殿での結び固めを受けたのは,2007年6月9日のことだった。

幸せな人生

さかのぼって2006年7月。寛子姉妹はバプテスマを授けてくれたデビッド・R・ブロードヘッド長老と50年ぶりに再会した。ブロードヘッドご夫妻は地域広報ディレクターの召しを受けて日本に赴任していたのであった。二人は一郎兄弟の改宗をことのほか喜んでくれた。ともに神殿に参入し,ブロードヘッド姉妹の隣に座った寛子姉妹は,「実の姉妹のように感じられ,平安に満たされて感激しました」と振り返る。

後日,ブロードヘッド姉妹から寛子姉妹に手紙が届いた。「愛するあなたとともに時間を過ごせて,とても幸せでした……あなたの横に(神殿で)座ったとき,50年前のブロードヘッド長老が伝道に行くべきかどうか決断したときのことを思い出しました。そのとき,正しい選びができたことに心から感謝しています。天のお父様はわたしたちと家族にたくさんの祝福を注いでくださいました。最も大きな祝福は,あなたを見つけたことです。」

今では3人の子供と4人の孫に恵まれている越湖ご夫妻。朝から聖典を読む暮らしで,一郎兄弟は広報委員としてワード新聞作りに精を出し,「60歳から始めた」というパソコンに向かう。夕方には夫婦で孫を保育園へ迎えに行く。「『毎日が日曜日』でもなかなかのんびりはしていられません。それも幸せなことですが。」

「希望を持っていれば,いつかはかなう」── 50年の時を越えて,寛子姉妹はブロードヘッド長老の言葉を今,実感している。◆