リアホナ2007年6月号永遠の価値観を共有し,分かち合う場に

永遠の価値観を共有し,分かち合う場に

──全日本カンファレンスを通して望む日本の教会の未来図

──全日本カンファレンスを通して望む日本の教会の未来図

全日本YSAカンファレンス実行委員会委員 楠目克美 東京ステーク会長

全日本YSAカンファレンス実行委員会委員 楠目克美 東京ステーク会長

独身会員の将来とは,すなわち教会の将来のことです。今回のカンファレンスに多くの独身会員が参加し,祝福を享受し,分かち合い,一人一人が将来の見通しを立てることにより,日本の教会の将来が描かれていくことを願っています。

今日の日本のように豊かな社会にあっては,「分かち合いたい」という感覚は忘れ去られようとしているものかもしれません。しかしその感覚こそ,わたしが最も重要だと思っている事柄の一つです。「分かち合う」ということは,まさに共有することを意味します。カンファレンスでは兄弟姉妹として,多くのことが共有され,それらを学ぶ機会があります。人生の目的,生活のあり方,信仰の確立などを見据えた【価値観の共有】。教会の指導者や,社会の第一線で貢献している卓越した教会員が培ってきた知識や知恵から学ぶ【情報の共有】。同じ信仰を持つ人たちとの交流による兄弟愛や喜び,一致する気持ちを体感する【感情の共有】。会場や教会堂の整理整頓,ヘルピングハンズなどの奉仕活動による【奉仕の共有】。自分が神の子供であるという確信,次世代を担う末日聖徒にふさわしい生活に変わろうという決心による【御霊の共有】。あらゆる場面で,分かち合い,共有することがカンファレンスを成功させ,独身会員の皆さんが人生においても成功する鍵となります。

すべてを永遠の視点から眺める

わたしたちは「昇栄」というゴール地点を知っています。それなら,「今,自分がどの位置にいるのか」という位置確認により,「現在地」と「昇栄」の二地点を結ぶ経路を探ることができます。自分が置かれている環境と状態を理解することが,将来の計画を描くことの第一歩となります。わたしたちは,将来の計画を立てたり,夢を持ったり,自らのビジョンを持つことがなかなか難しい時代環境にいます。しかし,計画もなく,夢もなく,ビジョンもなく,ベニヤミン王が語ったように「生まれながらのまま」であれば,神の敵となってしまいます。

わたしたちは神様の子供ですので,すべての人がその内に「神様らしさ」を秘めています。わたしたちは「生まれながらのまま」の状態である「人らしさ」から脱却し,「神様らしさ」を養う必要があります。

例えば,「教会の責任を行うのが難しい。仕事が忙しく,家族と過ごす時間も少ないので」という人もいます。まずは仕事をすることで家族を養い,もし,時間ができたら家族との時間を優先するという考え方です。優先順位ということを考えた場合,確かにこの世で生きていくためには当然かもしれません。しかし,この状況をもう少し冷静に見てみましょう。「近い将来,教会の責任を果たすだけの余裕が出てくるのだろうか?」それは疑問です。なぜならば,年齢とともに,任される仕事の範囲や責任は増えて多忙になり,家族にも仕事にも,さらに時間とお金と思いを費やさなければならなくなるのは明白だからです。教会や隣人のために奉仕をする余裕が出てくるとは思えません。

こうした状況に追い込まれる原因の一つは,この世を生き抜くための価値観が最も上位にあることです。福音に基づく価値観や視点が人生の歩み方に影響を及ぼしている部分が極めて限られているのです。もし,わたしたちが,まずは福音の価値観の上に立脚し,今の自分を吟味して優先順位を確かめ直すことができれば,まったく同じ状況でも,何を選択するかは大きく変わってきます。

一所懸命に生きていこうとすればするほど,限られた時間の中でストレスがたまっていくように感じるときがあります。若くても,年をとっていても,社会的地位が高くても,そうでなくても,1日は24時間,1年365日は変わりません。自分の限界に近づいたときに,その人の価値観が問われます。福音の価値観(永遠の命)を基に信仰を行使するか,あるいは,まずこの世で生きていくために必要と自分が思うことを選択し,それ以外を後回しにするかです。よく知っておかなければならないのは,自分の限界に近づくときこそ成長する機会であること,またその選択を神様にゆだねるか,自分の思いで選択するかによって大きな違いが生じるということです。

こうした信仰の姿はあらゆる所で見られます。開拓者の時代,すべての財産を残して西部に旅立った忠実な聖徒たちの姿,または,当時の指導者が,生活費もままならない状況の中,小さな子供,出産前の妻を残して異国に伝道に行く姿。また,日本の忠実な聖徒たちが,将来のためにためていた貴重なお金や財産を,教会を建設するためにささげる姿。こうした方々の判断と行いは,わたしたちが永遠の視点を持たない限り理解したり共感したりすることはできません。わたしたちは,先人たちの信仰と努力のおかげで,同じような試しを受けることは最近はほとんどありません。しかしわたしたちも同じように,日々の生活の中では,福音に立脚した信仰を常に求められています。形は違いますが,現代社会の複雑な状況の中でいつも難しい判断を求められています。分かりづらい,難しいという意味では,今のほうが大変な試練に遭っていると言えるかもしれません。

この世の価値観に立脚する場合と,福音の価値観に立脚する場合との違いは何でしょうか。前者は,すべての問題は自分を取り巻く環境のせいであると考え,環境を変えることで問題を解決しようとします。後者は,与えられた難しい環境は,自らを成長させるために与えられたと信仰を通して理解し,自らを変えることで解決する方法を取ります。

福音の価値観に立脚した生き方をする人は,人生の目的は永遠の命を得ることであると明確に位置づけています。この人生で出会うすべてを永遠の視点から眺め,永遠の命を目指すということです。家族が大切な理由も,この人生の目的が教えてくれます。仕事も,生活の糧を得ることにとどまらず,福音を実践する場となり,自らを高め,隣人に奉仕する機会へと変化していきます。仕事の問題も,家族の問題も,教会の責任も,すべてこの永遠の価値観を基に,自らを変えることで解決を図るようになります。

こうした生き方をする人は,常に自らの考えに疑問を投げかけ,福音に耳を傾けます。預言者の勧告や指導者の導きを支持し,自らを変える機会としてチャレンジを捉えます。また,将来のビジョンを矛盾することなく描くことができるようになります。家族,教会,仕事は,その目的において一体となり,分けて考えることはなくなります。

主のリーダーシップを学ぶ

教会にあっては神権者や各組織の長,家族にあっては家長また両親がリーダーと言えます。けれどもわたしたち教会員は,神様の業をこの世において進めるうえでは,教会員全員がリーダーであると考えるべきだと思います。リーダーの特質を学ぶことはすべての教会員にとって必要なことです。特に,主イエス・キリストのリーダーシップを学ぶことで「人に良い影響を与えることのできるリーダーの特質」を学ぶことができます。

指導者としての特質を考える場合,とても重要なことは選択の自由とリーダーシップの関係です。模範が大切なことはよく知られています。模範を示し,人を導くということは,人の選択の自由を侵すことなく,本人の意思によってその道を選んでもらうということです。別の言い方をすれば,選択の自由を尊重しつつ,導くためには模範が大きな役割を担うということです。

模範には「模範=完全」いうイメージを持つ人もいます。その影響で,模範を示そうとするとき,より完全に近い状態で相手に見せようとする傾向があります。もし,ほんとうに「模範=完全」だとすれば,イエス・キリスト以外に,模範を示すことができないことになります。わたしたちが示すことのできる模範とは「悔い改める(=自らを変える)ことで希望を見いだし,完全に向けて喜びに満ちた信仰生活を正直に表現すること」だと思います。羊飼いである主イエス・キリストのような特質をわたしたちのリーダーに感じるときに,わたしたちは,主の愛を感じ,喜びで満たされるはずです。

共存,共栄,昇栄

わたしたちはバプテスマを受け,神殿で結婚し,昇栄を目指すという認識を持ちます。しかし,昇栄はすぐに実現するものではなく,段階を経て身に付け,贖いの力によって最終的に達成されるものです。自活(自立)→共存→共栄→昇栄のステップを学ばなければなりません。教会のプログラムも家庭生活も職場も,すべてこのステップを達成できるようになるための研究学習の場と考えるべきです。人生で大切なことのほとんどは,隣人との関係をどのように発展させることができたか,隣人に仕えることができたかどうかに尽きます。ほんとうの意味において「自立」を達成できているのは神様だけではないでしょうか。なぜならば,自分の力で完全に立つことは人間にはできないからです。そのためにも,隣人と共存し,共栄し,分かち合いの気持ちを共有することは欠かせません。

わたしたちの最終目標は「昇栄」であり,すべてがこの目標を達成するためにあることを理解すべきです。それを達成するために,教会生活があり,社会生活があり,家族があることを理解してください。別々に分けて考えないでください。どの場面も,昇栄という同じ目標に向かって,切り口は違うけれどもわたしたちに必要な経験を与えてくれます。その経験を通して神様を理解することができます。どの場面にあってもその価値観を共有することは大切です。

成長の過程を歩んでいる人は,年齢を重ねるごとに,時間,金銭,思いなど,持っているものの多くを隣人に向け,ささげるようになります。その人の悩みのほとんどが自分のことではなくて,家族や隣人のこととなります。これはまさに,主イエス・キリストの状態に近づいていることです。隣人の重荷を背負い,あらゆることを共有している状態といえます。隣人といかに接したかがわたしたちの救いに重要であることを理解してください。

自分のためより隣人のために

教会がわたしに何をしてくれるのかと思うよりも,わたしが何をすることができるのかを常に考え,実行することが重要です。特に,教会の活動は,自分のために参加するのではなく,隣人のために参加するのだという動機を持つことが大切です。その動機がないと,自分には必要ない,自分には関係ない,興味がないなどの理由で参加しなくなります。そうした考えで行動していると,神様の計画,主の業に大きな支障を来すことになります。

何年も教会に集っていると,良くも悪くも,習慣化し,変化の少ない日々の繰り返しとなることがあります。そうした生活を続けると,とても利己的になってしまう傾向があります。教会の集会があっても,自分には必要ないと感じて参加するのをやめたり,自らの問題を解決することを優先してしまいがちです。

わたしたちは,いきいきと喜びをもってプログラムに参加し,自らと自らの家族を高め,隣人と喜びを分かち合う必要があります。そうすることで,この世にも打ち勝ち,平安のある人生を送ることができると思います。教会のあらゆるプログラムに主体的に参加し,隣人のために積極的に奉仕するときに,わたしたちを通して隣人は主の愛を感じることができます。人々に喜びと成長をもたらすことで,自らも成長し,神の愛と喜びを享受することができるのです。この原則を学び,実感することが大切です。そのとき隣人と共栄することの価値を体験することができます。

もっとも大切なことは「分かち合う」ことです。わたしたちは年齢に応じて同じような試練に遭い,問題を抱えます。そのため,自分が経験してきたことを次の世代に「分かち合う」ことがとても重要となります。ここでも,「共存」「共栄」の価値観を常に念頭に置く必要があります。だれが何を必要としているかを考え,導きを受ける必要があります。その人を「見守る」必要があるわけです。教会は学ぶことを目的とした研究室で,教会員はそれぞれ「実習のためのパートナー」であり,成長と進歩のためにお互いが不可欠な存在であると知る必要があります。

永遠の結婚観から見ると,重要なのはむしろ結婚をした後のことです。結婚生活の中で一体となる行いは,大変な努力と忍耐が求められると同時に,わたしたちを成長へと導いてくれます。では,どのようにしたら永遠の伴侶と出会い,結婚を決心することができるのでしょうか。独身会員の中には「教会の活動に参加し,積極的に奉仕活動を行うことで,様々な出会いや霊感が与えられる」と答える人がいます。この意見はすばらしいと感じます。神様から与えられた機会を大切にし,忠実に従ってすべての活動に積極的に参加し,自らの利益を優先するのではなく,隣人のためにこれらを行うこと──まさに共有することが重要です。この世的な結婚観から影響を受けないようにして,永遠の結婚観を持ってください。奉仕することを,互いに高め,隣人を愛する機会と捉えてください。そのような中で御霊を受け,永遠を共にする伴侶はだれかを感じ取ることがいちばん自然で,理想的であると思います。

カンファレンスへようこそ

今回のカンファレンスも含め,教会のプログラムは,「すべての人をイエス・キリストのもとに来るようにし,完全となること」を目的としています。忘れてならないのは,教会のプログラムが人を神様のみもとへ導く力があるという知識と信仰が必要だということです。この基本となる信仰がないと,人は,自分の判断で,あるときは教会の教えを選び,あるときは社会のニーズを受け入れるようになります。確かに難しい選択があるのは事実ですが,最終的な目標が「昇栄」であることを決して忘れないでください。

これらの様々な「共有」の気持ちを持った希望あふれる人々が一同に会するカンファレンスをぜひ想像してみてください。日本の教会の次世代を担う若者たちが,自らを変える経験を共有し,信仰に基づく決意をする貴重な機会になることを関係者一同,心から願い,多くの出会いがあることを楽しみにしております。◆