リアホナ2006年2月号この町に末日生徒11 “人を喜ばせる”技術者魂の原点をつくる

この町に末日生徒11 “人を喜ばせる”技術者魂の原点をつくる

── 歯車一つから手作りした,世界初の蒸気機関車「ペニダレン号」の模型を英国で寄贈

~静岡ステーク清水ワード 興津俊夫兄弟~

世界初の蒸気機関車は,と問われれば,多くの人がスティーブンソンのロケット号,と答えるだろう。ところがスティーブンソンに先立つこと四半世紀,リチャード・トレビシックが世界で初めてレールを走る蒸気機関車を製作したことはあまり知られていない。当時の軌道が機関車の重量に耐えきれず実用化にまでは至らなかったものの,ユニークな形をした「ペニダレン号」が産声を上げたのは,英国・ウェールズのマーサ・テッドビルにあるペニダレン製鉄所,時にイギリス産業革命の最中,1804年のことであった。

静岡ステーク清水ワードの興津俊夫兄弟は静岡市に生まれ育った。高校の電気科に在学中から無線通信に憧れてアマチュア無線の免許を取る。さらに高校卒業後は一念発起して国家資格の電気主任技術者に挑戦,合格する。清水市の船舶無線の会社に入社して電気技術者としてのキャリアを積み,そのころ静岡の街頭で宣教師と出会って24歳で改宗。後に,実兄が脱サラして創業した鉄工所でともに働くことになり,電気に加えて金属加工や機械製作の技術をも身に付けることになる。

そのころ,工場の壁に1枚のスケッチ画が貼はられていた。それはトレビシックが1804年に作った世界初の蒸気機関車「ペニダレン号」である。東京・上野の交通博物館でスケッチされたものらしく,いつかこの復元模型を作りたい,と兄は話していた。日ごろの忙しさの中でなかなか果たせなかった兄の夢を,後に弟の興津兄弟が引き継ぐことになろうとは,当時考えても見なかったという。

ペニダレン号,始動

12年前,興津兄弟は改宗当時からの静岡支部の先輩であり盟友である土屋和彦兄弟と共同経営で,兄の工場からのれん分けしたプラスチック加工の会社を興した。経営は順調に推移し,今では70人ほどの従業員を抱える企業に成長している。そろそろオリジナルの自社製品を開発したい,というとき,興津兄弟の脳裏によみがえってきたのはあのスケッチ画であった。産業革命の立て役者であり,すべての技術者の原点でもあるあの「ペニダレン号」を作ってみたい。鉄道模型製作を手がけた経験などなく,すべてがゼロからのスタートだった。

資料集めのため交通博物館を訪れ,新潟の博物館に模型があると聞けばそこにも足を伸ばす。鉄道模型製作の老舗に聞くと,スティーブンソンの機関車はあっても,ペニダレン号の模型は国内では例がないという。やがて構想に取りかかるうち技術者魂がうずいてきた。単なる静止モデルでは飽き足らない。モーターを組み込んで,ピストンやギアの動きを見ることのできる可動式モデルを作ろう。さらにセンサー感知により,人が来ると自動的に往復運転をして台座中央で静止するようにしよう。どんどんアイデアはふくらんでいった。

20分の1縮尺の設計図面に従い,NCフライスやNC旋盤などコンピューター制御の加工機械で一個一個真鍮から部品を削り出していく。部品を組んではばらし,試行錯誤を繰り返しながら細部を調整する。電源はレールから取る。車体全体が真鍮でできていることもあり,プラスとマイナスがショートしないよう絶縁には気を遣った。モーターはさらに難物である。真鍮製の1キロ余りある車体を動かすには強いトルク(回転の力)が要る。しかし本体内に収まる小さなサイズで必要なトルクを得られるモーターはなかなか見つからない。力があっても大きすぎたり,駆動音がうるさかったり……インターネットを駆使して探し回り,取り寄せてテストしたモーターは5個,ようやく「これは」と思うものに巡り会うまで3か月以上かかった。

才能は人のために

「もっと先端的なノウハウを持っている方から見れば大した技術ではないかもしれません」と興津兄弟は謙遜する。しかし,ノウハウなど何もないところから完成に漕ぎ着けたことへの確かな自負は,興津兄弟の表情に刻まれている。

「決して学業優秀ではなかった」という興津兄弟は,「何かこれだけで終わっちゃうのは悔しいなあということで国家試験を目指して,取って。それがものすごいバネというか自信になったんです。」そうして電気技師として技術者人生をスタートし,兄の鉄工所で機械製作をも自分のものにしてきた。この小さな「ペニダレン号」には興津兄弟の人生の軌跡が象徴されているのである。

「わたしは専門馬鹿みたいなところがあって,電気のこと,ものを作ることでは負けないよと。何か一つでいいから自分に自慢できるものがあれば,という思い,それを支えにね。決してレベルは高くないかもしれません。(最先端の)人と較べることはしないことにしているんです,競争にならないので(笑)。でもやっぱり自分にできる範囲で自分の能力を一生懸命高めていく。自分を一歩持ち上げていくという努力は常日頃していきたいと思います。」人との比較ではなく,自分なりに一歩先を目指す。そこにはヒンクレー大管長の「もう一歩善い人になりなさい」とのメッセージに通じるところがある。

かつて興津兄弟は兄とともにNCフライス(コンピューター制御で自動的に設計通りの形を材料から削り出す機械)を自社製作したことがある。数百万を払ってメーカーから購入すれば簡単だが,技術者としての興津兄弟はそれを潔しとしなかった。持てるすべての経験を投入して自作したその機械は今でも,工場の多くの工作機械とともに現役であり,ペニダレン号模型製作にも活躍した。「そういったものができたというところでね,ほんとにわたしは幸せな,恵まれた,祝福された人生を,技術屋として歩んで来れたなあと思っています。」自分の技術でものを作ることができ,それが人の役に立つという自信が,興津兄弟を幸福な技術者にしている。

「わたしは指導者という立場でも若い兄弟姉妹たちにもよく言っていたんですけど,自分の持っている能力や才能や技術は,やっぱり世のため人のために貢献して,人に喜んでもらって初めてその喜びが倍加する。自分の趣味とか自己満足だけで終わってはいけないと,技術者としても思いますね。」

人に喜ばれる技術

インターネットを通じて資料を集めるうちに,トレビシックの生地キャンボーンで彼の業績を保存顕彰する「トレビシック協会」があることが分かった。メールのやりとりをするうち,はるか日本でトレビシックの事績に関心を持つ興津兄弟らの存在を喜ぶ協会関係者との繋がりができ,そうした中から,完成した記念すべき第1号モデルをトレビシック協会に寄贈しては,との提案が土屋兄弟から出される。そうして2004年4月,製作者として興津兄弟と社員の勝山賀夫さんの二人がイギリスへ渡ることになった。

「あれほど喜んでもらえるとは予想もしていませんでした。」現地では,そう興津兄弟がふり返るほどの歓迎ぶりだった。到着した駅のホームには,トレビシック協会の会長とともに町長自らが出迎えてくれた。地元の小学校では,ペニダレン号200年を記念して子供たちが壁画を制作し,そのお披露目に招かれた興津兄弟らが除幕の栄誉を与えられるなど,どこへ行ってもVIP待遇で歓迎される。

いよいよトレビシック機関車200年の功績を記念する「トレビシック・デー」の当日。贈呈式に臨み,模型を手渡して万雷の拍手に包まれたときは「感激と興奮で身体が震えた」という。さらに,金色に輝くペニダレン号の模型を掲げ,街中をパレードで行進する栄誉にも浴した。自分の作り上げたものが多くの人に喜ばれ,そこから国を超えて波紋のように人の輪が広がってゆく。200年前のトレビシックも,自らの技術で人を驚き喜ばせたのであろう。これほど技術者冥利に尽きることはかつてなかった,と興津兄弟はふり返るのである。◆