リアホナ 2006年9月号この町に末日聖徒 あらゆる国々,島々にまで福音が宣のべられ

この町に末日聖徒  あらゆる国々,島々にまで福音が宣のべられ

── 多国籍都市ロンドンで奮闘する日本人ステーク会長

水野裕夫兄弟は6年前,日本企業のロンドン駐在員として渡英した。すぐに現地の教会で監督会に召され,さらに2年前にはステーク会長に召された。水野ステーク会長がその召しを受けるに当たっては「不思議な経緯」があったという。

主によって道が備えられた召し

水野兄弟は2004年7月,イギリスでの駐在の責任を終え,長年勤めた会社を退職して家族でポルトガルに住む決心をしていた。家財を日本に送り返し,必要なものだけをポルトガルに送り,ロンドンのワードの会員たちから心温まる送別会もしてもらった。ところが出発の2日前にポルトガルの家主から連絡が来る。「家の水が出ないので,出発を延ばすように」と。しかしロンドンでの住居も退室手続きを済ませており,家族の住まう所がない。ロンドンの住居費は異常に高く,駐在員のときは会社持ちだったが,とても自分で払える額ではない。家族でどうするかよく祈り,結局は事情を説明して短期間,家賃を少しでも負けてもらえるよう家主と交渉することにした。すると家主はこう答える。「あなた方家族は今までほんとうによくしてくださり,われわれにとっては家族と同様です。新しい借り手が見つかるまで家賃は要りませんので自由に使ってください。」──思いがけない厚意に水野兄弟は信じられない思いだった。

夏休み時期と重なったこともあり,ポルトガルの家の修理はまったく見通しが立たなかった。そのうちロンドンの人材派遣会社から仕事が紹介され,面接後すんなりと採用されてしまう。水野兄弟はロンドンでの家探しを始めた。しかし家賃は高く,安いところは環境が悪いか家が非常に古いかだった。再び家族でよく祈ると,その翌日不動産屋に,通常では考えられない家賃で広い家を紹介された。この家は何か問題があって特別に安いのか,と心配したけれど何の問題もなかった。「こうしてわれわれの生活が,意図していなかった方向にどんどん進んでいきました」と水野兄弟は振り返る。

日本人が海外で働くには労働ビザが必要である。会社は水野兄弟の労働許可を申請するが,2か月後,申請が却下されたとの連絡を受けた。担当の弁護士によると,水野兄弟の場合,別の方法で労働許可を取る方法があるという。しかしこのビザは,申請してから許可が出るまで通常6か月はかかるとのことだった。すでに10月に入っており,水野ご家族はよく祈って,もし年内にビザが下りなければ日本に帰ろうと決心した。

「11月第1週の金曜日,この日をわたしは決して忘れません」と水野兄弟は回顧する。──「午前9時,弁護士から連絡がありビザが取れたとのこと,申請からたった1か月でした。わたしには主の御手がわたしの申請書に触れたとしか考えられませんでした。そしてその1時間後の午前10時,ステーク会長から連絡があり,責任のことで面接をしたいのでステークセンターまで来てほしいとのことでした。労働ビザ許可の連絡があったすぐあとにこの面接の電話がかかってきたこともわたしには不思議でした。もしビザが下りていなければいかなる責任も受けることはできませんでした。」

ステークセンターでは何人かの兄弟たちが面接を受けていた。水野兄弟も面接を受け,その後もう一度,ヨーロッパ西地域会長会会長に招じ入れられる。──「イエス・キリストの御名によりあなたを,ロンドン・ワンズワースステークのステーク会長に召したいと思いますが,受けていただけますか」と言われたとき,水野兄弟の頭は真っ白になった。

「わたしの英語力,海外における教会での経験などからしてもとても果たせる責任ではなく,何かの間違いだと思いました。」戸惑いの中,そのとき一時帰国していた姉妹に電話で相談すると,責任を受けるようにと励まされた。姉妹の言葉を聞きながら水野兄弟は,主が道を備えられたかのようなこの4か月間の不思議な経緯を走馬灯のように思い出していた。「主がおっしゃっているように,自分の持てる力以上に走る必要はない。肩の力を抜き,主にゆだねたとき,わたしは聖霊にしっかり支えられたと感じました。」

国際都市ロンドン

こうしてステーク会長に召された水野兄弟は,80か国以上から集まった約2,000人の聖徒を見守ることとなった。第二次大戦後の復興期に旧大英帝国連邦内から大量の移民を受け入れ,さらにEUの統合により人・物・情報のボーダレス化に拍車のかかる今日のイギリス。その首都として文字どおり「人種のるつぼ」となったロンドンでは教会員の国際色も豊かである。都心のロンドン・ワンズワースステークでは7割を移民など海外出身の会員が占め,住民の多くが白人である郊外でも3割ほどの会員が海外出身である。ロンドン郊外のワットフォードステークヘイズワードで大祭司グループリーダーを務める原伸二郎兄弟はこう話す。「英国人は一般に宗教にはあまり興味がないようですが,米国に対する全般的な嫌悪感もあり,アメリカの宗教と見なされているモルモンはいまだかなりマイナーな存在です。また,文化的にパブ(酒場)でサッカーを見るという土地柄から,知恵の言葉に従うことは,アイルランドや英国ではかなりの社交的な犠牲を払うことになります。したがって,水野兄弟の属しているワードもわたしのワードも最近の改宗者のほとんどは英国人以外の移民の人たちです。」原兄弟のワードでは監督がアルメニア人,副監督がイギリス人とインド人,大祭司G Lが日本人(原兄弟),長老定員会会長がアメリカ人,日曜学校会長がガーナ人,初等協会会長がギリシャ人。水野兄弟のステークも同様に,ステーク会長会は全員違う国の出身で,高等評議員会は7か国にまたがる。水野兄弟らが助けに奔走する問題も日本とは様子が異なり,外国から働きに来ている会員の失業やビザ切れ,また異常に高い住居費とも相まって文字どおり明日の食物にも事欠くような経済的困窮など,深刻かつ切実である。ソ連の崩壊など政治的激動に翻弄されながらやっとの思いで英国にたどり着いたり,家族が離れ離ばなれになりながらも何とか英国へ呼び寄せようと懸命に働いていたりする人もいる。それでも彼らは全般的には,明るくリラックスして教会員生活を送っているという。

御霊によって支えられ

2005年7月7日午前8時50分ごろ,ロンドン同時爆破テロ事件が発生した。水野兄弟はこの朝,いつものように地下鉄で通勤していた。突然,電車が止まり,理由も知らされないまま全員が降ろされ地下鉄構内から地上に出される。バスも全面的に運行を停止していたので,水野兄弟は仕方なく歩いてオフィスにたどり着き,そこでようやく事態を把握した。地下鉄の3か所で同時に爆発が起こり,その1時間後にバスが爆破されていた。地下鉄爆破のうち1か所は水野兄弟のオフィスのすぐ近くであり,一切,外に出ないようにと警察に足止めされた水野兄弟は,やむなく高等評議員らに職場から電話をかけ,会員の安否を直ちに確認するよう指示した。

このときの連絡がスムーズに行えたのは,事件の少し前にステークと各ワードの連絡網が完備されていたからである。この年の4月から5月ごろ水野ステーク会長は,ステーク内にそれまでなかった「連絡網をつくるべきだ」との強い促しを感じる。霊感に従ってステークの指導者とステーク内のすべてのワードに指示し,連絡網を完成させたところに事は起きた。このテロは56人が死亡する痛ましい事件となったが,教会員で被害を受けた人はいないと分かった。──「ステーク会長になってから,御霊の導きをすごく受けます。与えられた特権でしょうね」と水野兄弟は話す。

水野兄弟は,英語の日常会話や読み書きに不自由はないものの,祝福や任命などの儀式で,文語的な特殊な用語の入る祈りの言葉を述べるのが苦手だという。「日本語だったら美しい表現ができるわけですけど,(英語では)飾った言葉が一切言えないんです。」そのもどかしさに涙が出ることもある。しかし,言葉が十分でないところを御霊が助けてくださる,と水野兄弟は語る。「思わぬ言葉が出て来るし,知らない言葉,使ったことのないような言葉も出てきますよ……現地の人から見ればたぶん,稚拙な言葉だと思います。でも彼らはすごく美しい祝福でしたと言ってくれます。」それについて原兄弟はこう話す。「わたしから見ると,水野兄弟を召した地域会長会も,言葉じゃないものを感じて召されただろうし,また実際に今従われている(ステークの)方々もそこを感じていらっしゃると思うんです。」

会員たちが証を述べる様子も日本とは違う。日本人は何らかの経験談を話し,その実例を通して(例えば)主は生きておられる,と証する。けれどもロンドンの会員たちは経験などは話さずただシンプルに,しかし心の底からの真情を込めて,主は生きておられる,と証するという。証会で話者が途切れることはまずない。泣きながら証する会員のために壇上にはティッシュペーパーの箱が置かれている。

そうした証と同様に,会員たちは真情あふれる率直なやり方で水野ステーク会長に敬愛の情を示してくれる。小さな子供まで一生懸命練習した日本語であいさつしてくれる。「何をしても褒めてくれるんです。」心もとない異国で独り奮闘する身にとってそれは何よりの慰めとなる。

「数週間前の日曜の夜,ロンドン神殿の神殿長夫妻を招き,神殿ファイヤサイドが開かれました。このファイヤサイドのために各ワードから選ばれた特別聖歌隊が組織されていました。約40人近い聖歌隊が歌う美しい前奏曲,そして開会の歌に皆感動しました。やがて聖歌隊は『主イエスの愛にただ驚く,恵みの深きにわれ惑う』ときれいな日本語で歌い出したのです。わたしと姉妹はほんとうにびっくりしました。その歌声を聴いているとき,深い感動がやがて涙となりました。わたしたち二人のためにどれほどの時間彼らは練習をしたのでしょうか。大半の人は日本語を一度も聞いたことがない人たちでした。──『ああ我がため主は死にたもう奇しきみ業,ああ,奇しき主のみ業』──この感動的な賛美歌が日本語でわたしの胸に入ってきます。このときわたしはロンドンでのステーク会長という重さがふっとなくなりました。人々はわたしを愛してくれているのだと,わたしが一人で意気込まなくともみんなが一緒なんだと,この聖歌隊を通して会員の心を受け取ることができました。ステーク会長の責任を通し,愛する国を遠く離れ,どこにいても,国籍がいかに違っても,われわれは主の王国の兄弟姉妹であるという愛ときずなを強く感じられることを深く感謝しております。」◆