リアホナ 2006年9月号 信仰の風景 沖縄戦を生き残されたことの意味

信仰の風景 沖縄戦を生き残されたことの意味

與座章健兄弟は,今年の5月12日,天皇陛下に謁見した。その経歴における社会貢献に対し褒章を受けるためである。沖縄出身の與座兄弟は,復帰前の琉球政府で金融機関を監督する部門におり,復帰後は大蔵省(当時)の出先機関である沖縄総合事務局財務部そして北九州財務局に勤務した。40代で退官して民間で働き,その後,沖縄の銀行に勤務する。企画部長から始まり70歳で退職するときには副頭取を務めていた。慣れぬモーニングに身を固めて姉妹とともに皇居へ出向いた與座兄弟は「精神的に緊張しましたね。わたしたちは戦中派ですから,天皇陛下というと……」と笑う。その表情に,あの沖縄戦への思いがにじむ。

太平洋戦争末期の1945年3月,沖縄は,間もなく上陸侵攻して来るであろう米軍の影に緊迫感が高まっていた。当時,首里にある沖縄県立第一中学校(旧制)の4年生(現在の高校1年生の年齢)であった與座少年は,来る沖縄決戦に備え学徒兵で組織された「一中鉄血勤皇隊」に入隊する。入隊には書類に親権者の捺印が必要であり,帰宅した與座少年が父親に事情を説明すると,「いよいよ入隊か,しっかり奉公してこい」と激励し,その晩は鶏をつぶして家族で壮行会をしてくれた。

けれども家族によっては,息子を失いたくない一心で判を押すことを拒み,「お前たち(子供)に戦ができるか,行くな!」と学校に帰さなかった親もいた。與座兄弟の隣村の出身で,同じ分隊に配属された学友はあるとき,食糧を補給するため自宅へ戻った。「家へ行って来るなあ」と與座少年に言付けて出て行った彼は隊に戻って来なかった。「恐らく,家に帰ったら,お父さんお母さんから戻らんで家におれと言われたんでしょうね。」そこで分隊長はこう言う。「與座二等兵,○○二等兵の家を知っているだろう,案内せい。」「(陸軍法規では)敵前逃亡は銃殺刑だ。」與座少年が,「知りません,彼の家は行ったこともないし分かりません」と答えると,それ以上の追及もなく話は終わりになった。──その学友は生き延びたけれども,戦後,同期生会など公式の場に一切,顔を出さなくなったという。「あのことがいつも頭の中にあったんでしょう。何もそんなこと気にする必要はないと思うんですけどね。(彼にとっては)沖縄戦の悲劇がまだ続いているんですよ。」

学徒兵の仕事は壕堀り,食糧の調達・炊事・水汲み,伝令など補佐的な役割が多かった。しかし米軍が4月1日に沖縄本島上陸を果たし戦線が迫って来ると,砲弾の雨をかいくぐっての水汲みや芋掘りは命がけの仕事となる。隊では教導兵による学徒兵への,いわゆる帝国陸軍式鉄拳制裁も日常茶飯事であった。しかし配属将校であった25歳ほどの篠原保司中尉(戦没)は,威張るところもない軍人らしからぬ軍人だった。教導兵らの私的制裁を厳しく責めるなど学徒兵たちに人望も厚く,兄のように慕われていた。

沖縄を守備する第32軍司令部壕は首里城の地下に築かれており,4月中旬に首里は激戦地となる。4月12日には学校の寮が,18日には校舎が炎上し,学徒兵にも戦死者が出た。運動場に集積してあった食糧も砲弾で焼け,隊の食糧事情は急激に悪化する。一中鉄血勤皇隊ではそれまでも体調の悪い者を優先的に除隊させてきたが,そうした事情により最後の除隊希望者を募ることとなった。

4月28日の夕日が沈みあたりが少し暗くなりかけたころ,壕の前へ全員が整列する。米軍の砲撃がやむ安全時間帯であった。篠原中尉は「体力に自信のない者は家に帰ってもらわねばならない。除隊を希望する者は手を挙げよ」と皆を見渡しながら言う。しかし去る者は非国民呼ばわりされかねない雰囲気で,手を挙げた者は少なかった。與座少年も,「戦争でどうせ死ぬなら家族と一緒に死にたい」と思ってはいたが手は挙げなかった。「よし分かった,じゃあわたしが指名するから,指名された者は一歩前へ。」そこで篠原中尉は隊列の中に歩み入り,一人一人の顔を確かめながら「だれそれは一歩前に出ろ,だれそれも一歩前に出ろ」と除隊者を指名していった。その指名された中に與座少年もいたのである。──「篠原教官に助けられた。最後まで鉄血勤皇隊に所属しておったら恐らく命はなかったでしょう。」その日除隊になったのは19人だった。

やがて首里を追われた軍や避難民は,沖縄本島の南端へと追いつめられて行く。戦地を逃げ惑うことになるのは民間人も軍人も同じだったが,入隊しなかった者の7割強,除隊した者の6割が生き残ったのにくらべ,隊員の生存率は3割にすぎなかった。

戦後,與座兄弟は琉球政府の金融検査官として,1972年沖縄返還に伴うドルから円への通貨切り替えを経験する。とりわけ本土復帰の前年,1971年8月にニクソン大統領が,1ドル=360円の固定相場制から変動相場制へ移行すると発表したことで,金融機関の現場は大混乱に陥った。保有する現金資産の為替相場が下落してどれほどの損失を被ることになるのか,県民が騒ぎ出したのは当然のことであった。その対応策を早急に極秘裏に練り上げなければならない。與座兄弟も,忙しさと守秘義務から家にも帰れない日々が続く。「4,5日一睡もしないで働いたこともあります。さすがにこれはきつかったですね。」

與座兄弟が歴史の転回の渦の中心で脇目もふらず働いていたとき,與座姉妹もまた人生の大きな節目にいた。宣教師と出会いレッスンを受けていたのである。フィリピンで父親が戦死し,不遇な少女時代を送った與座姉妹は,福音の説く理想の家庭像に強く惹かれた。1972年,沖縄本土復帰の年の11月に姉妹はバプテスマを受け,その後3人の子供たちも相次いで改宗する。

やがて復帰後の混乱も落ち着き,與座兄弟は沖縄から福岡の北九州財務局へ転勤になった。ここでは午後5時に皆,仕事を切り上げる。それまでの激務がうそのように平穏な役所勤めだった。ようやく身辺を振り返る余裕ができて,ふと気づくと,日曜日は姉妹も子供たちも教会へ行って,與座兄弟は独りきりである。「琉球政府時代にああいう激動の中を過ごして来たのと比較すると,あまりにも静かすぎるというか,このままじゃいかんなあという気がしていました。」息子さんも高校受験の時期を迎え,転勤の多い公務員生活では家族がバラバラになるという懸念もあった。宣教師から福音を学んだ與座兄弟は,1976年7月,公務員を“卒業”することにし,バプテスマを受け,家族とともに新しい生活へ踏み出した。

「わたしは気がついたら沖縄戦を生き残っておりました。何でなのかよく分からなかった。むしろ先に逝った連中の方が良かったのかなという感じすらしました。──(しかし,)生き残されたその意味が,教会員になった後にはっきり分かってきましたね。」

戦後を50年以上過ぎたころ,現在,東京神殿で副神殿長を務める大城朝次郎兄弟の母堂が亡くなり,與座兄弟はお悔やみの席を訪れた。その席で奇遇にも,戦没した,中学時代でいちばんの親友のお姉さんに出会った。親友は姉3人の弟でその家にただ一人の男の子であり,両親は「勤皇隊には戻らんでいい,家にいなさい」と引き留めたけれど,それを振り切って学校へ戻って行った。「それが弟を見た最後でした」とお姉さんは涙ながらに語る。彼の父親は戦後7,8年過ぎるまで毎夕,行方不明になった息子の帰りを待って門の前に立っていたという。その両親もすでに他界されていたが,與座兄弟は遺族を訪れて特別に許可をもらい,親友とその親族のために神殿で身代わりの儀式を執り行う。そのようにして,戦没した学友2家族の儀式を行ったという。「まだまだたくさんいるんですよ,戦死した皆さんが。」沖縄戦戦没者二十数万人,「この方々の儀式をするのがわたしたちの務めです。そのためにも早く沖縄に神殿を……。でもまだ会員が少ない。だから伝道がいちばん先だと。」退職後に神殿宣教師となり,2004年から今年の春まで1年半,在宅夫婦宣教師として働いた與座ご夫妻。「宣教師のすばらしさ,やってみて分かりました。その喜びは非常に大きいですね。だから,命あるかぎり伝道を続けたいという気持ちがありますね。」◆