末日聖徒イエスキリスト教会 リアホナ2006年1月号夫婦の履歴書 会員と宣教師が一つとなって

夫婦の履歴書 会員と宣教師が一つとなって

── 2組の夫婦宣教師の出会いから生まれたもの

~日本広島伝道部夫婦宣教師嶋田ご夫妻・土田ご夫妻~ 

伝道本部のことを英語で「ミッション・ホーム」という。神戸の港を見下ろす六甲山の登山口近く,神戸ワードに隣接する旧神戸伝道本部の広い建物に,今,2組の夫婦宣教師が住んでいる。嶋田晴彦長老・愛子姉妹,そして土田勝長老・準子姉妹の4人である。彼らは文字通り家族のように仲睦まじく,伝道の家,ミッション・ホームに暮らしている。

ヒーバー・J・グラントら最初の宣教師が1901年の日本上陸直後に下宿した横浜山手居留地の近くで,嶋田ご夫妻は30年近くにわたりケーキ屋を営んでいた。経営は順調だったものの,愛子姉妹のかねてよりの希望もあり,晴彦長老が60歳を迎えたのを機に店をたたんで夫婦伝道に出た。任地は広島伝道部の神戸。横浜と風情の通ずる港町である。

土田ご夫妻は,かつてステーク会長や日本札幌伝道部の部長を務めたほか,JMTC所長,初代の福岡神殿長を歴任するなど経験豊かな宣教師である。夫婦伝道を始めたのは嶋田ご夫妻と同期の2004年夏,任地は広島伝道部の高松だった。

着任した嶋田ご夫妻はまず,教会から足の遠のいている会員のリストを手に,そのすべてを訪問するところから伝道活動を始める。嶋田ご夫妻は車で回って,2つのワードで900近くある住所を一軒一軒訪ねた。「……もう何十年も(教会に)行っていないから,いいです。」断られるばかりでがっかりすることもしばしばである。そのうち,リストの中には30年,40年と遠ざかっている人々がたくさんいることに気が付いた。嶋田ご夫妻の訪問によって教会に再び集うようになった一人,40年前に支部長を務めていた兄弟は嶋田ご夫妻にこう漏らす。「わたしたち古い会員は,教会に戻るきっかけを待ってるんですよ。でも,(きっかけがないので)戻れない。」

それでは,旧神戸伝道部時代の古い友達を招いて食事会でもしようか,という話が自然と出てきた。1968年,北部極東伝道部の分割によって生まれた日本沖縄伝道本部(後の日本中央伝道部/日本神戸伝道部)が神戸に置かれる。1972年には日本で2番目のステークが大阪に組織され,初代ステーク会長に神尾昇兄弟が召される。神尾兄弟をはじめ,そうした躍動感に満ちた発展的分割の時代に教会を支えた人々が嶋田ご夫妻の担当地域にたくさんおられた。彼らは,多額の地元負担金を献金して建築宣教師とともに教会堂を建てたり,ハワイ神殿参入を目指したりといった時代に,大きな犠牲を払って今日の教会の基礎を築いてくれた開拓者たちだった。

1 0 月1 5日,「1 9 6 0 ~1970年代開拓者のつどい」が,宣教師宅である旧神戸伝道本部で開かれた。

嶋田姉妹と土田姉妹が料理の腕を奮う中,前述の神尾兄弟をはじめ63人の兄弟姉妹が集い,あちこちで昔話に花が咲く。教会から足の遠のいている兄弟姉妹も13人ほど参加されていたが,だれがそうなのか全く区別の付かない和やかな集いであった。

会員と宣教師がともに働くとき……

一方,土田ご夫妻も高松で,400余りの住所を尋ね歩く日々が続く。土田ご夫妻が心がけたのは,教会から遠ざかっている会員たちと信頼関係を築いて,どうして教会に来なくなってしまったのか,その理由を話してもらうことである。

そのうち,高松の隣り,20数キロの距離にある坂出支部にも毎週水曜日に足を伸ばすことにした。坂出は,岡山からっている人,訪問したい人を挙げ,彼らに訪問の約束を取り付けること。支部長会と扶助協会会長会の6人のうち,だれか一人と毎回一緒に訪問すること。「彼らは約束の時間をセットしてわたしたちを招いてくださいました。」そして昼間は扶助協会会長会の一人,夜は支部長会の一人とともに,3人での訪問が始まった。

その直後の安息日の夜8時半。高松の土田ご夫妻のアパートに,突然,末澤俊明支部長ご夫妻が訪ねてきた。「今日,あの兄弟が教会に来て証をしてくださったんですよ!」興奮の面持ちで話す末澤支部長。4日前にともに訪問したばかりの会員が,実に約25年ぶりで教会へ足を運んだのである。感激の思いを直接伝えるべく,わざわざ高松までやって来たのだった。「会員と宣教師が一緒に働くこと,それが鍵です。」そう土田長老は語るが,これは土田ご夫妻が伝道部長時代からの経験によって培った確信である。坂出での彼らの働きは順調に滑り出した。

──そんなとき,神戸への突然の転任が屋富祖伝道部長より告げられるのである。夫婦宣教師に転任はないと思っていた土田ご夫妻は驚く。2005年8月,若い宣教師の転任と違って,アパートの解約から生活用品の引っ越しまで大がかりな手続きに追われつつ,取るものも取りあえず神戸へと向かう。そのときには分からなかったこの転任の意味を,土田ご夫妻は後にかみしめることになる。

夫婦宣教師が任地に残せるもの

この秋,嶋田ご夫妻と土田ご夫妻は,北六甲ワードで伝道ファイヤサイドを開いてほしいという招待を受けた。そこに大きな可能性を感じ取った彼らはそれかぎにこたえるべく,全力を尽くして準備に取り組み始めた。

そのベースとなったのは,2005年2月に大管長会・十二使徒定員会により承認,発行された『ワードの伝道活動』(00047300)という4ページの手引きである。そこには会員と宣教師がいかに協力して,伝道活動や再活発化に取り組むかが指示されている。──しかし,彼らのファイヤサイドは,単に長老・姉妹たちがお話をして終わるようなものではない。

聖餐式のあと,土田長老のお話でファイヤサイドは始まる。それは定例集会の時間をすべて充てた2時間半にも及ぶものである。お話が終わると,ホワイトボードが持ち出される。そこには視覚資料が所狭しと張られている。ワードでの伝道調整集会にだれが出席してどのように行われるか,小道具を駆使して一通り説明した後,やおらプラカードを首から提げた夫婦宣教師と若い宣教師たちが「理想的な伝道調整集会」のスキット(寸劇)を始めるのである。劇中の集会では,様々な個人の事情,起きたエピソード,進状況歩,対応策について採り上げて話し合われる。特筆すべきは,それらのエピソードや状況のすべてが,嶋田ご夫妻・土田ご夫妻のこれまでの夫婦伝道で出会った事実に基づいているということである。本人に承認が取れている場合は実名で,そうでなければ仮名で話されるが,演じている彼らが実際に遭遇した出来事であることに変わりはない。自然と口調に思いが込められ,その場の人々は聞き入ってしまう。

また,会場で指名された人が前に出て,宣教師になったつもりで,あまり活発でない会員を戸別訪問するロールプレイ(役割演技)が行われる。ドアベルを押すところから始めて,中から夫婦宣教師の演じる訪問先の人が出てくる。宣教師役に指名された人の使命は,彼らがなぜ教会に来なくなったのか,その理由を聞き出すこと。それを即興で演じることになる。出てきた訪問先の人がどのような反応をするかは分からない。ある場合は「教会は戒めが厳し過ぎますよ」と話し,ある場合は出て来るなり「しつこいぞ,帰れ!」と怒鳴る……ユーモアたっぷりの夫婦宣教師の演技に会場は湧くけれども,これらもすべて,夫婦伝道の中で実際に彼らが出会ったケースが基になっている。

時に名答が出ることもある。初等協会の子どもが宣教師役を演じたとき,訪問先の人(土田姉妹)はこう言う。「長年かわいがっていた犬がこの春死んだから,悲しくて悲しくて」……対してその女の子はこう話した。「気持ち分かります。わたしもハムスターが2匹死んじゃったとき,とても悲しかったから,その気持ちは分かります」──純粋な思いで相手の気持ちに寄り添う言葉を発したその子に,演技でなく心を動かされた土田姉妹は,思わず彼女を抱きしめてしまったという。「わたしたちは(教会に来なさいと)説得するのじゃなくて,相手の気持ちを優しく受け入れて共通基盤を築くことが大切ですよね」と嶋田長老は話す。

会員宅を何百軒と訪問する中で夫婦宣教師がこれまで蓄積してきた様々な人生模様に触れ,いつしか会員たちは,伝道の現場に立ち会っているような気持ちになってくる。人の変化に立ち会う喜びや,伝道が愛の行いであることも実感として分かってくる。

10月30日,北六甲ワードでのファイヤサイドは,「60点の出来です。思ったように行きませんでした」と彼らを落胆させたが,このファイヤサイドを機に北六甲ワードは変わり始めた。若い宣教師たちは毎日,会員から食事に招かれ,毎日,あまり活発でない会員宅を会員とともに訪問するようになったという。また,たまたまその場に居合わせた神戸ステーク会長会の兄弟が「すばらしいファイヤサイドでした」と推薦したことから,ステーク会長会の要請と伝道部長の指示によって,神戸ステーク内の全ワード/支部で同様のファイヤサイドが行われることが決まった。すでにその予定で,彼らの1月までのすべての日曜日は埋まってしまっている。

嶋田ご夫妻・土田ご夫妻が額を寄せ合うようにして練り上げたシナリオはこれまで改訂に改訂を重ね,使用したコピー枚数は延べ500枚を超えるという。

土田長老はこう話す。「高松での1年が過ぎて,止めることのできない主の御業は,宣教師だけでは効果的に進めることができないことを知りました。会員の方々の周到な準備と犠牲,愛と信仰,助けがあってこそできると実感しました。」同じ1年,神戸で過ごした嶋田ご夫妻も大きくうなずく。「会員と宣教師の連携,それがいちばん大切です。自分たちが帰還した後も会員たちの働きによって活発化が進められると信じています。わたしたちには共通の価値観と感性がありました。土田ご夫妻と出会ったからこそこのデモンストレーションができたんです。一緒に働くことになったのは決して偶然ではありません。」◆