リアホナ2007年10月号 ベドナー長老,関東地区の青少年と語る

ベドナー長老,関東地区の青少年と語る

──武蔵野ステークセンター(吉祥寺)特別集会での質疑応答より

十二使徒のベドナー長老は,全日本YSAカンファレンスを終えた後,東京・吉祥寺の武蔵野ステークセンターへ向かい,青少年とその親,指導者を対象とする特別集会に臨んだ。そしてここでも,YSAに対すると同様に質疑応答形式で話が進められる。「もしわたしたちが何か皆さんに教えられるとすれば,それは皆さんが受ける準備ができているときです。皆さんがどんなことについて準備ができているかは,皆さんがどんな質問をしてくださるかで分かります。……では,始めましょう。」以下,2時間以上に及ぶ質疑応答の中から抜粋してお伝えする。

証を述べるとき恐れの気持ちを感じます。それをどのように克服しますか?

「証とはシンプルなものです。聖霊の働きによって自分が知っていることが真実であると述べること,それだけです。そして証とはわたしたちの感謝の気持ちを表したものです。……ストーリー,物語は証ではありません。自分の経験を話すことは証ではありません。聖霊の働きによってそのことが真実だと知っている,それを述べること,これが証です。簡単な言葉で,短く,自分が真実だと思うことを述べればそれでいいのです。これを聞くとあなたの心配が少しは和らいだのではありませんか。」

伝道に出るときに準備したこと,また,伝道に出て心掛けたことは何でしたか?

「ステーク会長から任命を受けたから,宣教師訓練センターに入ったから宣教師になるのではありません。宣教師として物事を考え,行動し,自分が宣教師になるのだと考えたときから宣教師になるのです。今からでもできるのです。主が望んでおられるのはただ単に伝道に出る人ではなく,実際に伝道に行く前から宣教師になっているような人です。ですから,今から宣教師がするのと同じように祈り,勉強することができます。時間を作って宣教師と一緒に伝道することもできます。召しを受けてMTCに行くときが来ると,あなたは宣教師の生活にもう慣れているのです。特に若い男性の方に申し上げます。伝道を終えて帰って来る若い男性の中に,宣教師になる前の服装や宣教師になる前の生活にすぐ戻ってしまう人がたくさんいます。それは主が喜ばれることではありません。宣教師はすべて心と勢力と思いと力を尽くして2年間奉仕します。そのように伝道していた人なら,すぐに服装や態度が元に戻ることはあり得ないのです。19歳から21歳までを宣教師として過ごすのではありません。人生すべてを宣教師として過ごすのです。……ただ単に伝道に出るのだと言わないで,わたしは宣教師になるのだと言っていただきたいのです。宣教師になるという原則を心に刻きざみ込むと,勉強し,祈るときに,聖霊から必ず具体的な指示を受けると約束いたします。」

またベドナー長老は後に,親や指導者とのやり取りの中で次のようにも語った。

「年を取れば取るほど宣教師として効果的に働けるはずですね。宣教師だったあの2年間がわたしの人生の中でベストでしたという話をよく聞きます。その人は40歳です。伝道を終えてからの20年間,あなたは何をしていたのですかと聞きたいです。皆さんの最も大きな霊的な体験が伝道のときだけだったというのは寂さびしいことです。20年前ではなくて,今週でもいいではありませんか。」

ベドナー長老の好きな聖句は何ですか?

「わたしには好きな聖句はありません。毎日変わりますから。わたしが聖典の勉強をするときはテーマを考えています。わたしの好きなテーマについてお話ししましょう。(例えば)第三ニーファイを開いてください。『わたしの愛する子を見なさい。わたしの心にかなう者である。わたしは彼によって,わたしの名に栄光を加えた。彼に聞きなさい。』(3ニーファイ11:7)天の御父の声が記録されている場所,このような光景はあまり多くありません。聖典の中で天の御父ご自身が語っておられることからわたしたちは何を学ぶことができるでしょうか。──このようなパターン,テーマで聖典を研究していくのは一つの方法です。

モルモン書の中で6回『一人一人(one by one)』という言葉を見つけることができます。(アメリカ大陸を訪れた)イエスは群衆に『一人ずつ』ご自分の手と足の釘跡に触れなさいとおっしゃっています。救い主は群衆の中の一人を代表として釘跡に触れさせ,それを説明させることはなさいませんでした。『一人一人』にその経験をさせてくださったのです。この群衆はおよそ2,500人でした。彼らがイエス・キリストの釘跡に触れるのにはどのくらいの時間がかかると思いますか。もし一人が20秒から30秒かかるとしたら,15時間から20時間くらいの時間が必要だったと思われます。若い友人の皆さん,皆さんはこの救い主の導きと教えをすべて知る必要があります。それは『一人一人』という言葉に集約されているのです。イエス・キリストはどんなふうに人々に教えを施ほどこされたでしょうか。『一人一人』に施されたのです。今日,わたしたちは伝道活動をどのように行っていますか。神殿の儀式はどうでしょうか。『一人一人』に行っています。モルモン書と新約聖書で救い主の生涯について学びますと,イエス・キリストのすばらしい特質,『一人一人』に手を差し伸べるということが見えてきます。どうぞ考えてください。ゲツセマネの園で,またゴルゴタの丘でイエス・キリストはわたしたちの罪,咎をどのように贖てくださったでしょうか。……救い主の導きと教えを施したのが『一人一人』に対してであれば,救い主はゲツセマネの園で,ゴルゴタの丘でわたしたちの罪を贖うための業を『一人一人』に対して行われたと考えるのは普通ではないでしょうか。その方法はわたしには分かりません。その状態のときに皆さん『一人一人』を救い主は何らかの方法で御覧になったはずです。わたしたちを個人としてそのときに体験されたはずです。人類全体の罪が一塊ひとかたまりになってキリストの肩にのしかかったというのではないのです。それは『一人一人』に対して行われました。『一人一人』というテーマはわたしにとって大切なテーマです。ほかにも何百という種類のテーマがあります。あなたも同じようにテーマを決めて学んでください。」

お祈りをするときに,双方向のコミュニケーションにするにはどうしたらよいですか?

この質問にはまずベドナー姉妹が答えた。「祈りで非常に大切なのは感謝の気持ちを表現することです。……自分の日常生活で何が起きているかということをよく考えると,祈りはより深いものになっていきます。『もし救い主の御手をわたしたちの日常生活の中で見られるように祈れば,必ずその御手を見ることができる』とヘンリー・B・アイリング長老はおっしゃいました。わたしたちは毎日生活する中で,感謝の気持ちを表すときに救い主の愛を感じ,そして救い主への愛を感じることができます。……もし一方通行ではない双方向の祈りをしたいとすれば,感謝をするのは最も効果的な方法です。

また,神様がわたしたちの父であるということを知るのも良い方法です。……熱心に願い求めるならば,天父は与えてくださらないことはないとわたしは知っています。わたしたちはいつも祈っていることを心の中に持ち,日中それについて深く考えることができます。そうすることでわたしたちの気持ちにささやくような御霊の導きが与えられます。それが神様がわたしたちとコミュニケーションを取られる方法です。」

続いてベドナー長老はこう話す。「祈りはわたしたちが天のお父様とコミュニケーションするための道具です。啓示というのが,天のお父様がわたしたちに答えを与えてくださるコミュニケーションです。皆さんが願っておられる双方向のコミュニケーションとは,祈りと啓示が合わさったものです。

祈りには行いが伴ともないます。信仰をもって祈るとは,祈り終わって立ち上がった後,わたしたちが祈ったことを実行に移すということが含まれているのです。祈りが双方向になるためにはアーメンと言ったときからすぐに信仰をもって行動する必要があります。では,より実践的な例を皆さんに申し上げましょう。公の席でも個人でもわたしたちは,宣教師が心の清い人や福音を聞く備えができた人を見つけることができるように,と祈ります。……宣教師たちはフルタイムの教師です。教会の会員である皆さんやわたしはフルタイムの見つける人(finder)です。もう一度言います。教会員の皆さんもわたしもフルタイムの見つける人です。もしも皆さんが,わたしたちのなすべきことをだれかほかの人がなすようにとお祈りするならば,それは信仰の祈りではありません。皆さんは祈りの中に双方向のコミュニケーションを求めました。このような祈りを考えてみたらどうでしょうか。『天のお父様,信仰と勇気をわたしに祝福してください。そしてわたしが口を開いて,家族も友だちも福音の祝福を受けられるようにしてください。』──そういう祈りにアーメンと言うとき,わたしたちは何

をするか。祈ったのと同じことを実行するのです。実行に移すときに啓示が来ます。

ニーファイは真鍮版を求めて3回,エルサレムに戻りました(1ニーファイ3-4章参照)。3回目のときに,天幕で彼は祈ったでしょう。しかし彼はテントの中で答えを待っていることはしませんでした。立ち上がってエルサレムを目指して歩き出しました。でも何をしたらよいのか分からなかったのです。いつその祈りの答えが与えられましたか。エルサレムに着いたときです。主はどのようなステップを取ったらよいかという導きをお与えになり,それが答えとなったのです。もしわたしたちが心から進んで神様からの導きに従う気持ちがあれば,神様が語る言葉をもっとよく聞くことができるでしょう。

では,意味のある祈りについてもう一つ。すべての祈りが必ず答えを受けます。でもその答えがわたしたちの望む答えでないことが時々あります。よくわたしたちは,自分の望む思いを神様に押し付けるような祈りをすることがあります。でもほんとうに意味のある祈りとは,神の御心みこころを知るための祈りです。もし双方向の祈りを求めるならば,その祈りの中に一つのことを必ず入れる必要があります。『──しかし,わたしの思いではなく,みこころが成るようにしてください』(ルカ22:42)と。」

教会でだけでなく学校などでも善い会員になり,善い気持ちを持つようにするにはどうしたらよいですか?

「第1に,皆さんが聖霊の促しを受けるということ,それはただ単にいい子でいなさいということだけでなく,何か具体的な行動をしなさいという導きです。(例えば)教会の中であまり良い関係にない人に対して,もっとこうしましょうと導きを受けるかもしれません。そうしたらすぐに行動に移してください。すぐに行動することは,促しを真剣に受け止めていることを表し,また導きを与えてくださった天の御父への感謝を表します。すぐに反応するともっと指示を受けられるようになります。第2に,その聖霊の促し,メッセージを覚えておけるようにと祈ってください。そう祈るとき聖霊は,覚えておけるように必ず助けてくださいます。モルモン書の中に最も多く出てくる言葉は『覚えておきなさい』です。朝,その助けを心から求めてください。すると助けを受け,夜には感謝の祈りに変わっていきます。そうすると続けてまた助けを祈り求めるようになります。そのようにして一所懸命,善いことをしようとしますから,皆さんは強くなります。福音はシンプルです。シンプルなことを続けて行うならば,すばらしい強さと祝福を受けられるようになります。」

わたしたちには色々な試練がありますが,天のお父様の助けを借りて,どのようにしたらそれを克服できるのでしょうか?

「モーサヤ書第24章でアルマとその民はアミュロンらによって迫害されていました。アルマとその民は試練の中で天の御父に助けを求めています。14節にその答えがあります。『またわたしは,あなたがたの肩に負わされる荷を軽くし,あなたがたが奴隷の状態にある間,あなたがたの背にその荷が感じられないほどにしよう。』神は,重荷を負っていることを感じないようにするとおっしゃっています。試練やチャレンジを負える強さを与えられるのです。しかし重荷が取り去られたのではないと書かれています。『そこで,アルマと彼の同胞に負わされた重荷は軽くなった。まことに,主は,彼らが容易に重荷に耐たえられるように彼らを強くされた。そこで彼らは心楽しく忍耐して,主の御心にすべて従った。』(15節)彼らが強くされたから軽く感じたのだと書いてあります。重荷は同じなのです。キリストの贖罪によって人々が強くされたから重荷が軽く感じるようになったのです。これは贖罪の強くする原則と言われています。イエス・キリストの贖いは罪を洗い流してくれるだけではなく,わたしたちの力だけではできないことを行える強さを与えてくれるのです。贖罪にはその両方が入っているのです。

ニーファイが兄たちに強い縄で縛られた,あの体験を思い出してください。(1ニーファイ7章参照)『おお,主よ,あなたを信じるわたしの信仰により,兄たちの手から救い出してください。まことに,わたしを縛っているこの縄を断ち切る力をお与えください。』(17節)だれか来てこの縄を切ってくれるようにとニーファイは祈りませんでした。重荷が取り去られるようにと祈らなかったのです。縄を断ち切る力を与えてくださいと祈りました。そしてその後どうなったでしょうか。自分が祈ったことに対してニーファイは行動を起こしたのです。力を込めたと思います。結び目を解こうとしたかもしれません。普通だったら長い時間がかかるところを,自分の力だけではなく主の力を借りて短い時間で解決できたのです。試練やチャレンジには強さが必要ですね。わたしたちはこのように祈るべきです。『あなたの御心でしたら,わたしを祝福してください。しかし試練が取り去られることがあなたの御心でないなら,その試練に耐えられるような力をお与えください。』心から喜んでその試練に耐えることができるように祈るのです。わたしの思いではなく,御心が成りますようにと祈ってください。そしてにこにこしてください。そうすると聖霊はあなたが決して忘れることのできない指示を与えてくださいます。それがあなたの笑顔となって表れてくるに違いありません。」

教会の会員になることはほかの人と差別化されることですから,彼らとの関係が悪くなることがあります。そんなときわたしたちはどんなふうに仲良くやっていけますか?

「わたしたちが聖約に入って儀式を受ける理由は,天の御父から祝福を受けるためです。そのときにわたしたちはほんとうに幸せな民になるのです。キリストの姿が皆さんの顔に反映されたらどうでしょうか。人々は皆さんに尋たずねます。『どうしてそんなに輝く顔をしていらっしゃるのですか。』それはわたしたちの内面から出てきて,人を引きつけるものです。特に青少年の人たちに申し上げます。福音に従った生活をするのは大変ではないのです。では,皆さんの友だちの中に酒を飲んだり暴力を振るったり貞節を破ったりする人がいて,その人が楽しいと言っていたら,彼らの心の中に入っていってほんとうに楽しいのかどうか聞いてみてください。彼らがそんなことをしている理由は,自分が何者なのか分からないのを隠すためです。(人生の目的を)彼らは知らないのです。どこを探したらいいのか分からないのです。どうぞ皆さんの顔の中に,皆さんの日ごとの働きの中に見つけさせてください。すると彼らは聞きに来ます。そのときには,排他的になるのではなく,すべてを受け入れてあげてください。」

ベドナー姉妹もこう語る。「わたしは青少年の方々が毎日,毎日祈ってくださるように願っています。御霊の光によって皆さんの顔つきに光が輝くように願っています。そしてだれかが,『あなたはなぜそんなに幸福そうな顔つきなの,なぜほかの人と違うの』と尋ねるときに,勇気をもってその理由を伝えていただきたいのです。」

最後にベドナー長老は若人に呼びかけた。「若い男性女性の皆さん,日本における皆さんはこれから立ち上がる世代(the rising generation : 次世代)です。イエス・キリストは皆さん一人一人を名前で御存じです。主は皆さんを導き,守り,祝福を与えてくださいます。イエス・キリストのシンプルな原則に従いさえすればそれが得られるのです。真の幸福をもたらすものは福音だけです。世のものは非常に魅力的です。けれども真の幸福をもたらすことはありません。」

ベドナー長老は御父と御子が生きておられること,預言者が今日の教会を導いていることを簡潔に証する。「皆さんの心の中に,天の御父の幸福の計画を理解し,その計画に従って生きようとする望みが増し加えられますように,それによって,皆さんの表情の中にキリストの光が表れることをお約束します。そして何事にも目的と方向性を見つけることができるようになるでしょう。自分自身が何者なのかもっと明確に知ることができるに違いありません。命の木の実のすばらしい味を味わうことができるようになるに違いありません。たとえようもない喜びを皆さんは経験します。あのリーハイがモルモン書の示現で教えてくれているような祝福をぜひ求めてください。皆さんを愛しています。わたしはこの祝福を皆さんの頭に宣言し,これらをイエス・キリストの聖なる御名によって申し上げます,アーメン。」◆