末日聖徒イエスキリスト教会(モルモン教)リアホナ2007年3月号「親が恐れていたら子供は不安になります」

「親が恐れていたら子供は不安になります」

確固とした信仰と教育の両立──牛久ワード,根本家の場合

日本松戸ステーク牛久ワードの根本寿・燿子ご夫妻は現在,在宅の専任宣教師(2006年4月から1年間)として,近隣のつくばワードと松戸ワードを往復している。4人の子供たちはすでに独立。2007年1月,末っ子で長女の雅美姉妹が結婚し,「完売しました。皆が神殿結婚してくれて自活できている,それがいちばん幸せなことです」と燿子姉妹。根本ご夫妻は寿兄弟の定年退職直後,2004年3月から2005年4月まで神殿宣教師も務めている。福音を第一にするという根本家の方針,夫妻の奉仕の人生を象徴するかのように,子供たちも多くの時間を主の業に費やしてきた。

長男清貴兄弟は1999年5月から2001年4月にかけてハワイ州ホノルル伝道部に,三男誉兄弟は1997年4月から1999年4月にかけてカリフォルニア州ロサンゼルス伝道部(のち分割後のカリフォルニア州ロングビーチ伝道部)に,末っ子の雅美姉妹は2000年4月から2001年10月にかけて中国香港伝道部にそれぞれ召された。

家族の伝統と教会の影響力,複合的な要素が伝道につながる

伝道に出てほしいという思いはあったと語る根本ご夫妻。とはいえ普段の生活の中で伝道に出ろというような話はしなかったという。根本ご夫妻の,子供たちに対する取り組み,示した方針を列挙すると──

①言葉を話せるように(3歳くらいに)なってからは聖文を口伝えで毎日読む。

②聖文を自分で読めるようになってからは毎晩家族で音読する。

③幼いうちはひざの上に抱いて祈る。

④学校から帰って来ても5時までは自由に遊ばせる。

⑤車がなかったので野外レクリエーションは6人でサイクリング。

⑥家庭の夕べで前日のプライマリーの内容を報告してもらう。

⑦セミナリー・インスティテュートを卒業させる。

⑧安息日はテストの前でも教会へ行く。

⑨部活は日曜日を使わないものを選ぶ。

⑩自宅に宣教師を招く。

⑪神殿に定期的に参入する。

などとなる。

清貴兄弟は母親にいちばん感謝していることとして「逃げずに本気でぶつかってきてくれたこと」を挙げる。燿子姉妹も,「ほんとうに一生懸命でした。だからそれで赦してもらうしかないです。何でも言いなさいと言いながら全部聞く前にああでしょうこうでしょうと言っちゃったとか,(子供たちにとっては不満も)いっぱいある親だったと思いますよ。叱ったんじゃなくて怒ってしまったことが多かったです。そういうときは子供と抱き合ってお祈りしました」と振り返る。

「父は指導者の勧告に従うことを行いで示す人で,常にホームティーチング100%達成を目指していました。」運転免許を持たない寿兄弟と自転車でホームティーチングを行った清貴兄弟は父親から,指導者に対する従順と忠実さを学んだ。

雅美姉妹は,神権指導者とその権威を敬うべきことを教わった。「子供のころ,ステーク会長の話は長いなどと言って聖餐会中に兄と遊んでいたら,聖餐会が終わってから父に怒られました。ステーク会長に謝るように言われたので謝りに行きました。」指導者を敬う習慣はそのまま,指導者の伝道の勧めを敬い,受け入れることにつながっている。

祝福師の祝福も大きな影響力を持つ。根本家の子供たちは皆12歳で祝福師の祝福を受けている。祝福文にある専任宣教師としての奉仕に関する記述は伝道に備え,あるいは実際に伝道に出る決心をするうえで支えとなり指針となる。

燿子姉妹は,「セミナリーは親と子の共通の宝物です」と言う。方針どおり4人の子供は皆セミナリーを卒業した。「親も頑張れないと4年間を終わらせることは難しいです。本人にやる気があっても,勉強していて寝るのが遅くなると朝起きるのはつらいものです。」

「同級生や仲間がステーク内に大勢いたのも幸いしました」と根本ご夫妻。帰還宣教師の話を聞くのが好きという雅美姉妹は彼らの証を自らの伝道にだぶらせ期待を抱いた。

子供たちが伝道に出ることができた理由を根本ご夫妻はこう分析する。「物心ついたときから聖典を読み,祈り,セミナリー・インスティテュートに出席し……そういうことが複合的に作用して,人々にも分かち合いたいという気持ちになったからではないでしょうか。」

「知性を備えた人になりましょう」

一方で根本家には,子供たちにできるだけ高い教育,職能訓練を受けさせるという方針もあった。「財産も地位も名誉もない,親として残せるものは何もないので自分の力で得られるように,得たものを人様のために役立てられるように。」結果,「教育ママでした」と燿子姉妹が言う傍らで寿兄弟が苦笑する。清貴兄弟は「いい教育受けないと後々苦労するのよと母から言われました」と燿子姉妹の言葉を裏付ける。

医大に入学した清貴兄弟は1年が終わった段階で休学して伝道に出るつもりだった。サークルにも入らず家庭教師のアルバイトでかなりの額の伝道資金も用意していた。ところが休学は認められず,伝道に出るには退学しなければならないとのことだった。「大学に入るの大変でしたから……」伝道は断念。「どうせ出られないということで伝道のことは忘れました。」教会の活動には以前にも増して活発に集っていた清貴兄弟だが,友人たちが伝道から帰って来て結婚し始めると次第に,伝道に出ていないというコンプレックスを感じるようになったという。転機は大学6年,産婦人科医師の鮫島浩二兄弟(熊谷ワード)の自宅を訪問したときにやってきた。「伝道のことに話が及んで鮫島兄弟がボソッと一言,『卒業してから行くって手もあるんじゃないの』とおっしゃいました。頭の中でリンリンリンと鳴った感じ,これだと思いました。」4年前とは打って変わってだれ一人反対する者はいなかった。準備は順調に進み,召しが届いたのは医師国家試験受験直前の2月下旬。3月に国家試験を受け,大学を卒業。4月の国家試験の合格発表後,5月に伝道に出発。齢25歳,少々遅咲きの,しかしながらよく準備された宣教師が奉仕の業に就いた。

現在,母校の大学病院で精神科医として働く清貴兄弟。「プライマリーのころ,宣教師がけっこう自宅に来ていた記憶があります。そのころ使っていたモルモン書にはわたしの好きな聖句ですと言ってモロナイ10:5が書いてあります。」幼少期の専任宣教師との触れ合いが伝道への抵抗感をなくし,期待感を高める大きな要因となっていたと指摘する。さらに,「両親が聖典を勉強したりインスティテュートのテキストを読んだりしている姿を見ると,大事なんだなと思います。親が普通に家で福音を勉強しているのは大きいです。あと,神殿を大事にすることも。」

防衛大学校に入学し自衛官となった次男の勉兄弟は,専任宣教師として奉仕する機会を得なかったものの,弟の誉兄弟,妹の雅美姉妹の伝道資金を援助した。父親の寿兄弟は国防の道を志した息子に, 「自衛官になったということは国のための伝道だから頑張りなさい」と言葉をかけた。勉兄弟は在学中に選ばれてフランス陸軍士官学校で研修,卒業生総代を務めるほどに優秀な成績で防衛大学を卒業。およそ一般人がかかわることができない人々の中で父親の言葉どおり,「国のための伝道」の責任を果たしている。現在,シリアのゴラン高原に展開中のUNDOF(国連によるシリアとイスラエルの兵力引き離し監視軍)の司令部要員を務める根本勉一等陸尉は,日本を代表して,救い主がかつて歩まれた地の平和維持に貢献し,イスラエル地方部ガリラヤ支部に集う特権にも浴している。

「安息日を守ったら勉強できない,部活に行かなかったら評価を受けられない,というような恐れがあると思います」と根本ご夫妻。「でも親が恐れていたら子供はもっと不安になります。」子供たちに真の幸福の道を伝えるには両親が確固としていることが必要不可欠,と最後に付け加えてくれた。◆