リアホナ2008年8月号 わたしの原点宣教師のころ7

わたしの原点宣教師のころ7

社会の様々な分野で活躍する帰還宣教師に,その人生の原点を尋ねるシリーズです。

「自信のない宣教師」から「証をするビジネスマン」へ

香港在住の国際ビジネスマン──鈴木武徳兄弟 中国香港地方部ディスカバリーベイ支部

香港島からフェリーで30分ほどのランタオ島ディスカバリー湾に住む鈴木武徳兄弟は,島内を走るバスに乗るたびに気になることがあった。バスを降りる際に次々と無言で降りる人たち。ある日,鈴木兄弟は自分一人だけでもバスの運転手に感謝を示そうと決心した。「サンキュー。」簡単な一言だが,これを続けた。鈴木兄弟がそれを続けて数年後,バスを利用するほとんどの人が「サンキュー」と感謝の言葉であいさつするのが島の習慣になった。「たった一人で始めたことですが,一人の力でも社会に大きな影響力を与えることができると思いました。」それは,自分のビジネスを通じて伝道活動を心掛ける鈴木兄弟に大きな確信を与えるものだった。

鈴木兄弟が宣教師として働いたのは今から25年前。1983年10月から1985年3月まで日本名古屋伝道部で奉仕した。「普通は伝道で成功した実感を持って帰還する人が多いのですが,わたしは逆でした。まったく自信のないまま東京に戻りました。」自分の伝道を振り返ると「今までの信仰生活の中で精神的にも霊的にも最も底辺の状態をさまよっていた時代」だったと苦笑する。その反動が,今の信仰生活にすばらしい影響を与えているとも話す。

「バプテスマを受ける前から,自分は純粋なクリスチャンを目指していました。幼稚園から小学校までは独りで教会に通っていました。自分の家にあった聖書を見つけて読み始め,キリストの教えを信じるようになり,その教えを守っていました。教えられたわけではありませんが,知恵の言葉も純潔の律法も自分の理解の範囲で守っていました。しかし,聖書を読めば読むほど,自分の内面に存在する小さな罪であってもそれを赦せなくなり,罪への自覚が強くなり苦しみを感じていました。ちょうど,大学の神学部を受験して聖職者になろうと考えていたころです。」

高校生だった鈴木兄弟は,そのようなときに宣教師に出会った。「多くの人が教会に対して悪いことをわたしに伝えてきました。ですから,宣教師と話すことはすごく恐いことでした。しかし,聖書を実践している人たちだと思ったので,彼らについて行って話を聞くことにしました。」

宣教師は熱心に教えたが,鈴木兄弟は彼らの言葉をまったく信じることができなかった。「ジョセフ・スミスが神様とイエス様にお会いした経験についてはまったく信じていませんでした。」そして,宣教師が彼に語った一言が人生を大きく変えるものになった。「あなたは神様を信じているのですから,神様に尋ねてはどうですか?」その言葉に間違いはなかった。神様を信じていた鈴木兄弟は,夕暮れ時に多摩丘陵に登り,ジョセフ・スミスの経験,三人の証人の証を独りで読み続けた。そして──「だれもいない森の中で読み,深く考え,ひざまずいて祈りました。すると,聖霊の力によってそれが真実だと分かりましたので,バプテスマを受けることに決めました。」

自分を追いつめすぎた宣教師時代

改宗した鈴木兄弟は「それから2年間は激しいほどに活発な信仰生活を送りました」と再び苦笑する。「ちょうど東京神殿が建設されたころでしたので,だれよりも早く学校へ行き,東京神殿のオープンハウスの招待状をクラスメート全員に配ったりしました。スペンサー・W・キンボール大管長の『会う人全員に教会の話をしなさい』というメッセージを聞いたので,それこそ文字どおり,ほんとうに全員に伝えていました。『福音の原則』を持参してジョセフ・スミスの絵を見せながら,ジョセフ・スミスの最初の示現を全員に伝えました。クラスではかなり嫌われていましたね。嫌っている人もいましたが,敬意を払ってくれる人もいました。」その結果,クラスメートの二人がバプテスマを受けた。

「高校生のときはすべてを神様にささげて行動していると感じていました。奉仕するにしたがって勉強もするようになり,良い成績を得られるようになりました。安息日を守り,他の人よりも勉強時間は少なかったのですが,その分は神様が与えてくれました。」もちろん,大学に入学してからも鈴木兄弟の伝道活動はエスカレートした。「大学生になってからは道ばたでも,電車の中でも,大学でも,あらゆる出会う人たちにジョセフ・スミスの話を紹介していました。大学の講堂で何百人も学生が集まる前で,ジョセフ・スミスの絵を掲げながら話すこともありました。今,思えばちょっとやりすぎていたかと……。」

それほどまでに熱心に福音を伝えていた鈴木兄弟だったが,その心には徐々に変化が兆し始めていた。「自分に過度のプレッシャーをかけていたのだと思います。たくさんの本を読み続け,その結果,信仰よりも知識を優先するようになり,自分の信仰がゆらいでいたのかもしれません。そのような状態で伝道へ行きましたので,霊的な葛藤を持ちながらの宣教師生活でした。当時の日記を読み返すと,何回も神様の教えを疑わないように誓約していることが記されています。もちろん,大きな罪は犯していませんが,まったく自信がありませんでした。伝道中はとにかくまじめに働きましたが,いつも自信のない自分がいました。伝道を終えて帰還するときに伝道部会長から面接を4時間も受け,かなり叱られました。」

それから2か月後,「自分の中で気持ちの整理もつき,神殿へ参入しました。そのときには,体中が喜びと御霊に満たされました。あふれる涙を止めることができませんでした。そして,驚いたことに,偶然にも神殿で伝道部会長と再会しました。

伝道部会長は満面の笑みでわたしを迎えてくれました。わたしは笑顔の伝道部会長に『あのときはすみませんでした』と謝りました。すると,伝道部会長は『君は過去を忘れないで生きているからだめなんだ。だから自信がないんだ』と再び叱られてしまいました。」鈴木兄弟にとっては忘れられない懐かしい思い出だ。

神殿を生活の基盤に

それが契機となり,鈴木兄弟の神殿への思いは強まっていった。「香港神殿が奉献されてから10年になりますが,奉献されてからは毎週参入しています。ピーク時は毎日行っていました。東京にいたときに東京神殿へ参入していたころと合わせると,18年ぐらいは毎週参入を続けています。あのときの伝道部会長の言葉には感謝しています。『わたしたちが最善を尽くした後,神の恵みによって救われる』(ニーファイ第二書25:23)という確固とした証を持ちながら神殿へ行っています。」

1994年の夏。鈴木兄弟が現在の仕事へと導かれたのも,神殿での出来事から始まった。「神殿で祈っていたら『香港へ行きなさい』という導きを受けました。自分は香港へ行ったこともありませんし,中国語も話せませんし,知り合いもいませんでした。当時,外資系の金融会社で働いていましたので,それならば,仕事を下さいと祈りました。すると翌週,香港にある外資系の銀行がわたしを雇いたいとの連絡が舞い込んできました。親戚をはじめ,周囲の反対を受けましたが,半年後には会社を辞めて家族で香港へ引っ越しました。反対の声は多かったのですが,自分は聖霊のささやきを信じて香港へ旅立つ決心をしました。」

鈴木兄弟と家族が香港へ引っ越した直後に,今まで勤めていた会社で大きな事件が起きた。「一緒に働いていた人たちは事件にかかわっていない人も含め管理責任を問われて免職になり,(そのために会社は)結局,倒産してしまいました。その後,数年もの間,仕事を見つけられないで終わってしまった人もいます。自分も会社に残っていたら,同じ状況になっていたと思います。」まさに「最善を尽くした後,神の恵みによって救われ」たと感じる瞬間だった。

現在,スイス,香港,アメリカ,日本で4つの会社を経営する多忙な鈴木兄弟だが,神殿に参入することは絶対に欠かさない。「自分の人生で神殿がテーマになったのは,伝道時代の苦い思い出や伝道部会長の勧告からだったと思います。香港では一時期,毎日行いっていましたが,今は週2回にしました。神殿参入によって,仕事を含め人生のあらゆる問題への解決がもたらされてきました。わたしの仕事が表面上はすべてうまくいっているように見られることがあります。しかし,実際には仕事の悩みはたくさんあります。自分がなぜ神殿にそれほど参入するかと言えば,自分は強くないからです。神殿に入る以外に自分が正しくやっていける方法はないのです。苦しくなると,詩篇23章を読みます。その最後でダビデは「わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう」と記しています。香港に神殿ができたころは,まさに神殿に住んでいるような状態で家族にも教会にも仕事にも対処していこうと考えていました。あらゆる問題は神殿に参入することによって解決されてきました。自分のミスで大変な状況に追いつめられたこともあります。そうしたときでも神殿に参入し,悔い改めることによって,奇跡的な方法で問題が解決されてきました。振り返ると,抱えていた問題を独りで解決することは不可能でした。解決方法は,自分の力を超えた奇跡的な方法ばかりでした。」

──クリスチャンとしての生き方を貫いているので,顧客からの鈴木兄弟への信頼度が高まる一方で,あらぬ嫌疑をかけられて苦労することもあった。「かつて勤務していた会社で担当するお客さんが増え,莫大な金額の運用を任されていた時期がありました。そのとき,わたしに対して様々なうわさや中傷が起こり,あたかもわたしが不正にかかわっているようなことまで言われたことがあります。職場でも苦しい状態が続きました。わたしは神殿に参入し,熱心に祈りました。自分は何も不正にかかわっていないので,このことがはっきりと明らかにされますようにと。しばらくすると,驚いたことに,元同僚が警察に逮捕され,元上司たちも解雇されました。自分を陥れようとしていた人たちが明らかにされ,わたしへの疑惑はなくなり,すべての問題が解決されたのです。」今でも,エスカレートする神殿参入への気持ちを抑えることは難しいと何度も話す。

弱さを強さに変え

鈴木兄弟が勤務していた会社を辞めて,スイス信託管理法人として,投資顧問業務,個人資産管理業務等を行う会社を設立したのは,もっと神殿へ行きたい,神様のために奉仕したいという気持ちからだった。今の仕事は,神様の業に奉仕したり,伝道したりするための一つの手段としか考えていないと明言する。

「自分は話すのがあまりうまくなく,それが伝道がうまくいかなかった一つの原因だと感じていました。ですからあえて,厳しい仕事との印象があった証券会社の営業マンになりました。しかし実際には,宣教師が福音を伝えるのと比較すれば,(仕事では)多くの人が耳を傾けてくれるので,比較にならないほど楽だと思いました。やはり,宣教師の生活ほど人を成長させる業はありません。」

「……わたしは人を謙遜にするために,人に弱さを与える。……もし彼らがわたしの前にへりくだり,わたしを信じるならば,そのとき,わたしは彼らの弱さを強さに変えよう。」(エテル12:27)

宣教師時代は話すのが苦手だった鈴木兄弟だが,今は世界各国を訪れ,様々な人と話し,仕事や文化事業に携わる。ロシア高官を交えての日露円卓会議,香港政府からの後援を受けてのエンターテインメント事業,欧州や日本で活躍するスポーツ選手のマネージメント,日本の政治家との交流も活発に行われている。しかし,どの場所にあっても,どの仕事相手にでも,鈴木兄弟が欠かさず伝えることがある。それは,自分がクリスチャンであることや,末日聖徒イエス・キリスト教会の会員であることだ。「高校生のときにやっていたよりも,気持ちはエスカレートしています」と笑う。そして,「自分はだめな宣教師でしたから,お返ししなければ」と付け加える。

毎日4時か5時ごろに起きて,30分ほど軽く運動し,聖典を読んだり総大会の記事を勉強。メールをチェックしてから11時の神殿のセッションに参入した後,オフィスへ行って仕事。夕方6時ごろに退社して,7時からは家族と過ごす。こんな生活サイクルを保ちながら,神殿と伝道のことを考えている。「家庭の夕べを毎週行って,家族で毎日聖典を勉強し,家族の祈りを続けることは,家族として大きな祝福を受けることにつながっています。」

「政府が後援した系図のイベントを香港で開催しました。わたしはそこへ300人を招待しましたが,それでも十分だとは思っていません。わたしたちができる伝道活動はたくさんあります。会員として良い模範を示すことはきわめて重要です。わたしは社員やお客さんにはヒンクレー大管長のメッセージのコピーを配っています。できるだけ大規模な形で,知人には積極的に教会の教えを伝えたいと思っています。」

「みんなで力を合わせることも大切ですが,たった一人の力でも社会に大きな影響を与えることもあると思います。わたしはそれを信じて信仰生活を送っています。どの分野でも教会員は頑張っていると思います。その人たちを通じて,ありのままの教会の姿が伝えられます。社会の中でわたしたちへの信頼を築くことが伝道に大きく役立つはずです。」

鈴木兄弟がバスの運転手に一声かけた「サンキュー」のあいさつ。たった一人のその習慣が何万人もの人に伝わったように,たとえ一人であったとしても,その人の力,影響力,信仰,神様の恵みは広がるものだと鈴木兄弟は確信している。◆