リアホナ2007年10月号News Box 日米の兵士が結んだ家族のきずな

News Box 日米の兵士が結んだ家族のきずな

──ガダルカナル島の日章旗,64年ぶりに遺族へ戻る

太平洋戦争の激戦地であったガダルカナル島で戦死した日本兵,故宮下忠男さんの武運長久を祈る日章旗が8月17日に遺族の元へ返還された。元米海兵隊の故テッド・チャールズ・ポールセン兄弟がガダルカナル島から持ち帰った日章旗は,宮下忠男さんの故郷である長野県上伊那郡飯島町七久保に64年の時を経て戻って来た。

戦時中,海兵隊に所属していたポールセン兄弟はガダルカナル島へ上陸し,横たわる日本兵の死体を確認する作業を命じられた。爆弾や武器によって自害する日本兵もいたことから,息のある日本兵が残っているかどうかの確認作業であった。ポールセン兄弟は死亡を確認した一人の日本兵が所持していた日章旗を見つける。薄汚れた日の丸の旗には文字が書かれていたが,その意味は分からなかった。帰還した後も,勇敢に戦った日本兵士への敬意を込め,ポールセン兄弟はその旗を大切に保管し続けた。

晩年を迎えたポールセン兄弟は,家族と相談し,その日章旗の持ち主が分かればぜひとも返したいとの思いを強めていった。しかし探す方法も分からない。息子のロリン・テッド・ポールセン兄弟は,友人のM・トム・清水ご夫妻に依頼した。清水ご夫妻は教会の主要都市東京広報評議会へ打診し,2006年の秋から持ち主の捜索が始められることとなった。

靖国神社を訪れて捜索に着手する。武運長久を祈る旗には通常,出征兵士の名前が記され,それを「為書き」と呼ぶ。しかし,珍しいことにその日章旗には為書きがなく,持ち主が特定できない。日章旗に並ぶ名前の中には「七窪神社」という文字があった。やがてそれが現在の飯島町七久保に関連することが判明し,飯島町役場の助けを得ながらの捜索となった。記された名前の大半は飯島町の出身者であることは分かったが,そのほとんどが亡くなっているか高齢のため有力な情報も得られず,町役場と遺族会は「これ以上の捜索は無理」との判断をした。主要都市東京広報評議会でも5月まで捜索を続けたが,持ち主を見つけることはできなかった。万策尽きてやむを得ず,日章旗は靖国神社へ奉納されることが決まった。

ところがその直後,飯島町役場から電話が入る。日章旗の持ち主が判明したというのだ。ユタ州在住のロリン・テッド・ポールセン兄弟にもその知らせはすぐに届けられた。「ちょうど日章旗について深く思いを巡らしていたときでした」とポールセン兄弟は語る。8月14日。それは奇しくも,日章旗を持ち帰った父親のテッド・チャールズ・ポールセン兄弟が亡くなって1年目の命日だった。

8月17日の返還式では,広報宣教師のデビッド・F・ロバーソンご夫妻が代表者として,

戦死した宮下忠男さんの実弟の北沢照雄さん(86)に日章旗を手渡した。式典には宮下さんの妹夫婦など遺族9人が万感の思いを胸に出席し,初めて見る故人の唯一の遺品に何度も何度も触れながら涙を流した。25歳で戦死した宮下さんの階級は軍曹。ガダルカナル島で戦闘に参加し,太平洋上で撃沈されたと伝えられていた遺族には,遺骨も遺品も届けられてはいなかった。

あきらめかけていた捜索は「7月の飯島町戦傷病没者追悼式を機に再開された」と町役場の担当者は話す。51人の署名者のうち,村外者4人が親族である可能性が高いと考えられ,それらの名前が戦没者の妹の夫であったことから,日章旗の確認をしてもらい,宮下忠男さんが持ち主であると判明した。また,ポールセン家族の証言による,当時の故人の階級,ほかの持ち物についての情報も持ち主を確定する貴重な手がかりとなった。北沢照雄さんは「兄の遺品が戻ることなど夢にも思いませんでした。携わったすべての方々に心から感謝しています」と涙をぬぐいながら語った。

霊界へ旅立った日本とアメリカの二人の兵士の思いが,64年の時と日米両国の距離をも超えて,それぞれの家族のきずなを思い起こさせてくれたかのようだった。◆