リアホナ2008年12月号 イスラエル通信5 最終回

イスラエル通信5 最終回

平和の君  ベツレヘムに降誕

平和の君  ベツレヘムに降誕

【ベツレヘムのクリスマス】

【ベツレヘムのクリスマス】

12月のイスラエルは気候的に雨季に入り,少し肌寒くなる。このころになると街のパン屋やスーパーにはサフガニア(イスラエルの伝統的ドーナツ)が並べられ,家庭では毎日ハヌカの蝋燭台(ハヌキヤ)に火を灯すなど,ハヌカの雰囲気が盛り上がってくるが,クリスマスの雰囲気を感じることはない。クリスマスの雰囲気は,イスラエル側であれば,ヤッホォやナザレなどのアラブ人の多く居住する地域か,パレスチナ西岸内のベツレヘムに行かなければ感じられない。

クリスマス・シーズンのベツレヘムは,世界中から熱心なクリスチャンが巡礼に訪れるため,生誕教会へと続く天使通りや周囲の街並みはネオンで美しく飾り付けられる。クリスマスツリーが店先を飾り,閉塞した状況にあっても街行く人々の顔には,イエス・キリストが誕生し,世界から巡礼客を呼び寄せる魅力を持つ町の市民であるという誇らしさからか,笑みと活気があふれる季節でもある。ベツレヘム市はパレスチナで最もクリスチャンの多い地域であるため,その歴史を尊重し,イスラム教徒の人口が多い現在でも,ベツレヘム市の市長はクリスチャンから選出するという取り決めが残っている。

生誕教会はギリシャ正教やカトリック等によって共同管理されているが,クリスマス・イブの礼拝は生誕教会内のカトリックの礼拝堂で実施されており,この映像が世界中に中継される。このクリスマス礼拝には各国要人も出席し,過去には故アラファト前PLO議長や現在のアッバースPA政府大統領も出席している。また,欧米からも多くの巡礼客が訪れるが,クリスマスの時期にはイスラエル側で出稼ぎ労働に従事しているフィリピン人の巡礼客が目立つ。礼拝堂の下に位置する,イエス・キリストが生まれたとされる洞穴には大勢の巡礼客が詰めかけるが,その生誕教会の入り口は,腰を屈めて,潜り抜ける際には頭をぶつけないように気をつけなければならないほど狭い。十字軍時代に再建されたころは大きい入り口であったが,その後,オスマン・トルコ時代に周辺の動物が教会内に侵入するのを防ぐために,現在のように狭くしたと言われている。注意して見ると厚い壁石には無数のくぼみが模様のように残っているが,それは2002年にパレスチナ人テロリストが生誕教会内で聖職者や観光客を人質に立て籠った際に,自治区内に侵攻してきたIDF(イスラエル国防軍)との銃撃戦の際にできたものだ。ベツレヘムの街中を注意深く観察すると,紛争の爪痕が多く残っていることが分かる。

【平和を考えさせる街ベツレヘム】

【平和を考えさせる街ベツレヘム】

ベツレヘムはエルサレムから距離にしてわずか10kmほど離れた丘陵地帯に位置するが,ベツレヘムを訪問するには多くの手間がかかる。ベツレヘム市はパレスチナ西岸にあり,パレスチナ自治区となっている。(注1)

エルサレムの旧市街ヤッフォ門からヘブロン通りを南に下ってユダヤ人街を抜け,車で10分も走るとベツレヘム市に入る手前で巨大なコンクリートの壁にぶつかる。(注2)

壁の手前で車は止められ,IDFによるセキュリティー・チェックを受けなければならない。外国人観光客は観光バスであれば通常は問題なくチェックを通過でるが,イスラエルナンバーを付けてパレスチナ自治区を走行することは危険すぎるため,イスラエル側で借りたレンタカーでは入域が制限される。通常,一般観光客がベツレヘムに入域する場合は,イスラエル・アラブ人が運転する観光バスを利用するか,壁手前のセキュリティー・チェック・ポイントまでイスラエル側のバスまたはタクシーを利用し,徒歩でセキュリティーを通過した後,パレスチナ側でセルビス(乗合いタクシー)またはタクシーを利用することになる(ユダヤ系イスラエル人のパレスチナ人自治区入域は安全面から禁止されている)。再びイスラエル側に戻る際のセキュリティー・チェックは更に厳しくなっており,イスラエル側にテロリストや爆発物を運んでいないか入念なチェックが行われるため,チェック・ポイントの手前では大渋滞が度々発生する。ちなみにこのチェック・ポイントは,ベツレヘム在住のパレスチナ人はイスラエル政府発行の特別な許可証がなければ通過できないため,ほとんどのパレスチナ人はエルサレムを訪れることもできない。無事に壁を越え,天使通りを生誕教会に向けて道なりに進む街並みの一角にパレスチナ難民キャンプがある。キャンプといっても昔と違ってテントを張っているわけではなく,周囲の街並みに完全に溶け込んでいるため,一般観光客は難民キャンプであることを知らずに通り過ぎてしまうほどだ。このキャンプ内に居住しているパレスチナ難民によれば,1947年の第1次中東戦争(イスラエル側では独立戦争と呼ぶ)の際に,現在のイスラエル領内から避難してきた難民が,その後戻れないまま,定住しているらしい。(注3)

ベツレヘムに限らず,一般的にテロリストは難民キャンプ出身者であることが多く,難民キャンプ内の経済的貧困に加え,イスラエルによって抑圧された閉塞感や絶望感が若者をテロへと駆り立てていると言われている。難民キャンプでは,友人や子供がIDFに撃たれて死亡したと語る人は少なからずいる。イスラエル政府は現在,中東和平問題を解決する意思を示しているが,安全保障の面から難民が帰還することを拒否しているため,難民の帰還を求めるパレスチナ側との見解の隔たりもあり,大きな課題となっている。

一方ユダヤ人は19世紀後半から,ローマ軍によるエルサレム神殿の破壊後2,000年来のディアスポラ(離散)を越えてパレスチナの地に戻って来た。ヨーロッパにおいて差別が続き,自分たちの国を持たない限り差別がなくなることはないと考えたユダヤ人のシオニズム運動(ユダヤ国家再建運動)によって移民の動きは本格化した。

ユダヤ人といっても,世界中から移民して来たため様々な人種で構成されている。一般的なユダヤ人のイメージは白人的なアシュケナジ(東欧系)だが,その他スファラディ,イエメン系,90年代に入ってからはロシア系の移民が増え,街頭にはロシア語があふれている。エチオピア系のユダヤ人は黒人であり,アジア系のユダヤ人(おもに中国系)もいる。

イスラエルには現在も,第2次世界大戦中のナチス・ドイツによるホロコーストを生き抜いた人々がいる。すでに多くが高齢者になっているが,ホロコースト生存者を招いてホロコーストの悲劇を語り継ぐ活動を行う高校もある。一見すると幸福そうなごく普通の老人が,アウシュビッツなどの収容所に入れられた際,腕に付けられた整理番号の刺青を見せながら,二度とあのような悲劇を繰り返してはいけないと,平和への想いを若い世代に伝えている。この悲劇を止めるために自分たちの国を建国したが,その際に発生した独立戦争(第1次中東戦争,パレスチナ側ではナクバ「大悲劇」と呼ぶ)や,その後の中東戦争により,現在まで難民が発生することとなっている。

イスラエルは1841年に,十二使徒のオーソン・ハイド長老によりオリブ山山頂で奉献された。ユダヤ人の苦難をわたしたちは聖典を通じて知りつつも,現実は想像以上に過酷だ。ユダヤ人がパレスチナの地に帰還するという主の御心が成就され,いつの日か苦難の後に平和が訪れることを願ってやまない。◆

(注1)パレスチナ自治区とは……パレスチナ西岸及びガザは1967年の第3次中東戦争の際に戦争に勝利したイスラエルに併合され,イスラエルの占領地となり,行政・警察権もイスラエル政府が完全に管理していた。1993年のオスロ合意に基づき,パレスチナ西岸及びガザの一部の都市及び地域はパレスチナ自治区として行政・警察をパレスチナ側に委ねられた。実際には委任の度合いに応じてA,B,Cの3段階に区分されている。

(注2)この壁は分離壁と呼ばれ,第2次インティファーダ(パレスチナ人の住民蜂起)の際のパレスチナ人による自爆テロの防止対策として2002年ごろから建設を始めたものだが,この分離壁のためにパレスチナ人がイスラエル領内に行くことが制限され,イスラエル企業等に勤務していた多くのパレスチナ人出稼ぎ労働者が職を失い,所得及び失業率が悪化し,パレスチナ経済が疲弊することになった。また,イスラエル領内に住む親戚(アラブ人)を訪問することも難しくなるなど問題も多く,国際裁判所では人権違反であると認定されている。しかし,イスラエル側によるとテロ件数は分離壁建設後,着実に減少していることを根拠に現在も建設を続けている。この他,分離壁の設置位置が1967年のパレスチナ西岸併合前のグリーンラインに大きく食い込んでいる点が問題視されている。

(注3)戦乱を避けるために避難したパレスチナ難民はパレスチナ西岸・及びガザ地区にとどまらず,ヨルダン・シリア・レバノン等の近隣アラブ諸国にも存在し,約250万人いると言われている。第1次中東戦争から60年たった現在,パレスチナ難民は近隣アラブ諸国にとっても同じアラブ人なのだから,避難した国の国民として,何不自由なく援助を受けているのだろうと思われがちだが,レバノン・シリアなどのパレスチナ難民は,医療や教育環境もレバノン・シリア国民と比べてはるかに劣る狭いキャンプに居住させられるうえ,結婚や就職も制限され,いまだ国籍ももらえず曖昧な立場に立たされている。時の権力勢力の意向により,イスラエルや抵抗部族に対抗する勢力として利用されるなど弱い立場にある。