リアホナ2008年1月号 次世代へ手渡すことば

次世代へ手渡すことば

日本の教会の黎明期を担った開拓者から後に続く世代へ贈られる言葉のバトン──

●第①回  吉沢敏郎兄弟・みどり姉妹

●九州で最初に組織された福岡支部の初代支部会長であり,初代福岡ステーク会長などを歴任。1982年から1985年まで岡山伝道部会長を務める。

吉沢敏郎兄弟が人生についての問題意識を持ち始めたのは10歳のときだった。「小学校の級長をしているときでした」と振り返る。「級長をしているときに先生から褒められることがありました。褒められているにもかかわらず,満足するような気持ちにはなれなかったのを覚えています。もっと内から沸き上がる喜びのようなものがあるのではないだろうか。できれば,それを感じてみたいと望んでいました。どうしたらよいか分かりませんでしたが。目の前の学校の勉強に追われながら,その気持ちは数十年続きました。」

吉沢兄弟には,真理を求める姿と山伏の修行する姿が重なって感じられることがあった。「修行する山伏が求めているのは神様なんだろうか。それならば,神様ってなんなのだろう」と思い続けていた。

やがて海兵隊の技術将校になった吉沢兄弟は,訓練に没頭する日々を送る。そして,1945年8月に終戦を迎えた。「戦争が終わって,日本の根幹がたたき潰された気分を味わった」と語る。根幹がたたき潰されたからこそ,「内から沸き上がる充実したもの」を欲する気持ちは強まった。真理の探究をやめることはできなかった。

国鉄(現在のJR)で働き,電化工事を完成するたびに達成感を感じることもあった。また,国鉄が謳っていた「大家族主義」に魅力を感じることもあった。しかし,「どんなに仕事に熱中しても充実した気持ちにはなれませんでした。仕事に専念しても人生への確信がなければ意味がないと思い,国鉄を辞めました。」その後,九州電力に入社し,九州には古来からの文化や伝統,神話があるので,そこに人生の活路を見いだせるのではないかと思い,探求を続けることとなった。

1951年の春にみどり姉妹と結婚した吉沢兄弟は,敗戦後の混沌とした状況が続く街頭で心を動かされる人物に出会った。それはアメリカから来日した宣教師だった。「わたしたちはみんな神様の子供だと伝えていました。戦争はしたけれども,みんな同じ兄弟姉妹なんだと話していました。戦争をしたアメリカにもこんな親しみを感じる人がいるのだと驚きま

した。非常に心が動かされました。戦争が終わって,これからどうしようかと日本人が迷っていた時代です。日本人の人生観が崩れていたときです。じゃあ,まずはこのアメリカ人が伝えているものを学んでみようと思いました。」

「モルモン経」を受け取った吉沢兄弟は,何が正しいのか懸命に探し求めた。「聞くだけでは納得できませんでした。体当たりです。学びながら迷うことはありませんでした。迷うよりも,行ける所まで行ってみようと。そして,ぶち当たってみようと。」

教会堂もなかったので,集会所は転々とした。学ぶ場所など吉沢兄弟にはあまり重要ではなかった。そして,内から沸き上がる喜びを感じた吉沢兄弟は1953年の春にバプテスマを受けた。小学校の級長のときに感じていた小さな疑問,心を満たすものをやっと見つけることができたのだった。

世の時間と永遠との関係

吉沢ご夫妻は今までに多くの責任を果たしてきた。福岡で最初のステーク会長に召され,その3年後に,定年退職を機に岡山伝道部会長(1982-1985年)としての召しも受けた。現在吉沢兄弟は祝福師としても奉仕している。そのような中にあって,二人が大切にしてきたことがある。それは喜んで犠牲を払うことと感謝の気持ちだ。みどり姉妹は神殿の建設に寄せて話す。「1975年にキンボール大管長がいらっしゃったときに,東京に神殿を建てるとの発表がありました。安息日にもかかわらず,集った会員の拍手が会場に響き,だれもが感謝しました。当時の会員は,成人も学生も神殿を建設するために多くの献金をしました。それぞれが応分の献金をし,建築資金をためるためにバザーを行うこともありました。みんな一所懸命でした。喜んで主のために犠牲を払いました。そして,福岡にも東京に次いで神殿を頂くこととなりました。これはとても大きな祝福でした。福岡神殿を建てるときには,東京神殿を建てたような犠牲を求められることはありませんでした。まったく金銭的な負担をすることはありませんでした。長い間,東京神殿の建設のために犠牲を払ったことを思い出します。若い方々はそのような苦労は知らないかもしれませんが,東京神殿のときに比べたら,簡単に頂いてしまった感じがします。何の負担もなく神様から頂いた神殿です。福岡の方々はこんなにも簡単に,こんなにも近くに神殿を頂いたのですから,その祝福を十分に感じていただきたいと思います。もし,その祝福を受けていない人がいるとしたら,ほんとうに残念です。」

吉沢兄弟も教会で奉仕するために仕事でも頑張ってきた。「仕事に追われていれば神殿に来ることはできません。仕事をしっかりとやらなければ神殿に来られません。仕事でリーダーシップを発揮できるような人でなければ,教会でも奉仕できない時代です。信仰と仕事は関係ないように考える人もいますが,非常に密接な関係にあります。良い教会員となるためにも,職場で影響力を持って,信仰を貫き通せるような立場にならなければなりません。世の中の仕事に流されてはなりません。余暇があったら神殿に行くということではいけません。余暇を作れる人にならなければなりません。この世での仕事は永遠には続きません。一時的なものです。幸福の源はどこにあるのか考えてください。永遠にわたって続くものは何でしょうか。教会員にとっては分かりきった話です。それでは,なぜそれができないのでしょうか。それを真剣に考えなければなりません。つまり,この世だけの仕事と永遠にわたって続く仕事との関係です」と熱く語る。

吉沢兄弟は「教会の若い人たちが誘惑の多い世の中で信仰を貫くのは簡単なことではない」と話す。「社会にはたくさんの誘惑があります。若い人たちは大変だと思います。一つは時間がないということです。だれもが時間に追われています。時間がないと信仰生活を保つのは難しくなります。」その話を聞きながらみどり姉妹は,吉沢兄弟はかつて「遅刻は背教の始まり」と言っていたとほほえむ。「昔から熱く語る人ですから」と言い添える。それに反論する吉沢兄弟。「遅刻するということは油断があるということです。早く行こうと思えば行けます。積極性がないから遅刻するわけです。ほんとうに真剣であれば遅刻なんてしません。だから背教の始まりと言っているわけです。その思いはまったく変わっていません。ヒンクレー大管長と会う約束があれば,それに遅れないようにしますよね。つまり遅刻するというのは,やる気がないということです。人から引っ張られているのでは駄目です。自分で前進しなければなりません。人から引っ張られている信仰というのはいつかは壊れてしまいます」と決して引かない。

原点へ─100歳のビジョン

85歳になる吉沢兄弟は福岡神殿で儀式執行者と結び固め執行者の責任を受け,福岡ステークの祝福師としても働いている。みどり姉妹は83歳。4年前に転倒したのが原因で思うように左手が挙がらないので,十分には神殿でも奉仕ができていないと感じている。それでも健康が続く限り,頑張って教会へも神殿へも行きたいと決心している。

吉沢兄弟には神殿奉仕以外にも,健康に対して気を配る理由がある。自分で考案した健康器具が「どれほどの効果があるのか実証しなければならないから」と笑う。「自分が90歳か100歳まで生きなければ実証できませんから。それまでやらなければ良いか悪いか分かりません。理屈はだれでも言えます。福音も同じです。大切なのは自分の人生や生き方を通じて実証することです。」

100歳になっても神殿で元気に奉仕する姿を想像する。「100歳になったときの教会を想像してみましょう。若い人たちが指導者になり,予想もつかない大きな変化が起きていると思います。聖典を読みますと,100歳とか150歳なんて当たり前じゃないですか。800歳とかもいたわけですから。何も新しい話ではありません。純粋に昔に戻るだけの話です。つまり原点に戻るということで,100歳とお伝えしています。諸々の複雑なものを単純化するには,原点に戻るというのが最良の方法なんです。原点に戻るというのは難しいことではありませんよ」と再び熱く語る吉沢兄弟。

そして後輩の教会員にメッセージを送るならば「一言だけです」と言う。その言葉は吉沢兄弟自身が実践してきた経験に基づくもの,心に沸き上がるものを求めて「ぶち当たれ!」だと語る。「原点をつかんで掘り下げる。そして,それを応用すればいいわけです。それだけは自覚していただきたいと思います。」力強く語っていた吉沢兄弟は,教会の後輩へのメッセージをゆっくりと噛みしめるように,感慨深く繰り返していた。◆